元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「コロンバス」

2020-06-13 06:55:08 | 映画の感想(か行)

 (原題:COLUMBUS)狙うところは分かる。映像も魅力的。ただし薄味でインパクトに欠ける。聞けば2017年度のサンダンス映画祭をはじめ23の映画祭にノミネートされ、8冠を獲得したとのこと。確かにあちらの評論家にとってウケが良さそうな清澄な雰囲気はあるのだが、もう少しエンタテインメント方向に振れるか、あるいは徹底して高踏的でアーティスティックな路線で迫るか、いずれかにしないと印象が薄くなるのは仕方が無い。

 インディアナ州コロンバス在住の高名な建築学者が突然倒れてしまう。息子である韓国系アメリカ人のジンはソウルから駆けつけるが、父の容態が変わらないためこの街にしばらく滞在することになる。彼は地元の図書館で働いている若い女ケイシーと知り合う。彼女は高校は出たものの、薬物依存症の母親の面倒を見るためコロンバスから離れられない。

 実はジンは父親とは上手くいっていなかった。そのため若い頃にすぐに家を出たのだが、父が倒れた後に初めてそばにいることになったという成り行きに皮肉なものを感じる。一方ケイシーは、講演で知り合った建築学の教授から遠方の大学に行くことを奨められていた。

 脚本も手掛けた新人監督のコゴナダは、小津安二郎の多くの映画で脚本を手がけた野田高悟にちなんでそう名乗っているらしい。なるほど、フィックスなカメラで背景を切り取ってゆく撮影スタイルは小津作品に通じるものがある。しかし、洗練の極みで登場人物達の孤独を掬い上げていた小津の映画と本作とは、内容は似ても似つかない。この映画はよくある家族の確執を、平易に取り上げているだけだ。それ自体は別にライトな題材ではないが、筋書きが凡庸に過ぎる。

 ジンやケイシー、そして他のキャラクターにも感情移入はしにくく、その表面的な作劇を(この地の名物である)モダンな建造物群の描写で糊塗しているように思える。その建築物自体は見事でそれを捉えた映像も捨てがたいのだが、物語との強い繋がりは最後まで見出すことが出来なかった。主演のジョン・チョーとヘイリー・ルー・リチャードソンの演技は悪くないが、困ったことに小津映画に出てくる俳優たちの存在感にはとても及ばない。

 なお、コロンバスという街を本作で初めて知ったが、映画で描かれている通りここは建築デザインで有名であるらしい。特にエリエル・サーリネンによるファースト・クリスティアン・チャーチや、エーロ・サーリネンによるアーウィン・ユニオン銀行の存在感には目を見張る。アメリカの隠れた観光地の一つだろう。
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「エル・スール」

2020-06-12 06:15:08 | 映画の感想(あ行)
 (原題:EL SUR)83年作品。監督はスペインのビクトル・エリセだが、彼はそれまで1963年に映画監督の資格を取ってから「決闘」(69年)でオムニバス形式一話を担当したほかには、傑作「ミツバチのささやき」(73年)しか撮っていない。さらに本作以後には「マルメロの陽光」(92年)があるのみだ。

 斯様にエリセは極端な寡作だが、それは商業主義との妥協を拒否した結果だという。もっとも、いたずらに高踏的な線を狙っているわけではなく、語り口は観客の方を向いている。この「エル・スール」は彼のそのスタンスを反映した作品で、静謐かつ強い訴求力を持つ好編だ。



 50年代のスペインの北部のある町に、8歳の少女エストレーリャと両親が住んでいた。父は振り子を使って、胎児の性別や荒地の地下水脈を探し当てるというオカルティックな仕事をしており、エストレーリャは父のその神秘的な力を敬愛していた。少女はある日、父親の机の引き出しに一人の女性の名が数多く書き込まれたノートを発見する。それはラウラという映画女優の名だったが、エストレーリャは同時に彼女が父のかつての恋人であったらしいことに気付く。その秘密を娘に知られたことをきっかけに、父は次第に酒におぼれるようになっていく。

 映画は父が帰ってこないことを察知した15歳のエストレーリャの回想で進み、やがて父の故郷である“南(エル・スール)”の町に彼女が旅立つまでを描く。話の内容は、神秘的なパワーを持ち万能だと思っていた父親が、実は昔付き合っていた女のことを忘れられない“俗物”であったことを知り、父が戻ってこないと分かった時点で、娘が父の本当の内面を探ろうとするものだ。

 映画はその経緯を明かさないが、そこには単なる色恋沙汰を超えた深い真相があったことを暗示させる。両親と決別し、好きな女とも別れて北の町に移り住んだ父の孤独。傷心のあまり女優を辞めてしまったラウラの孤独。そして南に向かうエストレーリャは、その旅で父と会えない孤独が癒えるわけでもなく、また新たな孤独と出会うだけだろう。そんな孤独との邂逅こそが、人生の機微ではないかと問うているようなエリセのスタンスには、大いに共感するものである。

 ホセ・ルイス・アルカイネのカメラによる映像は、しびれるほど美しい。父を演じるオメロ・アントヌッティの、苦悩を抱えて生きる男の造型は素晴らしい。エストレーリャに扮するソンソレス・アラングーレンとイシアル・ボリャンが、本当にそのままヒロインが成長した様子を体現しているのにも感心した。
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「マーダー・ミステリー」

2020-06-08 06:56:26 | 映画の感想(ま行)

 (原題:MURDER MYSTERY)2019年6月よりNetflixで配信されたコメディ・ミステリー。本国の評判は良くないらしいが、個人的には大いに楽しめた。コロナ禍によって遠出もできず、漫然と家にいることが多かった時期に、こういう何も考えずに向き合えるお笑い編を観られたことは絶好の気分転換になり、実にありがたい。

 ニューヨークの警官ニック・スピッツは、いい年なのだが未だ平巡査のまま。最近も何度目かの刑事任用試験に落ちてしまった。そのことを妻のオードリーに打ち明けられないまま、2人は念願のヨーロッパ旅行に出かける。飛行機の中でオードリーはファーストクラスへ忍び込み、大金持ちのチャールズと知り合う。その縁でニックとオードリーは、チャールズの船上でのパーティーに誘われる。

 ところが席上で大富豪のマルコム・クィンスらが殺されるという事件が発生。早速名探偵気取りで捜査を開始するニックだが、現場を仕切るモナコ警察のドラクロワ警部補は、当日突然パーティーに参加した部外者のニック夫妻が怪しいとにらむ。さらに犠牲者が増え、とうとうニックたちは容疑者と断定されて警察に追われるハメになる。

 動機も物的証拠もないニック夫妻が、訳ありのマルコムの親族たちを差し置いて疑われるのはおかしいし、展開も多分に御都合主義的なのだが、そこは本格的推理物とは一線を画したコメディ路線に作劇が振られているため、さほど気にならない。

 何よりニックとオードリーのおとぼけ夫婦が最高だ。演じるアダム・サンドラーとジェニファー・アニストンは絶好調で、下ネタ中心のギャグで延々とボケまくる無双ぶりに“早く誰か突っ込んでやれよ”と笑いながら呟いてしまった。さらに、周囲の者たちがニックが刑事に採用されなかったにも関わらず刑事と称していることを、しつこく追求しているのも愉快だ。

 序盤の御膳立ては本格ミステリーだが、次第にヒッチコック作品のような“追われながら事件を解決する話”がオフビートに展開してゆくあたりも上手いと思う。さらにニック夫婦だけではなく、他のキャラクターも濃い。それぞれに一発芸的な見せ場が用意されているあたりも周到だ。カイル・ニューアチェックの演出はスピーディーでフットワークが軽く、お笑い場面と活劇シーンを良い案配で並べている。

 終盤のカーチェイスは見応えがあるし、まさかのオチから(ミステリー好きが喜びそうな)気の利いた幕切れまで、飽きさせることはない。ルーク・エヴァンスにジェマ・アータートン、テレンス・スタンプ、ルイス・ヘラルド・メンデス、ダニー・ブーンそして忽那汐里と、脇の面子も賑やかだ。モンテカルロからミラノ、コモ湖、サンタ・マルゲリータ・リーグレとロケ地は風光明媚な場所ばかりで、観光気分も存分に味わえる。
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NHK「デジタルハンター 謎のネット調査集団を追う」を見た。

2020-06-07 06:29:21 | その他
 去る5月17日にNHK-BS1で放映されたドキュメンタリー「デジタルハンター 謎のネット調査集団を追う」は、とても興味深い内容だった。昨今、インターネット上で公開されている画像やSNSの情報を徹底的に解析することで、世界を騒がせている事件の真相に迫ろうという、新時代のジャーナリストたちが存在する。彼らが採用している技法は“オープンソース・インベスティゲーション”と呼ばれ、現場にはほとんど足を運ぶことはないが、粘り強い追求と鋭いひらめきにより、従来のマスコミがカバーしていなかった特ダネを次々とモノにしてゆく。いわば現代版の安楽椅子探偵だ。

 とにかく、彼らの実績には目を見張るばかり。カメルーン奥地で起きた虐殺事件の真相を暴いたのを皮切りに、ロシアの関与が疑われたウクライナ上空でのマレーシア航空機撃墜事件、イランのテヘランで起きたウクライナ航空機の墜落事件、さらには武漢から始まったコロナ禍の実態を伝えるSNSでの情報が当局側によって削除されたことを突き止めるなど、どれも一国の体制自体を揺るがすようなスクープのオンパレードだ。



 しかも、彼らの行動は決して特定個人や特定団体に縛られない。世界各地から情報を提供するエキスパートが存在し、不定形かつ能動的に事件の実相を求めて活動を続ける。そのユニットのひとつであるイギリスの調査集団“ベリングキャット”では、人材の育成と共にそのノウハウを世界中のマスコミに伝授するため積極的なスタッフの派遣を行っている。今やBBCやニューヨーク・タイムズといった大手メディアにも“オープンソース・インベスティゲーション”のチームは存在するのである。

 番組のハイライトが、オーストラリアを代表するシンクタンクであるオーストラリア戦略政策研究所が“オープンソース・インベスティゲーション”の手法を用いて、新疆ウイグル自治区における中国政府による現地人への迫害を暴く場面だ。時系列的に並べられた証拠により、理路整然と現地の情勢を明らかにする、そのプロセスには唸った。

 ひるがえって日本の状況はどうか。新聞・テレビといった旧来型のメディアがいまだに幅を利かせ、しかもそれらは体制側と癒着している。気骨を見せているのは一部の週刊誌ぐらいだが、それでも昔ながらの取材方法で何とか凌いでいるような始末だ。いま最も“オープンソース・インベスティゲーション”のスキームが必要なのは、我が国のマスメディアではないのか。忖度や遠慮が一切通用しない、デジタルハンターたちの活躍を是非とも見たいものである。
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「プリズン・サークル」

2020-06-06 06:30:06 | 映画の感想(は行)
 観る者の内面を確実に揺さぶっていく、優れたドキュメンタリー映画だ。舞台になっているのは、島根県浜田市にある島根あさひ社会復帰促進センター。ここは受刑者同士の徹底した対話により犯罪の原因を探り更生を促すという、TC(回復共同体)と呼ばれるプログラムを導入している日本で唯一の刑務所である。取材許可に6年をかけ、2年間にわたって刑務所の中での撮影を敢行した野心作だ。

 劇中でクローズアップされるのは4人の若い受刑者である。それぞれに詐欺に窃盗、傷害致死といった罪状だが、真の意味での凶悪犯は収容されていない。たとえばサイコパスのシリアルキラーなんてのは別の施設での“処置”が必要で、ここではいわば“更正出来る可能性のある者”が入れられている。



 このTCは米国発祥ということだが、押しつけがましさが無いところを見ると、おそらくは日本仕様にリファインされている思われる。まず驚かされるのはTCサークルのメンバーたちのリラックスした雰囲気だ。囚人らしいギスギスした様子は、少なくとも“受講”の時間だけは全く見当たらない。実はこれもTCの手法の一つで、まずは内面的な壁を取り払おうという算段だ。

 各メンバーによる犯罪に対する個人的な研究リポートの発表や、犯行を再現したロールプレイングなど、システマティックなプロセスを経て、それぞれの犯罪の背景になるものが浮かび上がってゆく。予想はしていたが、やはり各メンバーの犯行の動機には子供の頃からの辛い体験が大きなウェイトを占めていた。彼らの生い立ちは、観ているこちらの胸が締め付けられるほど悲惨なものだ。深刻な虐待の連鎖により、次々と不幸なアクシデントが発生してゆく。その事実には慄然とするしかない。

 面白いのは、メンバーの発表中に当人に的確なアドバイスをする受講生が少なくないことだ。アドバイスしている本人だって受刑者には違いない。しかし、TCによって憑き物が落ちたように自らと他人を冷静に見据えることが出来るのだ。さらには、TCの“出身者”で今はシャバに出ている者達の現況も描かれる。彼らは定期的に教官たちと“同窓会”をするのだという。そして、心が折れそうになっている元メンバーに対しては、皆で励ましたりする。

 犯罪に手を染めた者に対して“社会や他人のせいにするな。本人が悪いのだ”と言い放つのは容易いし、それも事実の一側面であることは間違いない。しかし、すべて当人の責任にしてしまえるほど、事は単純ではないのだ。普通の人間を犯罪者にしてしまう要素が、この世の中には数多く転がっている。それを見据えない限り、犯罪は減らないのだということを本作は強く訴えている。そのスタンスには賛意を示したい。

 坂上香の演出は自然体で、ヘンなハッタリや教条主義的な取っつきにくさとは無縁だ。そして時折挿入される若見ありさによる“砂のアニメーション”が大きな効果を上げている。とにかく、幅広い層に観てもらいたい良作だ。
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「パーマネント・バケーション」

2020-06-05 06:21:46 | 映画の感想(は行)
 (原題:Permanent Vacation)80年作品。ジム・ジャームッシュ監督のデビュー作で、彼がニューヨーク大学の大学院映画学科の卒業制作として撮った16ミリ作品である。次作の「ストレンジャー・ザン・パラダイス」(84年)の成功により日本公開され、当時は何かと二作目との対比で語られるケースが目立ったように思うが、本作単体としても独特の魅力を放っている。

 ニューヨークの裏街に住む16歳のアロイシュス・パーカー(通称アリー)は、人生において定着は悪であり常に移動しなければならないと思い込んでいる、いわゆる“意識高い系”の少年だ。そのポリシーをガールフレンドのリーラに説くが、理解されない。彼は精神病院に入っている母親を見舞うが、もはや意思の疎通が出来なくなっていた。



 次にビルの前にたむろする少年たちやスペイン語の歌を歌っている少女たち、そして映画館のスタッフに話し掛けるが、相手にされない。黒人のジャンキーが絡んでくるが、彼ともコミュニケーションが取れない。その晩、アリーはリーラのアパートを尋ねるものの、すでに彼女はどこかに行ってしまった。いよいよニューヨークでの生活に見切りを付けたアリーは、一念発起して旅立つことにする。

 本作は主人公が“ここではない、どこか”に向かう映画だが、「ストレンジャー・ザン・パラダイス」は別の場所(ヨーロッパ)から主人公がやって来る作品だ。これはジャームッシュが二作目にして“覚悟を決めた(どこにも逃げない)”という意味で捉えると面白いが、それは観客が二作目から先に鑑賞しているからこそ言える話で、この映画が撮られた時点での作者のスタンスも興味深いものがある。

 アリーは自分のことを誰も分かってくれないと嘆くが、実は責任は自身の言いたいことを伝えられないアリーの方にある。自分で勝手に落ち込んで、勝手にどこか別の場所に行けば何とかなると思っている。まあ、青臭いと言えばそれまでだが、この年代の若者ならば周囲との距離感を覚えてメンタルがいわば“休眠状態”になるというのも、けっこう共感するモチーフなのだ。

 周りが分かってくれなくても良いではないか、それまで“今日が良ければそれがすべて”の永遠の休暇(パーマネント・バケーション)を取得するのも、悪いことではない。そんな甘酸っぱい想いが横溢して、ラストは感動すら覚えてしまう。ジャームッシュの演出は荒削りだが、時折ハッとするようなシーン(たとえば、完全無視を決め込んでいるリーラのそばで、アリーが踊る場面)があって飽きさせない。主役のクリス・パーカーとリーラ・ガスティルも良い演技をしている。
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「21世紀の資本」

2020-06-01 06:56:52 | 映画の感想(英数)
 (原題:CAPITAL IN THE TWENTY-FIRST CENTURY )興味の尽きないドキュメンタリー映画だ。もっとも、本作の主張すべてに賛同出来るわけではない。不満な点もある。しかし、問題を要領よくまとめた手際の良さや、何より“経済学の文献の映画化”という新鮮なコンセプトは十分評価に値すると思う。

 元ネタになっているのは、2013年に発表され世界的ベストセラーになったトマ・ピケティの同名経済学文献だ。我が国でも話題になった本だが、高額かつ700ページにも及ぶ大著ゆえ、私としても手を出せないでいた(笑)。今回、概略だけでも映像化してくれたのは有り難い(しかも、難解な数式などが出てこないのもポイントが高い)。

 映画は産業革命後の18世紀末のヨーロッパの情勢から始まり、貴族階級の没落と絶対君主制の終焉、そして相次ぐ市民革命による混迷の19世紀を経て、20世紀初頭には富が資本家に集中することによって社会的格差が大きくなったことを説明する。支配者層は一般国民の不満の矛先を“対外的な敵”に向けさせ、世界大戦が勃発した。



 二度目の大戦の反省から、各主要資本主義国の政策は中間層重視にシフトチェンジ。豊かな社会が到来したと思ったのも束の間、経済成長の停滞とスタグフレーションの発生により、新自由主義経済が台頭。構造改革の掛け声と共に、格差はまた拡大してきた。以上のような“筋書き”を本作は平易でストレスフリーな筆致により、スピーディに綴ってゆく。

 監督のジャスティン・ペンバートンは、各時代を描いた既存の映画の一部を引用したり、適度なケレン味を加え、観る者を飽きさせないように腐心している。ジャン=ブノワ・ダンケルの音楽も良い。さらに興味深いのは、ピケティ以外にも10人以上の博識なコメンテーターが揃っていることだ。私はその中ではジョセフ・E・スティグリッツとフランシス・フクヤマぐらいしか知らないが、全員が的確なフォローで感心した。

 なお、ピケティの言いたいことは、資本主義の正しいあり方を求めるための富の再分配だと思うが、私はそれだけでは不十分だと思う。基本的なマクロ経済政策である、金融政策と財政政策に対する言及が足りないのは不満だ(まあ、ピケティはそういうことは“周知の事実”であり省略しても構わないと思っているのかもしれないが)。

 二度の大戦、特に2回目の前夜はマクロ経済政策が上手くいかず、結局“無限の財政出動”である戦争に頼らざるを得なかったというディレンマもあり、現時点での富の再分配(広義の財政政策)に繋げる具体的なスキームについても説明して欲しかったところだ。とはいえ、このような形式の映画は貴重だ。映画の原作は小説やコミックに限らない。あらゆる事物が映画の題材になり得るのである。今度はスティグリッツやポール・クルーグマンの諸作も映画化してほしいと思った。
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