三条大橋
橋が架けられた時期は明らかではないが(1590年)、豊臣秀吉 の命により五条大橋と共に増田長盛を奉行として石柱の橋に改修された 処刑場として近隣の川岸はかつて「三条河原」と呼ばれ、処刑や処刑後の晒し首が行われた豊臣秀次と、その妻子側室侍女 - 1595年(文禄4年)7月、豊臣秀吉より謀反の疑いをかけられ高野山で切腹した後、三条河原へ豊臣秀次の首が運ばれた。首が据えられた前で妻子侍女など39名が処刑され、秀次の首と共に1か所に埋められ見せしめの塚が作られた。
弥次喜多 弥次喜多像[2] 江戸時代に出版された『東海道中膝栗毛』の主役である弥次郎兵衛と喜多八の像がある
疑宝珠刀傷跡 1864年7月8日に発生した池田屋事件で付いたとされる刀傷が、橋の北側と南側の2か所(西から数えて2つめの擬宝珠)に現存する