週一寺社めぐり

原則として週一回 神社仏閣を訪れる

第7回 四国八十八ヶ所お遍路の旅 Trapics 2015.07.21~22

2015年07月23日 | 神社仏閣

なんば8:20出発 吉野川ハイウエイオアシスに着いたのが 11:41  延光寺着- pm 3:13  足摺岬 pm 5:13 本日は一ヶ寺のみ 一日中雨のおへんろ

39番延光寺 高知県宿毛市平田町中山390
寺伝によれば聖武天皇の勅命によって(724年)に行基が薬師如来を刻んで本尊とし、本坊ほか12坊を建立、当初は亀鶴山施薬院宝光寺と称したという。
その後桓武天皇の勅願所となり、空海が来錫して再興、脇侍の日光・月光菩薩を刻んで安置、本堂脇に眼病に霊験のある「目洗い井戸」を掘ったといわれる

 

山門

本堂

大師堂赤亀 石塔

イブキ       

黒い蝶々

   

渡海僧の碑  

足摺岬

 

足摺サニーサイドホテル

温泉 露天風呂皿鉢料理

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大聖将軍寺 2010.12.05 Archives

2015年07月20日 | 神社仏閣

椋樹山大聖勝軍寺で、現在は高野山真言宗に属する。太子町の叡福寺が「上の太子」と呼ばれるのに対して、「下の太子」の名で親しまれている。寺伝では、聖徳太子子が、渋川の阿刀の館にいた物部守屋を滅ぼすにあたって、信貴山の毘沙門天に祈願し、四天王を祀ってその加護により守屋を討って、戦勝を得ることが出来たので、難波の高台に日本仏教最初の四天王寺を建立し、この渋川に勝軍寺を創建して、自身十六歳の植髪(うえがみ)の太子像と四天王像を安置したという。

 本堂の太子殿には、太子植髪像を安置し、その脇に弓矢を持つ四天王像を祀っている。これは4人の関係者をおのおの四天王になぞらえたもので、右から持国天(蘇我馬子)、多聞天(秦川勝)、広目天(迹見赤檮)、増長天(小野妹子)の四体となっている

 

内陣

六角堂内部平和の塔

 

神妙椋樹

一願不動

守屋池守屋墓救世観音

以下聖徳太子ゆかりの名宝図録より

四天王立像

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

聖武天皇陵 2012.06.30 Archives

2015年07月19日 | 神社仏閣

聖武天皇陵 奈良市法蓮町
文武天皇の第一皇子として生まれたが(707年7月18日)に7歳で父と死別、母の宮子も心的障害に陥ったため、その後は長く会うことはなかった
(物心がついて以後の天皇が病気の平癒した母との対面を果たしたのは齢37のときであった)。
広嗣の挙兵を聞いて、聖武帝は「朕、意ふところあるに縁りて、今月の末、暫く関東に往かむ」といって、伊勢に旅立つのである。
都が恭仁クニ、信楽、難波と一定せず奇妙なる彷徨を続ける。この間5年

参道

謎の扉聖武天皇勅願所の碑、聖武天皇の勅願により行基が建立したと伝えられる宝積寺(大山崎町)

 

光明皇后 701年 - 760年7月27日 聖武天皇の皇后。藤原不比等と県犬養三千代(橘三千代)の娘であり、聖武天皇の母である藤原宮子は異母姉(つまり聖武天皇は
同年齢ながら甥にあたる)。名は安宿媛(あすかべひめ)。光明子(こうみょうし)、藤三娘(とうさんじょう)ともいう。 なお、「光明皇后」というのは
諡号や追号の類ではなく通称で、正式な尊号は天平応真仁正皇太后という。また、皇族以外からの皇后の先例とされた 

橘諸兄は唐から帰国した吉備真備や僧玄を重用して、新しい政治を始めた。玄は光明皇后の寵愛を受け、皇后宮に我が家のごとく出入りしていたらしい。

 

光明皇后陵

 

長慶寺 奈良市法蓮町863-1 拝観・不可 変わったお寺  2012.05.12
 頑丈に閉じられた門の前に、大きな石に碑文などが刻まれて建てられている (融通念仏宗) 佐保山普門院「長慶寺」 吉村長慶師(1863~1942)が私費を投じて建立開基したお寺さん

 

  

迷信陋習打破の道場

   

 長慶自像

 UP

「是より境内地死んだ宗教を活かす長慶寺神佛となるは生きた人間にかぎる」と掘られた石柱が立つ

     

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伝香寺 2011.07.09 Archives

2015年07月18日 | 神社仏閣

  

傳香寺  奈良市小川町24
大和地蔵十福 春日地蔵菩薩  本堂、木造地蔵菩薩立像(重要文化財)
奈良三名椿の一つとして有名な「散り椿」で知られるお寺さん
 宝亀2年(771)に鑑真和上の弟子、思託律師が創建 
 16世紀に筒井家の菩提寺として再興されている

山門

 国重文;本堂(1585年建立

本尊・釈迦如来

春日地蔵・重文

  

太子二歳像

   

筒井順慶法印像

弁財天堂 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

多神社 多坐弥志理都比古神社 2012.07.08 Archives

2015年07月17日 | 神社仏閣

多神社 多坐弥志理都比古(おおにいますみしりつひこ)神社   奈良県磯城郡田原本町大字多570         多は、太安万侶らをはじめとする古代氏族多氏の根拠地とみられる。神社の祭神は神武天皇・神八井耳命・神淳名川耳命(綏靖天皇)・姫御神(玉依姫)の四柱で、このうち神八井耳命は多氏の祖とされる   

   

拝殿

本殿-東の第一殿が神武天皇、第二殿が神八井耳命、第三殿が神淳名川耳命、第四殿が姫御神をそれぞれ祀っている

社務所手水舎 

 

小杜神社
磯城郡田原本町大字多字木ノ下272  多神社の南東に 太安万侶を祭神とする 小杜(こもり)神社があります。今では小さなお社ですが、昭和初期には国威高揚のために賣太(めた)神社とともに古事記関連の盛大な祭典が行われていた神社です。
太安萬侶を祭神とする

  

境内図

  

社殿

本殿

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

聖林寺 2011.07.16 Archives

2015年07月16日 | 神社仏閣

聖林寺 奈良県桜井市下692
712年(和銅5年)、談山妙楽寺(現談山神社)の別院として、藤原定慧(鎌足の長子)が創建
大神神社の神宮寺、三輪山・大御輪寺(おおみわでら)の元の本尊です
長く三輪の本地仏で秘仏としてまつられてきたが、神仏分離令を受けて、高僧、大心(聖林寺再興七世)によってこの寺に運ばれた

九華殿

 

山門

寺から三輪山を望む

庭園

本堂

子安延命地蔵菩薩

地蔵菩薩

 

収蔵庫

国宝十一面観音--仏、光、座(仏身209.1cm、光背260.6cm、台座77.8cm)を揃えた木心乾漆造の代表的なものであり、いわゆる天平様式、八世紀の日本の彫刻を代表する名作である。 十一面観音はじめの三体の仏像は慶応四年五月十六日、大八車で三輪からこの地に避難された。果たして、廃仏の波は三輪の神宮寺を呑んで、凡ての仏教関係の物は破壊し尽くされた

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

定林寺 2011.09.11 向原寺 2011.01.08 Archives

2015年07月15日 | 神社仏閣

定林寺 高市郡明日香村立部32 
明日香村立部(たちべ)の集落に浄土宗「定林寺跡」がある。創建に関しては明らかではないが、聖徳太子が建立した寺院の1つで、元は「立部寺」とも呼ばれ、現在ある小さな本堂と庫裏は、江戸時代の後半に建立された。境内には墓地が有り、古い石仏や五輪塔等もあります 西隣に春日神社が有ります

 

 

  

本堂

無縁等 

春日神社絵馬 

 

 

向原寺 奈良県高市郡明日香村
欽明天皇13年百済聖明王より賜わった仏像経論を蘇我稲目向原の家を寺としてまつった向原の寺であり仏法の根源、最初の寺推古天皇豊浦の宮より小墾田宮に遷都の際に推古天皇は豊浦宮跡に寺院を建立することとして蘇我馬子に授ける。馬子は本格寺院として豊浦寺を建立する。
・江戸時代に難波池より百済仏と考えられる金銅仏が発見
昭和60年度の発掘調査により蘇我馬子建立の豊浦寺伽藍更に下層より推古天皇豊浦宮遺構が発見され、現在豊浦宮遺構を発掘調査当寺の現況で現存公開。

 

  

山門

本堂

堂内

文様石豊浦宮跡宮跡

薬師堂

 

41cm-盗まれた金銅製観音菩薩立像は、平成22年(2010)の9月、実に36年ぶりに発見され、無事に向原寺に戻った

  

難波池

難波の堀江

甘樫坐神社

本殿  

推古天皇を主祭神とし、相殿八幡宮春日大明神天照皇大神八咫烏神住吉大明神熊野権現を祀る  甘樫丘は古代、盟神探湯が行われたという地であり 戦後、盟神探湯神事が行われるようになった

 

盟神探湯

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

広隆寺 頂法寺 2011.04.13 Archives

2015年07月14日 | 神社仏閣

広隆寺 京都市右京区太秦蜂岡町32                                      603年(推古11)に建立され、四天王寺・法隆寺などと共に聖徳太子建立の日本七大寺の一つであった。この寺の建立にあたっては、日本書紀において、聖徳太子が「吾、尊き仏像を持つ。誰かこれを拝むものなきや」と訪ねたところ、秦河勝が、これを受け広隆寺を創建したという。その仏像が、「弥勒菩薩半跏像」だったと見られる。今では、広隆寺となっているが、古くは蜂岡寺とか秦寺などと呼ばれていたそうで、元々は、北野白梅町付近にあったと云われている。
 広隆寺は、これまで2度の大火にあい、堂宇や僧房は殆ど焼失してしまったが、創建当初からの寺宝は殆どが守られてきた。その中でも国宝20点、重要文化財48点という多くの寺宝が残る。    国宝第1号、京都広隆寺の弥勒菩薩

 

仁王門 

上宮王院

地蔵堂

非公開

薬師堂

弥勒菩薩

朝鮮弥勒

太子16歳像阿弥陀如来 

 

頂法寺(六角堂) 
京都市中京区六角通東洞院西入堂之前町248                              頂法寺は、京都市中京区にある天台宗系単立の仏教寺院。山号は紫雲山。本尊は如意輪観音(秘仏)。西国三十三箇所第十八番札所。本堂が平面六角形であることから、「六角堂」の通称で知られる。華道の家元・池坊の発祥の地としても知られる

 

本堂

  本尊

へそ石-平安京建設の基準点となった「へそ石」

合掌地蔵十六羅漢太子堂 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

瓦屋寺 2014.09.10 Archives

2015年07月13日 | 神社仏閣

瓦屋寺 東近江市 瓦屋寺
聖徳太子が四天王寺を建立した際、当地で瓦を焼き、瓦屋寺を建立したという伝承がある
 瓦屋寺は(891)に東大寺の末寺となるが、16世紀末に兵火で焼失し荒廃したという。
 江戸時代初期に香山祖桂和尚によって再興され、現在は臨済宗の寺になっている 当寺の境内およびその付近には古代祭祀の遺跡かとされる奇岩(磐座)が多く露頭し、また平坦な湖東平野のほぼ中央にあたる瓦屋寺山が太古より信仰の対象とされてきたこと、山麓には後期古墳群があることなどから、かなり早い時期に寺院が建立された可能性が高い

 

茅葺本堂1672年

   

十三重石塔

   

行者堂

慈母観音

    

般若石閻魔大王海印蔵

境内の入口脇の庭園には、不動明王

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

玉臺寺 2012.11.25 Archives

2015年07月12日 | 神社仏閣

玉臺寺(ぎょくたいじ)
木津川市山城町椿井天敷堂37 0774-86-2880  PK-あり モミジがひじょうにきれい
弁才天社は狛(こま)一族の守護として 狛但馬守頼久によって永享9年(1437年)に建てられたと伝えられています。狛の弁天さんとして長く親しまれてきた木造弁才天坐像は、天正6年(1578年)に奈良の仏師によって造立されました。ここは奈良興福寺と深い関係があったことがわかります。
玉臺寺はその宮寺で本尊は観世音菩薩です 現在は、玉台寺の境内に弁財天社があり、玉台寺の鎮守の様となっている

 

山門

参道

本堂

本堂の縁台 供養塔

庭園

左・庫裡

弁財天社

弁財天社

   

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする