がんになってもぽじぽじいこか

2012年6月食道がん発見、53歳でした。始めての体験で体当たりの治療とリハビリ。見つけたものも意外にあり!

I.C.U.にて

2013-01-14 21:06:00 | 食道がん
雪でした、成人式なのに。
出かけたら、積もってしまって帰るのが大変。
景色はきれいなんだけど、せっかくがんから生還したいのち、事故でなくしたくない!超安全運転を意識しながら倍の時間をかけて帰宅しました。
惜しいっていうのかな。大事にしないとなってすごく思うようになったなあ。この生活。

手術直後の様子(わたしのケース)を書くのですが、あまり参考にならなかったらごめんなさい。
あくまでも個別なケースはこうであったという事で。

手術後の夜は心電図、酸素マスク、足にはエコノミー症候群防止のマッサージャーなどがつけられていた。
痛みはあまり感じなかった。
時々目が覚める程度。
口が渇いて、動く気もしない。
呼吸は口から、小さな息をは、は、とせわしなくする。

実はわたしの場合、覚悟していた痛みはすっか~ん、と空振りするほどだった。
痛くないという訳ではないが、もっと痛かろうと過剰に覚悟していた。
小学6年のときヒョウソウで爪を剥がした時は助けて!と祈りたい程痛かった。
時代も違うから、薬とかも違うだろう。
手指は神経が集中しているのでまさしく拷問のような痛さだった。一晩中痛かった。泣き叫ぶ程痛かった。
母親が「いい加減にして」としまいには怒りだして黙ってこらえようとしても出来なかった。
はがした爪のガーゼを毎日変えるのも息が詰まる程痛かった。帰り道倒れたこともあった。
それを思い出して「あれえ」とおもっていた。
麻酔科の薬が点滴で体に入っていたからだと思う。
わたしの場合がん以外は健康なので痛み止めの制限はなく、この点は感謝。

翌朝先生の回診。
「わたし、交通事故で背骨でも折ったみたいですね」
「本当にそうだよ、あばら骨、折ってる。」
先生たちの表情が明るい、(プロだからかな)よかった~と思う。

足のマッサージャーが外され、支えられて歩く。
これが感染症予防に大事なのだそうだ。
ほんの一二歩でいい、支えられて動くだけ。
歩くと痛いが、ゆっくり、ゆっくり。
椅子に腰掛けさせてもらい、歯ブラシをしてベッドに戻る。
動いてみると実にたくさんのコード類がついていた。
鼻から胃液の逆流を出す管
鎖骨の上から2本リンパ液の管
右胸からリンパ液の管
尿道の管
位かな、出す管。
腕に点滴
お腹に腸ろう、栄養剤が入っている
鼻に空気のチューブ
背中に入っていて痛いと押すと薬が入るお助け管
が、入れる管
書き落としているかも。
チューブは日々減っていく。
鼻の酸素、胃の逆流の、次に胸のリンパ液。
そしてH.C.U.に移るようになる。

何日間か、意識は楽しげに浮遊していた。
病室はすぐにベニヤ板に変わり、そこには落書きがされている。
キースへリングみたい、イタリアの遺跡みたい、若い人はアートな落書きをするなあ、と見ながら眠る。
目が覚めるとベッドの下は海で、すぐ先に浮き島があってマーケットになっている。
わたしはボートにセールをあげて買い物に行く。
白波が立ちはじめ、買い物も大変だなあ、風の高い日は、なんて思っている。
こういうはっきりした幻覚なのか夢なのか。
ともかく部屋はベニヤ張りに変わる。
古い看板がある昔の下町に迷い込むこともある。

毎日あいにくる娘に話すと
「お母さんはいつも楽しいね、よかったね」と笑っていた。

その夢のおかげか、経過はいたって良好であった。

あと、ここにいたとき、起きた頭で真剣に思ったことがある。
わたしに仕事のおおきなプラスを教えてくれた。
こういうところだから、それなりの看護士が配置されているのだろう。
どの人も安心を届けてくれていたが、中にはすごい人もいた。
ケアをする時にまじで人に向かってくれている。
ケアなんて受けた事がなかったから、受けたらどう思うかなんて予測も出来なかった。
こういう風になりたい、とぼけた頭が真剣になった。
仕事だからしている、という枠を感じさせない。
なんて素晴らしいんだ、とおもった。
ケアを与える立場だと受け手にはなれない。
病気になって損ばかりじゃない、この気持ちを持って帰ろうと思った。
すごい財産だ。
昨日までよりいい保育士に、忘れなければなれる。

ここでの事は感謝につきて、退院時、挨拶に行った。
みんな「きゃあ、は、早い退院!!」とすごく驚いて、それから「おめでとうございます」と言ってくれた。

ぼうっとした中ですごし、出られた時は嬉しかったが、いいところだったと思う。