聖徳太子の墓 叡福寺は、大阪府南河内郡太子町にある仏教寺院。 聖徳太子の墓所とされる叡福寺北古墳(磯長墓があることで知られる。 山号は磯長山本尊は如意輪観音である。開基は、聖徳太子または推古天皇とも、聖武天皇ともいわれる 724年聖武天皇勅願による H24.03.10 参拝
叡福寺 金堂
北古墳 三骨一廟 『上宮聖徳太子伝補闕記』では、推古天皇27年(619年)にはすでに皇子自ら当地に墓所を築いていたとする 寺伝によれば、聖徳太子と妃の膳部大郎女、母の穴穂部間人皇女の三人をこの廟に合葬したとき、推古天皇より方六町の地を賜り、御廟守護のために僧坊十姻(墓守の家10軒)を建てたのが、寺の始まりであるという。そして、聖徳太子の追福のために聖武天皇の勅願によって、724年(神亀元)に伽藍が創建されたと伝える。
鎌倉時代にも親鸞、叡尊、日蓮、一遍といった高僧が叡福寺に参詣し、以後叡福寺は四天王寺とともに、大阪における太子信仰の拠点寺院として繁栄してきた。
聖徳太子の母・穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇女 621年12.21没
妃の膳部大郎女 (622)2月21日没
聖徳太子 622年2月22日 薨去 数か月の間に3人亡くなっている原因は伝染病とも言われている
三骨一廟 奥が太子の母・穴穂部間人皇后、前面向かって左に膳郎女、右に聖徳太子の棺で、穴穂部間人皇后は石棺、他の二人は夾紵棺で、仏具の装飾などに用いられた格狭間を刻した石製の棺台にのせられていたそうです
夾紵棺--あらい布地を重ね,漆で固めてつくった棺
モミジアオイが咲いた
何か 解らない