聖武天皇陵 奈良市法蓮町
文武天皇の第一皇子として生まれたが(707年7月18日)に7歳で父と死別、母の宮子も心的障害に陥ったため、その後は長く会うことはなかった
(物心がついて以後の天皇が病気の平癒した母との対面を果たしたのは齢37のときであった)。
広嗣の挙兵を聞いて、聖武帝は「朕、意ふところあるに縁りて、今月の末、暫く関東に往かむ」といって、伊勢に旅立つのである。
都が恭仁クニ、信楽、難波と一定せず奇妙なる彷徨を続ける。この間5年
参道
謎の扉聖武天皇勅願所の碑、聖武天皇の勅願により行基が建立したと伝えられる宝積寺(大山崎町)
光明皇后 701年 - 760年7月27日 聖武天皇の皇后。藤原不比等と県犬養三千代(橘三千代)の娘であり、聖武天皇の母である藤原宮子は異母姉(つまり聖武天皇は
同年齢ながら甥にあたる)。名は安宿媛(あすかべひめ)。光明子(こうみょうし)、藤三娘(とうさんじょう)ともいう。 なお、「光明皇后」というのは
諡号や追号の類ではなく通称で、正式な尊号は天平応真仁正皇太后という。また、皇族以外からの皇后の先例とされた
橘諸兄は唐から帰国した吉備真備や僧玄を重用して、新しい政治を始めた。玄は光明皇后の寵愛を受け、皇后宮に我が家のごとく出入りしていたらしい。
光明皇后陵
長慶寺 奈良市法蓮町863-1 拝観・不可 変わったお寺 2012.05.12
頑丈に閉じられた門の前に、大きな石に碑文などが刻まれて建てられている (融通念仏宗) 佐保山普門院「長慶寺」 吉村長慶師(1863~1942)が私費を投じて建立開基したお寺さん
迷信陋習打破の道場
長慶自像
UP
「是より境内地死んだ宗教を活かす長慶寺神佛となるは生きた人間にかぎる」と掘られた石柱が立つ