慶聞抄(きょうもんしょう)

冬の出雲路・琴が浜の夕日
信心決定(しんじんけつじょう)
ある朝目覚めると、喉の奥に違和感があって、唾を飲み込むと痛みました。風邪ひきの初期によくある感じですけど、オミクロン株では飲み込むのが痛くて食事もできないほどだとニュースで聞いたので、門だけ開けると境内からご本尊にお礼をし、すぐさまベッドに引き返しました。(前もこんなことあったぁ・・)
ベッドから携帯で連れ合いに電話すると、おかゆを作ってくれました。Ⅰ医院に電話しても話し中でなかなか繋がりません。繋がったのは午後になってからでした。幸い、熱はなく喉の痛みを和らげる薬を処方していただきましたが、心細い時間を過ごしました。
常日頃、体調を聞かれると「絶好調です!」と返す私ですが、健康なんて容易に変わる儚いもので、しかもこのコロナ禍では何時命にかかわる事態になるかわからないと改めて知らされます。しなければならないこと、したいことがあれば「今でしょう!」とハッパをかけたりかけられたり。
ついこの間もスーパーで買い物をしていると、電話をかけてきた元教え子がいて、近くまで車で来たからというので来るかと聞けば、ツレを待たすことになるとかぐちゃぐちゃ言うので、ほなまた今度、と言って切るとまたかかってきて、今度と言っても今度が来るかどうかわからへんから、と言うので結局近くの喫茶店で待ち合わせ、一つのモンブランを一緒につついて何年ぶりかのお茶をしたのでした。(←そっちの方があかんやろ!)
本山の御正忌報恩講、例年なら通夜布教に出かけているところですが、去年は金剛山へ、今年はオンラインでお聴聞しました。
蓮如上人が吉崎にご滞在中、親鸞聖人の御正忌法要に際ししたためられたと考えられるご文章があります。(清岡隆文師のウェブサイト「御正忌の章」より)
「さて、この御正忌にこころざしをもって参詣し、報恩謝徳をあらわそうと思って、親鸞聖人のご真影の前におまいりする人々の中には、信心をすでに得た人もあるでしょう。また不信心の人もあるでしょう。これは何よりも大事なことです。というのは信心を決定しなければ、このたびの極楽浄土への往生はできないからです。(中略)
他力の信心を得るというのも、特別のことではありません。南無阿弥陀仏の六字の意味を疑いなく領解することで、信心が決定するというのです。信心の本質については、「無量寿経」巻下に「聞其名号(もんごみょうごう)信心歓喜(しんじんかんぎ)」(その名号を聞きて信心歓喜せん)と言われています。善導大師は「南無というは帰命、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふはすなはちその行」(「観経疏・玄義分」)と言われています。
「南無」という二字の意味は、さまざまな雑行を捨て、疑うことなく、ひたすら阿弥陀仏を信じ申し上げるこころを言います。「阿弥陀仏」は一心に弥陀の教えに従う衆生をやすやすとおたすけくださるのです。このように領解するのを信心を得るというのです。これすなわち、他力の信心をよくこころえた念仏の行者というのです。」 つまり、衆生がいただいた信心と阿弥陀仏のおすくいのはたらきは一つであることを明らかにされたのです。
お念仏申す私には、いつも如来さまがついていてくださる。どんなに熱があっても、食べられなくなっても。息が弱まっていくそのあいだも。そしてまた私がお念仏を忘れてしまったとしても。 合掌
PS: 喉の痛み発生より5日後の夜発熱、37,5度。翌日下がるも、また電話が通じず。あちこちの薬局に検査キットを尋ねても、何か月も前から切らしているとのこと。お参りのお家に電話して、月末までの1週間、自粛生活に入るしかありませんでした。恨みを込めて、ここに記しておきます。

冬の出雲路・琴が浜の夕日
信心決定(しんじんけつじょう)
ある朝目覚めると、喉の奥に違和感があって、唾を飲み込むと痛みました。風邪ひきの初期によくある感じですけど、オミクロン株では飲み込むのが痛くて食事もできないほどだとニュースで聞いたので、門だけ開けると境内からご本尊にお礼をし、すぐさまベッドに引き返しました。(前もこんなことあったぁ・・)
ベッドから携帯で連れ合いに電話すると、おかゆを作ってくれました。Ⅰ医院に電話しても話し中でなかなか繋がりません。繋がったのは午後になってからでした。幸い、熱はなく喉の痛みを和らげる薬を処方していただきましたが、心細い時間を過ごしました。
常日頃、体調を聞かれると「絶好調です!」と返す私ですが、健康なんて容易に変わる儚いもので、しかもこのコロナ禍では何時命にかかわる事態になるかわからないと改めて知らされます。しなければならないこと、したいことがあれば「今でしょう!」とハッパをかけたりかけられたり。
ついこの間もスーパーで買い物をしていると、電話をかけてきた元教え子がいて、近くまで車で来たからというので来るかと聞けば、ツレを待たすことになるとかぐちゃぐちゃ言うので、ほなまた今度、と言って切るとまたかかってきて、今度と言っても今度が来るかどうかわからへんから、と言うので結局近くの喫茶店で待ち合わせ、一つのモンブランを一緒につついて何年ぶりかのお茶をしたのでした。(←そっちの方があかんやろ!)
本山の御正忌報恩講、例年なら通夜布教に出かけているところですが、去年は金剛山へ、今年はオンラインでお聴聞しました。
蓮如上人が吉崎にご滞在中、親鸞聖人の御正忌法要に際ししたためられたと考えられるご文章があります。(清岡隆文師のウェブサイト「御正忌の章」より)
「さて、この御正忌にこころざしをもって参詣し、報恩謝徳をあらわそうと思って、親鸞聖人のご真影の前におまいりする人々の中には、信心をすでに得た人もあるでしょう。また不信心の人もあるでしょう。これは何よりも大事なことです。というのは信心を決定しなければ、このたびの極楽浄土への往生はできないからです。(中略)
他力の信心を得るというのも、特別のことではありません。南無阿弥陀仏の六字の意味を疑いなく領解することで、信心が決定するというのです。信心の本質については、「無量寿経」巻下に「聞其名号(もんごみょうごう)信心歓喜(しんじんかんぎ)」(その名号を聞きて信心歓喜せん)と言われています。善導大師は「南無というは帰命、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふはすなはちその行」(「観経疏・玄義分」)と言われています。
「南無」という二字の意味は、さまざまな雑行を捨て、疑うことなく、ひたすら阿弥陀仏を信じ申し上げるこころを言います。「阿弥陀仏」は一心に弥陀の教えに従う衆生をやすやすとおたすけくださるのです。このように領解するのを信心を得るというのです。これすなわち、他力の信心をよくこころえた念仏の行者というのです。」 つまり、衆生がいただいた信心と阿弥陀仏のおすくいのはたらきは一つであることを明らかにされたのです。
お念仏申す私には、いつも如来さまがついていてくださる。どんなに熱があっても、食べられなくなっても。息が弱まっていくそのあいだも。そしてまた私がお念仏を忘れてしまったとしても。 合掌
PS: 喉の痛み発生より5日後の夜発熱、37,5度。翌日下がるも、また電話が通じず。あちこちの薬局に検査キットを尋ねても、何か月も前から切らしているとのこと。お参りのお家に電話して、月末までの1週間、自粛生活に入るしかありませんでした。恨みを込めて、ここに記しておきます。