がんになってもぽじぽじいこか

2012年6月食道がん発見、53歳でした。始めての体験で体当たりの治療とリハビリ。見つけたものも意外にあり!

ショック!がんにいいよ、という売り込みいろいろ

2013-01-16 16:56:20 | がん・腫瘍全般
母親が買ってしまう
先日、母親にわたしのがんの告知をした。
彼女は相当ショックだったようだ。
会う人ごとに一人娘ががんで大手術をして療養中だと不安を訴えたらしい。
宗教関連の青汁をそうとは知らず購入して送ってきた。
「これ、とてもいいんだって」
あちゃ~
母は日頃はどちらかというとケチである。
日常の中では、わたしがマーガリンはトランスファットだから買うな、といってもバターより安価だから、と買うのを止めなかったりする。
決してお金がない人ではないのだが、安ければいいという食品の買い方をするところがある。
その彼女が心配、不安のあまり訳のわからない青汁を一箱3000円ではい、はい、はい、と買わされてしまった。
母も問題があるが、その売り方にいやな感じを受けている。
「これ、いいのよ、続けるとどんどん健康になるの、なおるの」
その青汁は甘味料が添加されていて、毒ではなかろうが決していいとも思えない。
高すぎる。
アメリカのオーガニックのグリーンジュース(フリーズドライ)を輸入して関税を払ってもはるかに安い。
20倍以上入って5000円しなかった。

色々な勧誘
波風立つけど、書いてしまいます。
色々な勧誘が次々あって、疲れ果ててしまいます。
がんをオープンに喋るとどこからか色々な勧誘があると、経験者はみな語る。
幸いわたしのまわりにはあまり売り込み難いお友達が多いようで、わたし含め、まあ、こうして普通にいる訳だが、これが突然信じ込まされて現代医学以外の色々なものに巨額の出費をするようになってしまったら、考えものだ。
私たちがん患者はこれからどれだけ働けるか、生きるかわからない。
その生活費をなおるから、と信じてよくわからないものにつぎ込んだら、と思うと重大な問題だと思うのだ。

がんの知識を持つ事と、よく相談する事
免疫力を高めるから、オーガニック野菜がいいよ、とすすめる人がいたらわたしは同感だ。
本当にオーガニックか調べたらそこから買う。
様々なサプリメントを勧められたら、いろいろ比較していいものを買う。
高いから言い訳ではない。容量を調べる。もちろん有効なサプリメントを選ぶ。
人にも相談する。
ま、それで多少損しても仕方ない、もっといい物が出てきたりすることもあろう。
そうじゃなくて、すすめる人も信奉し切っている場合が怖い。
「それまで家族はめちゃめちゃだったが信じたらすべてが変わったの。あなたも一度受けてみるといいわ。」
この手のたぐい。
それが通常人格者だったりする、こどももみな良い子だったりする。
「親戚のがんもなおったの、なおろうというパワーが免疫を高めるの。」
信じたい気持ちもわいてしまいそうだ。
こういう問題は永遠にこの世から消えないだろう。
ただ、必ずお金を払うようになっている。
神様はお金が好きではないはずだけど。
そして、代替治療も、実にいろいろ勧めが。
不安を感じていたら、かかりたくなるかもしれない。
代替療法は現代医学に不審を持っている言い方をする。
全く違うものだという現れ方をする。
でも、いい物は医学に取り入れられていくのだから、わたしはかかりつけの医師に相談してみたらいいと思う。
アメリカなどではどうなのかも尋ねてみればいいと思う。
また、いっぱいいい本が出ている。がんについて素人向けに書かれた本。
買って読んでからだって判断はいいと思う。

不安に付け入る
そういう広がりって、わたしはやだ。
祈る事を否定しない。
人の祈りは電波かもしれない、人に伝わるから。
わたしも願い、祈ることはある。
そういう祈りまで否定せざるを得ないえげつないがん商法があることを発信したい。

H.C.U.にて

2013-01-15 15:17:13 | 食道がん
集中治療室をでる!
集中治療室を出て、ハイケアユニットH.C.U.にて療養した。
個室ではなく、2~3人の部屋だった。
自由度が増し、一般病棟に移る段階を踏んでいる感じがする。
よくなった感があるが、ケアが薄くなる事に対しての不安がない訳ではなかった。
そこが患者の矛盾する心理なのだ。

スタッフは偉い!
わたしの場合、自力でトイレに行けるようになり、尿道カテーテルがなくなった。
が、トイレに行くというと、看護士さんに点滴台にいろいろ乗せたり、つり下げたりしてもらい、それから動くことになる。
動くのは楽ではないが、動くと予後がいいため、少しでも歩くようにした。
また、皆よくほめてくれる。
「すごいね~」「努力しているね~」拍手までしてくれたこともあった。
ニコニコしながら、こちらこそ、ほめてあげたいと内心思っていた。
わたしは始めてだが、彼らは毎日の風景である、なのに仕事の手を止め、声をかけてくれる。驚いてくれる。
なかなか出来ない事である。
H.C.U.に出た日、看護士さんが髪を洗ってくれた。
嬉しい、気持ちいいし、回復してきた実感にも繋がる。
感謝である。

思いがけず外に出るプレゼントに感激
I.C.U.ではレントゲンは機械が部屋に来てくれていたが、H.C.U.になると、車いすでレントゲン室まで移動する。
個人的にこれは嬉しかった、すごく。
「レントゲン行きます」と言われると「はい!」と元気に返事をしていそいそしてしまう。
ユニットルームをでて長い廊下を行き、一般の患者さん(私服を着ている)のいるところに行くのは嬉しいものである。
タリーズコーヒーのにおいもしている。
そこには普通の生活のにおいがある。
わたしがあまり喜ぶものだから、粋な計らいをしてくれる看護士がいて
「少し、中庭によってから戻りましょうか」と表の風にあててくれた。
本当に嬉しかった。
涙がにじんだ、外の風だ。生きている。なんていいんだろう。
この事は病院生活で最も感激した事だ。
頑張る気力が湧く。外は素晴らしい。
すてきな計らいだった。大感謝。

めきめき回復
表の空気のおかげで?日々確実に回復する。
そして少量の氷を食べていいことになった。
ごく少しずつ、むせないようにゆっくりなめて飲み込むように注意を受ける。
咳き込むと痛いのでびくびくしながら口にした。
管が減るのと、口にものを入れる許可は回復を感じさせて嬉しい。
が、空腹感はない。
痛いと押すボタンがあり、容器から薬が背中に刺された針から入る。
容器は看護士が日々計量している。
麻酔扱いの痛み止めである。
回復はしているものの、一週間くらいはものすごい強さの痛み止めに助けられていた。
空咳が出る、とても苦しい。
空咳はしばらく続くよ、との事。
椅子に座る時間を少しずつ長くしようと決めて、テレビの向きを変えてみる。
窓からはその頃雨ばかりで、雲を眺める。一日、空を眺める。
回復はしている、でもどれだけのダメッジを肉体がトータルで受けているのかは見えて来ない。
それは考えない事にしてとにかくよくなろうと思い、信じていた。
見舞いにくるこどもにも笑顔しか見せなかった。
(怒る事もないし、泣く事もないし、嬉しかったから笑うしかなかったからだけど)
H.C.U.は静かだった。静かに時間は過ぎていった。
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I.C.U.にて

2013-01-14 21:06:00 | 食道がん
雪でした、成人式なのに。
出かけたら、積もってしまって帰るのが大変。
景色はきれいなんだけど、せっかくがんから生還したいのち、事故でなくしたくない!超安全運転を意識しながら倍の時間をかけて帰宅しました。
惜しいっていうのかな。大事にしないとなってすごく思うようになったなあ。この生活。

手術直後の様子(わたしのケース)を書くのですが、あまり参考にならなかったらごめんなさい。
あくまでも個別なケースはこうであったという事で。

手術後の夜は心電図、酸素マスク、足にはエコノミー症候群防止のマッサージャーなどがつけられていた。
痛みはあまり感じなかった。
時々目が覚める程度。
口が渇いて、動く気もしない。
呼吸は口から、小さな息をは、は、とせわしなくする。

実はわたしの場合、覚悟していた痛みはすっか~ん、と空振りするほどだった。
痛くないという訳ではないが、もっと痛かろうと過剰に覚悟していた。
小学6年のときヒョウソウで爪を剥がした時は助けて!と祈りたい程痛かった。
時代も違うから、薬とかも違うだろう。
手指は神経が集中しているのでまさしく拷問のような痛さだった。一晩中痛かった。泣き叫ぶ程痛かった。
母親が「いい加減にして」としまいには怒りだして黙ってこらえようとしても出来なかった。
はがした爪のガーゼを毎日変えるのも息が詰まる程痛かった。帰り道倒れたこともあった。
それを思い出して「あれえ」とおもっていた。
麻酔科の薬が点滴で体に入っていたからだと思う。
わたしの場合がん以外は健康なので痛み止めの制限はなく、この点は感謝。

翌朝先生の回診。
「わたし、交通事故で背骨でも折ったみたいですね」
「本当にそうだよ、あばら骨、折ってる。」
先生たちの表情が明るい、(プロだからかな)よかった~と思う。

足のマッサージャーが外され、支えられて歩く。
これが感染症予防に大事なのだそうだ。
ほんの一二歩でいい、支えられて動くだけ。
歩くと痛いが、ゆっくり、ゆっくり。
椅子に腰掛けさせてもらい、歯ブラシをしてベッドに戻る。
動いてみると実にたくさんのコード類がついていた。
鼻から胃液の逆流を出す管
鎖骨の上から2本リンパ液の管
右胸からリンパ液の管
尿道の管
位かな、出す管。
腕に点滴
お腹に腸ろう、栄養剤が入っている
鼻に空気のチューブ
背中に入っていて痛いと押すと薬が入るお助け管
が、入れる管
書き落としているかも。
チューブは日々減っていく。
鼻の酸素、胃の逆流の、次に胸のリンパ液。
そしてH.C.U.に移るようになる。

何日間か、意識は楽しげに浮遊していた。
病室はすぐにベニヤ板に変わり、そこには落書きがされている。
キースへリングみたい、イタリアの遺跡みたい、若い人はアートな落書きをするなあ、と見ながら眠る。
目が覚めるとベッドの下は海で、すぐ先に浮き島があってマーケットになっている。
わたしはボートにセールをあげて買い物に行く。
白波が立ちはじめ、買い物も大変だなあ、風の高い日は、なんて思っている。
こういうはっきりした幻覚なのか夢なのか。
ともかく部屋はベニヤ張りに変わる。
古い看板がある昔の下町に迷い込むこともある。

毎日あいにくる娘に話すと
「お母さんはいつも楽しいね、よかったね」と笑っていた。

その夢のおかげか、経過はいたって良好であった。

あと、ここにいたとき、起きた頭で真剣に思ったことがある。
わたしに仕事のおおきなプラスを教えてくれた。
こういうところだから、それなりの看護士が配置されているのだろう。
どの人も安心を届けてくれていたが、中にはすごい人もいた。
ケアをする時にまじで人に向かってくれている。
ケアなんて受けた事がなかったから、受けたらどう思うかなんて予測も出来なかった。
こういう風になりたい、とぼけた頭が真剣になった。
仕事だからしている、という枠を感じさせない。
なんて素晴らしいんだ、とおもった。
ケアを与える立場だと受け手にはなれない。
病気になって損ばかりじゃない、この気持ちを持って帰ろうと思った。
すごい財産だ。
昨日までよりいい保育士に、忘れなければなれる。

ここでの事は感謝につきて、退院時、挨拶に行った。
みんな「きゃあ、は、早い退院!!」とすごく驚いて、それから「おめでとうございます」と言ってくれた。

ぼうっとした中ですごし、出られた時は嬉しかったが、いいところだったと思う。

食道がんの手術について(わたしのケース)

2013-01-13 18:09:47 | 食道がん
わたしの場合、2と3の境目、どちらかというと2かな、という進行度合い。
画像診断ではリンパへの転移はわからない、あるかもしれない、ないかもしれない。
と、いわれてきました。

2度の抗がん治療が効果的で担当医師は我が事のように笑顔で喜んでくれた。
「皆が○○さんのように効くといいなあっていうくらい小さくなってる」
「性格が素直だからね」というと即座に
「それはちがう」だって。
わたしは担当医師を信頼し、これでダメならダメなんだ、日本で一番の専門医だ、とずっと思っている。(し、事実そうでしょう)
せっかちな先生との掛け合い漫才も診察時のお楽しみだ。
抗がん治療は4週間のサイクルで行い、次の4週間後に手術。その説明を受ける。
先生は必要なことをコンパクトに話す。だらだら話すの真逆。

わたしの場合は鎖骨の下を横に切って、みぞおちのところからへその上まで縦に切る。
それと右胸の乳房の下から脇の下まで弧を描くようにきる。

鎖骨下とみぞおちはワンセットになっていて食道を取り除き、同時に胃袋をカットして筒状に整形して食道再建する。
食道を除き、胃を引っ張り上げる形だ。
同時進行して胸を開けリンパ節を取り除く。
右を開けるのは心臓がない側だからだという。

鎖骨の下と腹だけ切って、脇下から乳房は切らないで胸に何カ所か穴をあけ内視鏡でリンパ節をとるか、先生は悩んでいた。
「やっぱりしっかり切りましょう」と決まり、
研修医の娘も立ち会わせてくれる事に取りはからってくれた。
通常10時間程度の手術だという。
結構な大手術である。
「○○さんはスレンダーだからもっと早く済むかも。どうしても大きいと時間はかかる」
「さばきやすいと?」
先生クスッと笑い「うん、まあ、そういうことになる。なるべく時間かけないから」
気を使って「普通の服なら傷は見えないからね」とおっしゃった。

リスクについての説明も受けた。
特異体質で麻酔に反応を示したら、手術はしない。
など、細かく。
確か、2%かな、失敗率が。成功率が98%と、あるいは99%だっただろうか。どっちかだ。
もうそれは努力でどうにかなる訳ではないので、あとは得意のよく食べてよく寝るしかないのだった。

手術がずっといやでいやで来たのだが、説明をきちんと受けると「よし、がんをとってもらおう」という気持ちになってくる。
他、麻酔科の医師からも説明があった。
付き添ってくれる麻酔医は途中で交替するそうだ。
長い手術なんだと現実感が増してくる。

手術の朝早く、暖かいミルクとバターをとる。
バターの脂肪でリンパ節をわかりやすくするため。
これから先しばらくものが食べられないから、しっかり味わって残さず頂く。

あとは目が覚めると「終わりましたよ」っていわれてICUに運ばれる。
たくさんの人がついていてくれて、
わたしにはたくさんのチューブなどがついていて、機械もいろいろ接続されている。
喋ろうと思ったら酸素のマスクもついている。
子どもたちが手をつないで「おかあさん」といっている。
その声が心配げで、幼かった日のように母を求めて手を握っている。
いとおしいなあと、その手を握り返す。

そしてまた眠って、うつらうつらを繰り返す。
あまり覚えていないが確か4~5日で集中治療室(I.C.U)をでてH.C.U.というところに移る。
看護の度合いが軽くなった治療室。
それから一般病棟に移るのが手術から一週間後だったと思う。
一般病棟に行くとジュースやゼリーが出てきた。
HCUからはしっかり記憶があるが、最初のうちは所々忘れているような気がする。
手術は問題なく、経過もきわめて良好で、がん細胞は体の外に取り出された。
ので、大成功だった。


告知と向き合う(涙が浄化)

2013-01-12 17:46:19 | がん告知
さくさく抗がん治療が進むある朝、小さなきっかけで突然いっぱい泣いたことがある。
涙は偉大な力がある、助けられてしまった。

朝ご飯についていたふりかけを見て泣いた。
栄養強化食品で商品名は「てつのすけふりかけ」
いろいろあるが確か、かつお味かたらこ味のどちらかがついてきたのだった。
よく、病院、学校給食などで栄養価に配慮して添加される食品だ。

わたしは保育士として働いてきた。
保育園でもこのふりかけはよく出た。
通常お店で売っていないから、他でであった事がなかった。

ふりかけを見た瞬間、色々なディレクトリを飛び越えて保育園を思った。
自分がどれほどこの仕事を愛しているか、
どれだけ仕事に、子どもたちに支えられて生きてきたのかに思いがとんだ。
ご飯を置いて走って中庭に出てわあわあ泣いた。
担任が突然いなくなったこどもの不安に詫びながらあいたくてあいたくて泣いた。
泣きながら、わたしはわかっていた。
子どもたちは順応し、すぐにショックから立ち直ってすくすく育つこと。
こんなに心が支えられていたのなら、もっと人として深く関わればよかった。
おまえがなくほどそんなにいい保育士だったのか?
そうも自問自答した。
ここが病院でよかったとも思った。
新宿の地下街じゃ、不審者だ。
普通、おばさんがしゃがみ込んでわあわあ泣いていたりはしない。
まだ泣いてなかったから、泣かないと向かいきれないのかな、とも。
涙が用意されてしまったからなくのかも。
幼い子を家に残してきた母親だったら、すごくつらいだろうなとも思った。

泣くのはそうは長く続かない、力が必要なのだ。
こどものように泣くと気持ちは「もういいや」というような感じになっていた。
泣く場所があってよかった。
そのあとはもう泣くことはなかった。
てつのすけふりかけはその後も出たが、感情のふたを開けることはなかった。
泣くというのはありがたい人間の仕組みだ。
こどもが親と離れたくなくて泣いたり、けんかして悔しくて泣いたり、
泣き止むとけろっと遊びだしたり、けんかした相手とまた遊びだしたりしているのと同じ。

タフに生きていくのにはおいおい泣くのもありなんだった。
今までの世界と変わり、今からの療養生活。
違う事はもう仕方ない。
タリーズでいつものデカフェを待って買って、涙で洗われて

やる気のない日、だるい日もままある

2013-01-11 16:21:13 | 心のリハビリ
だるいのである。
400mを全力で走ってきたかのように疲労がいっぱいだ。

今日のようにやる気が起きない日もままある。
どうしてなのだろうか。
性格的なものもあろうし、体力の低下によるものもあろう。

やれないね、こういう時は。努力するとむなしくなる。
掃除機なんかかけない。
洗濯物もたたまない。
でも、やりたい事だけはなぜか人間出来るもので、それだけやればいいや。
新年だから何か新しいことが出来るわけないし、
死ぬ気になったって変わる事などない。

こういう体調が多い中でちょっと感じていることがある。
妊娠、産後、感情が抑えられない事がよくあった。
激しい感情がワアッと湧いてくるのだ。
それをありあり思い出す。

そのころは不当な仕打ちなど受けようものなら怒りの感情が全身を支配し、攻撃的になった。
手が出てしまうし、涙も出てしまう。
自分がいやになるほど好戦的、小学生の頃に戻ったようだ。
同時にくさい作りのドラマなどでも自己同一化して思いがあふれてきて泣けてしまう。
涙腺がゆるくなる。
ホルモンの変化によるものなのか、環境の変化によるものなのか。
がん告知後、ややそれに似た感情の激しさを感じる事が、わたしの場合ある。
何なのだろう。
役所の窓口でたらい回しにされ、同じことを二度三度言わされただけで自分でも驚く程不機嫌になっている。
窓口の人が気を使って謝るくらい、むっとした顔をしていたのだろう。
かと思うと小さなメジロが樹の枝にとまっただけでかわいくてじ~んとなっている。
(メジロはうぐいす色で、うぐいす餅と同じくらい小さい)

感情の波の振幅が大きくなる。
体は思い描いたように動かない。
だとしたらがん患者、リハビリの患者はやっぱり大変だと思う。

まわりだって大変だよね。

疲れるとすぐ寝ちゃって、朝4時前に起きてしまって
「夜が長くて長くて」とこぼす年寄りが多かった。
歳を取ると寝る事で感情を消化するのだろうか。
(母が、病気ではないが昼寝ばかりして早く寝て明け方からごそごそする、心配!)
体内時計が狂うのも厄介で、本人はストレスだろう。

療養生活もだれだれ、さえない事も多々ある。

やっぱり、ほんの数ミリの「これやろう」がもてるか。
些細な環境設定に支えられるか。(メジロが来るのが見える窓があるとか)
気力だなあ、最後は。
気力は食べ物だなあ。

万人がおいしいと思う食べ物はないけど、体にいいものはあるんだと言った人がいる。
その考えで、いいものを探して食べ尽くしていこう。
幸い、食べる事はいやになっていない。

ずうずうしく、だらだらと、ニートな日々を克服していきましょう。へらへらして。
怒ったり、泣いたりしながら。
いやにならないで、みんなそうだとおもってまいりましょ。

パジャマを脱ぐ時って

2013-01-10 18:12:09 | 心のリハビリ
手術から4ヶ月半が過ぎている。
パジャマがなかなか脱げない。
正確にはパジャマだけでは寒いからルームウェアで一日を過ごしている。
ほぼ似たようなものなので一緒にくくることにするね。
色はきれいめ、もこもこ素材。しかし干物女。

入院当初はパジャマで一日を過ごす事に抵抗感があった。
病院の窓は飛び降りられないように少ししかあけられなくなっている。
違う世界に来ちゃったな、と感じたものだ。

娘は「パジャマ、管理しやすいもん」という。
「だって、パジャマ着せないとお母さんみたいな人ってすたすた外に行って居酒屋でボトルキープしてタバコ吸って大騒ぎしてもわかんない。スリッパはいてパジャマの人がふらふら歩いていたらみんな気がついて知らせてくれる」
入院する程の患者ですものね。なるほど。

元気なうちはそういう心配もあっただろう。
すぐにあっというまに抗がん治療開始とともにパジャマはわたしの皮膚になじんだ。
退院後も永遠にパジャマが脱げない気分。
無気力ではなく、休んでいたい。
それにルームウェアはもうもう一体感で、オシャレなど意味がないと思える。
楽。これ以上の何がある?
鏡を見ても痩せた見たくない顔が映るから、やだ。
食べて寝るだけの闘いで精一杯。
パジャマからの脱却は意外とハードル高い。
飛び降りられない、あけられない病院の窓のよう。
当初、空けたい願望があったが、諦め感。
すごく隔たりがある。

きょうようやく、銀行に行く。
帰りにニトリでごろ寝用の新しいソファを買う。(未だごろごろ時間長い)
思い切ってアウトレットに足を伸ばし、奮発してバーバリーのコートを買う。
ユニクロでなく、いいコート。
いわゆるバーバリーってかんじじゃなく、普通のウールのコートに見える。
もの凄く細身で着ても貧相に見えない。
それにすごく暖かい。
パジャマじゃないものを着てみるきっかけを作ろう。
希望を買って帰ってきた。

以前、心の迷いで部分カツラ65,000円を購入。
これはどぶに捨てたような買い物だった。
このバーバリーの赤いコート(なんと赤!)はどぶ行きじゃなく表に出て行くパスポートになってくれ、と思っている。
けっこう悲願なんです。
まだまだリハビリは長い。
仕事復帰までは幾節あろう。
帰り道、いつもながら気分が悪くなる。これにも慣れてきた。

パジャマから普段着。
体調の改善は基本、必須。
それにそってか、気持ちも変わり始める。
背伸びして気持ちが街着をほしがった、それが嬉しくて買ってしまった。

わたししか着れない細いコート、元気になるしかないぞ。

告知と向き合う(楽になるために)

2013-01-09 11:30:12 | がん告知
そういえば昔はがんは家族が呼び出されて告げられた。
不治の病なのでショックが大きいので本人に知らせるのは家族の判断だった。
患者の知る権利保護のため、がんは告知されるようになった。

わたしと同じ食道がんで亡くなった知人がいて、葬儀も終わり落ち着いた頃、線香を持って家を訪ねたことがある。
ありがとね、ありがとね、と故人の妻はわたしを引き止めた。
初孫のお宮参りの写真を見せてもらったり、なぜかカレーをごちそうになったりした。それに青汁も。
「死ぬのは怖いよ、とあの人がわたしにすがって泣いたんだけど、あたしは返す言葉がなかったよ」
彼女はそういった。
つらい気持ちがまだそこにあるのが伝わる。
わたしも彼女に返す言葉がなく、「孫の顔を見れて、良かったね」と話をずらした。
孤独な苦しみを抱えていった故人と残された家族を思うと、生きる事は本当に苦行だなあととぼとぼ家に帰った。

ところがわたしの場合、がんはあっけなく認めることが出来た。
なぜだろう。
なくなった彼の時代はがんは恐ろしいイメージで定着していたこともあると思う。
時代のがんへの扱いが変わった。
それと、がんは誰でもがかかるものだよ、という意識が持てたことだろうか。
何故あっけらかんなのか、考えてみるがそのくらいだと思う。
本人はそれなりにかまえてノートに思いついた事を書き連ねていたから、ショックがなかった訳ではないはず。
しかしノートには散歩と食べるものなどが主に書かれている。実に食べる事ばかり。
ノートに
「何も考えずHOS.に来て、何も考えずに一日を過ごす。東京駅で買った成城石井のチリメン山椒はベタ甘で食えず、残念」
「これから対処しなければならないことはたいへんなことだが、一人ではない。手厚いケアの中にいる。そのことを見失わずに、大きな眼で、自分を把握したい。自分が特殊な試練の中にいるなどと思い上がらない事だ。イタめしの差し入れ、イカのフリットが絶品。とにかくすきなものを食べて、食べて、食べた。これでいいのだ」
と、ある。
立ち止まらない事かな。
生活するって、立ち止まらないで食べて寝て、そうしているうちに強い感情も日常に織りなされて取り扱いしやすくなっていく。
三度三度のあるところから考えていくことなのかな。
そう出来れば人間てけっこうタフだと思う。
楽な場所に立てるといい。
生活の中にあるんじゃないかと思う。




がん細胞はブドウ糖がお好き(痩せてがんに気付く)

2013-01-08 17:50:04 | がん早期発見

おととい、感動した早春のチューリップの芽です。
タイムリーじゃないなあ。
おまけにこの作業の際、一旦書いたブログを消してしまうという初歩的ミスをしてしまった。
いいんです、そんなこともある(もうあってはいけないが)

昨日、アクセス数が急に増えた。
続けているからかな。
訪問者よりも倍近く閲覧数がある。
じっくり見てもらっているのだろう、嬉しいな。
頑張らなくちゃ。

でも万人にまあいいんじゃない、というように選んでしまいたくない。
多くの人に「なに、これ」といわれてもたった一人の心に響くほうが大事だ。
日頃の生活全般でもそう思っているので、まわりから変人と思われているかもしれない。
いや、おそらく確実に思われているだろう。
変人でどこが悪い、と居直るすべも知っているし。
人はそれぞれで、わたしの感動の中身までは人には伝わらなくても、感動している事だけは伝わるだろう。
選ばず、思った事に素直でありたい。

体重が急に減りだしてがんに気付く人がいた。
痩せて変だなと思ってもあとからがんだとわかって「ああそうか」と思うことの方が多いだろう。
その人は病院に行くがよくわからず、様子を見ようといわれたそうだ。
しかし食い下がって検査を頼み、あれこれ調べ、晴れて膵臓がんが見つかった。
「ほら、ぼくはがんだと言ってたじゃないか」といったそうだ。

そんな話を聞いていた矢先、わたしも痩せ始めた。
しかし、わたしは賢くなく、すぐに病院に行くことはなかった。

がんを否定するために言い訳をしているかのようだ。
以下、わたしの当時の言い訳。
「職場の検診を半年前に受けて異常はない」
「加齢と過労」
「食べるものには人一倍気を使っている」
「今忙しい、落ち着いたら医者にかかる」

大盛りご飯を食べても痩せる。
朝食をきちんと食べていても昼食前に腹が減って倒れそうになる。
手足はひょろっとなってスマートを通り越した細さになってしまった。
「ご飯ちゃんと食べているの?」といろんな人に聞かれた。
つかれてつかれてしんどかった。
帰宅するとちょっと横になって一眠りしてから夕飯を作る。
食道がんの嚥下障害も出始めた。
カボチャの煮物の一口めがつっかえる。
ためしてガッテンで、老人は嚥下が下手になり誤飲による肺炎に注意という特集があり、これも加齢として片付けてしまった。

幸い、娘がおかしいと気がついてがんが解った。
放置していれば2年と持たなかったんじゃないかとのこと。
見過ごしてはならない症状が出ていたのだがわたしは一人ならもっともっと悪くなるまで動かなかったかもしれない。

後に仕組みを知って納得する。
もっと早く知っておけば良かった。
がん細胞は非常にたくさんブドウ糖を食う。
効率の悪く、燃費恐ろしく良くなく食い荒らす。
それを利用したのがPET検査で、がんがブドウ糖に似た物質を間違えて摂取させ、見つける。
また、がん細胞は増殖に都合の良い酸性体質に変えようとする。
血液中のタンパク質も取り込んでしまう。

痩せるし、腹減るし、筋肉は落ちるし、疲れる。

食べても急に痩せたら、がんか、糖尿病の悪化をうたがって見るといいと思う。
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抗がん治療のあとが爪にくっきり

2013-01-07 17:16:26 | 抗がん治療

こうもくっきりあとが残るってことはそれなりのダメージがあったという事なんでしょう。
大変な闘いを勝ち抜いて来たんですね。
かなり健康管理に気を使っていたつもりでも、疲れてうつらうつらしている事が多かったものね。
時には本を読みながら知らぬうちに寝ていて、夢の中で勝手に話を作って読んでいた自分に目が覚めて気がつく。
現実と夢の境目がはっきりしない時もあった。
寝ぼけてリアルに夢を現実だと思い込んでいることもあった。
おそろしや、おそろしや。
ぼけ老人の気持ちがわからぬでもないところまで来てしまったりするのだ。
退屈しているのではないかと本がたくさん差し入れられた。
しかしほとんど読み始めて気力を失い寝てしまっていた。
本の虫だったのに、読む気力がない。

この時期、面倒な事からわたしは逃げた。
母親にがんの事を教えなかった。
ぎゃあぎゃあ騒ぐ事が予想されたし(それもほぼ99,9999・・・・%という高確率で)泣き顔を見るのもいやだった。
同じ考えで親に隠し通そうという人もいた。
なんと彼女は親と同居しているのに!
入院中はショートステイに預けてハゲさえ親には隠すという。
皆それぞれ色々なしがらみを持って生きているんだなあとおもう。
強気になって自己を正当化する。
それでいいんです、こんな大変なとき。

抗がん治療の夏、NHK BSでドキュメントを見る。
「百万回の永訣 柳原和子 がんを生き抜く」だ。
がんは怖く、ショックだ、告知の仕方を変えてほしいという。
この作家はいい表情の女性だった。
神頼みで護摩を焚いてもらったりして自分と向き合っていく。
理解できなかった、わたしには、かけらも。
わたしは鈍感なのだろうか。
がんといわれ瞬間で感情を入れず、受け入れてしまった。
この鈍感さで語っても人の参考にはならぬかもしれないなあ。

写真画像の管理がまだよくわからず、ヒヤシンスの芽の画像はアップできない。
なかなかむずかしいのだね。

チューリップとヒヤシンス芽を出しました、希望の春!

2013-01-06 17:23:12 | 早春
厳寒の日々が続く。
クリスマス寒波など名前が付けられ、いつもこの冬始まって以来の冷え込みと報じられている。
強風が続き、日本列島には等圧線が実にたくさんシマ模様を描いている。
植物はすごいといつも思う。
この寒さの中、球根たちは芽を出している。
個人的には脳内にドーパミンが溢れ出る嬉しさを感じる。
画像をアップしたかったがどうも巧くゆかぬ。いらっ。
じき、慣れて出来ると思う。

ちょうど5年前の冬、所用でヨーロッパに行った。
一人では寂しいので息子を強引に連れて行った。
氷点下の町並みに花屋があり、チューリップが売られていた。

痛い程の寒さの中、花屋に色とりどりのチューリップ。
灰色の空の下それはきれいだった。
「凍らないのかしら」というと息子
「不凍液をもっているの、多くの植物は。心配しなくていいの」だそうだ。

自己投影という事で、寒さの中の芽に希望をつなげる事にする。

チューリップなどは激寒を体験しないと発芽しない。
わたしのようなヤツかもしれない。

春を見つけた事は、とても嬉しい。
幼いこどもの頃のように嬉しくてたまらない。
この気持ちをあげたかったなあと、若いつまずきの中で絶望する者たちを思い浮かべる。
若い時は苦しい。
ああはなりたくないという大人への軽蔑があり、孤高な夢もある。
しかし、実現への糸口はなさ過ぎてギャップを行ったり来たりする。
なくなってしまった友もいる。
健康なのに、命を絶ってしまった。
がんになっても生きようというわたし。
この図太さを分かち合うことは出来ないのか。
嬉しいよ、芽が出て。
チューリップ、と声を出してみる。

届かないだろうか、植物一体化してでもいつでも生きていこうというどん欲さは。



おすすめ歯ブラシ(タフト)ほか、日々を楽しむ(テレビ)

2013-01-05 17:50:59 | 口内炎
超やわらか歯ブラシタフトが実に良い。
値段も一本125円とか138円とかだったと思う。
熱心に歯を磨くと健康でもオエッとなることがある。
抗がん治療の副作用で口内炎が出来たり、口腔内が過敏になったりする。
日々の歯磨きに痛みを伴う。オエッとなりやすくなる。
ESS tuft24という歯ブラシ、術前、術後用と書かれて病院の売店で売っていた。
手術から4ヶ月経過したが、今でもこれを使っている。
食道がんの術後は吐きっぽいし逆流するし、口の中を清潔に保ちたい。
オエッとなり難いのでとてもいい。
すぐに傷んで駄目になるけど、カラフルで可愛いハンドルで楽しめる。
この歯ブラシはオススメ。

以前は朝、すごく忙しくて、忙しいけど朝ご飯はちゃんと食べて歯を磨く。
時間がなくて洗顔と歯ブラシを同時進行させようとしたら、窒息しそうになった。
病気がわかってからはじっくり歯を磨ける。
こういう事って大事だと思うのだった。

忙しくてテレビもつけてはいたが見ていなかった。
嵐とTOKIOの区別もつかない。
芸人の名前も知らない。
時報代わりにつけているだけだった。
夜は週一回洋画を見るくらい、遅くまで起きていると翌日寝坊する。

一転入院中はテレビをけっこう見た。
始めてじっくり見たともいう。
料理番組も面白かった、退院したら作ろうと思った。
でも、まだ作っていないが、正式なチキンライス。
本当の最初のレシピはとりもも肉丸ごとをバターソテーの後トマトケチャップで煮込む。
サフランライスに盛る。
海軍メニューだったのだそうだ。
今度作ろう。絶対食べてみたい。
洋画も見た。
嬉しかった。
不幸の中にも小さな楽しみはいっぱいあるのだ。
治療中も、リハビリ中も楽しんで過ごすのが一番だと思ってる。
ゆっくりしましょ。
(昨夜のハウルの動く城は見入っちゃいました)

限度額適用の認定のすすめ

2013-01-04 16:51:50 | 高額療養費
入院中、周囲の人からよく聞かれたのが、この限度額適用の申請についてだった。
がん治療は費用がかさむ。
あとから所属している健保組合に高額療養費支給申請をすると所得によって額は異なるが、3ヶ月位すると一部かかった費用が戻ってくる。
これを先にさっ引いて支払うように出来る制度がある。
費用はかからず、医療費の支払額は高額療養費支給を支払額から曵いたものと金額的には変わらない。
あとからその都度申請する手間がないのと、立替払いをしなくて済むのが限度額適用のいいところである。

70歳以上と未満とで内容は異なる。
70歳以上について、わたしは知らない。
未満については所得によって3つのランクにわかれる。
上位所得、一般、低所得、基準金額がそれぞれ大雑把に83,400 44,400 35,400円になっている。
月ごとの締めで入院、通院それぞれ別に、この額を超えて支払わなくてもいい。
差額ベッド、食事、寝間着の洗濯代などは対象にならない。

国民健康保険の人は住民票を置いている役所に行けば手続きできる。
わたしは健保協会から送ってもらった。
(正確には違って、わたしの労務管理をするセクションの有能な女性がやってくれた)
病院に申請書が置いてあるケースもある。
昔の紙の保険証のような限度額認定証が送られる。
これを会計窓口に見せればいいのだ。

入院してからこの制度を知ったので認定証は退院に間に合わなかった。
窓口に言って申請中だと相談すると、会計では
「入院費は支払わないで止めておきましょう。認定証が来たら会計してください」と取りはからってくれた。
それも笑顔で言ってくれた。
親切だとわたしは素直に感激した。

2回の抗がん治療のための入院、手術の入院に適用を受けた。
4回めからは負担額がさらに減る。
地元病院に腸閉塞で入院した。
通常通りの限度額適用を受けた
(同じ病院に4回めで入院すれば多数該当で減額してくれる、複数の病院にかかると多数該当で処理してくれない)
この場合、健保協会に高額療養費支給申請をすれば差額が振り込まれて返ってくる。

病気でお金がかかる時は申請しておくと便利。
けんぽ協会HP
申請書が出てくると思います。

がんフレンドがいる

2013-01-03 17:02:36 | 家族、友人
自慢できるラッキーはどのくらいだろうか。
一億当たったらこれはもう言えないと思う。
私たちの賃金を大きく超えすぎる額を当てたら、本人も戸惑うし、周りは働かなくていいね、と勝手に色々思うだろう。
わ~、よかったね~って言ってもらえるのはせいぜい自販機のもう一本あたり。
最近では運が落ちているのか年末の福引きも全て最下位で、ラッキーは期待しない。

その反対の聞いてほしいアンラッキーも、意外とない。

人間の日常って許容範囲狭いのかもしれない。

っつうか、言えない事ってあると思う。
言えたらもう悩みじゃないと常日頃思う。

一時期、大事な友人を立て続けにがんでなくした。
一緒にうちでご飯食べたりお茶飲んだりしていた仲良しだった。
親しい付き合いをしていた向いのおばさんもがんでなくなった。
わたしは我が家の床下に放射性物質でも埋まっているのではないかと本気で危惧した。
その後、また親しい大好きな友人にがんが見つかった。
続けてまた知人にばたばたがんが見つかった。
幸い、みな今では元気にそれなりの暮らしを営んでいる。

友人の立て続けのがんによる他界はわたしのトラウマになっている。
死の前日まであっていたこともあって、
また、幼い子を残しての死であったりして無念でならずたまらないのだ。

克服した友人たちにもあうのにしばらくの時間がかかった。
治療中はばい菌を持ち込む事がはばかられて電話しかしなかった。
引っ掻き回すのが心配と自分では思っていたが、怖かったのかもしれない、がんという病気が。
だんだんあちらに行ってしまう姿を見るのはもうまっぴらだったのかもしれない。

やはりがんは怖かったのだ。

がんがわかって、わたしはすぐに自分の病状をを伝えた。
最上級の暖かさで受け止めてくれて、本当に心強かった。
経験者は、一歩先を歩んでいる。乗り越えている。
そういう人がいてくれて、ありがたい。
一人抱えるのはつらい。
同じ思いをしている人と繋がっておれるのは勇気100倍。

入院してみると病棟は妙な気楽さがあった。
周囲はみな消化器のがん患者。
気楽に会話し合う。
若い人は真剣に勉強している。
「人参ジュースいいのよね」
「でも、おいしい?続きそう?」
「サプリだけよりいいでしょ」
「ストレスでなったよね~、いつなったかわかるもん、わたし」
会話がシュールに次から次に続く。
そしてみな、詩人なのだ。
本当にそうだと思えることを言う。
「がんになる人は頑張りすぎるんだよ。まずは自分の体にごめんなさいって言う事だよね」
本当にその通りだ。
「復帰を予測するのは希望的わがまましか言えないよね。いい加減な事言うと周りはあてにしちゃって振り回すことになるよね」
若いのに本当に素晴らしい、全く、御意。
「パジャマ、すっぴんの世界で言う事は偏ってるよね、世間では通じないよね」
はい、同感です。それを悩んでました。
がんになるとこんなに詩人になってしまうのか。同じ患者に対して。
ここだけ通じる世間とはちょっと共有で嫌いブラックを通り過ぎた世界があった。
わたしは助けられた。

がんフレンドはずっと今でもわたしの元気のもとであり続ける。
もちろんがんじゃない友達もいっぱい大事だけれどがんフレンドは病気を克服し合うパワーの源だと思う。
気楽に言えるってことが素晴らしい。



周囲のおちこみ

2013-01-02 18:52:58 | 家族、友人
昨日、怒って書き綴った。
頑張っている人に頑張るって言うなっていうようなことを。

敬愛する方から
「そうは言われても、頑張っているあなたに、いつも頑張れと言いたくなる」と丁寧なメールを頂いた。
ありがたい言葉に胸が熱くなった。

人を思いやる優しさあふれる人に「もっとしっかりやれ」と怒られてもわたしはむくれないと思う。
やれるかどうかは別として「はい」と言う。
どうもわたしは良い人ぶった無神経な人に過剰に敵意を燃やすようだ。
ちょっと自覚してきつつある。
受け流せる度量を持ちたいものです。

さて、がんに気付き、治療を開始。
わたしの場合立ち止まる事なく治療の日々さえわたしの日常生活としてとらえてしまった。
しかし、周囲は早い展開についていけず、ショックなまま傷ついていた。
それに気がついたのはずうっと経ってからだった。
手術を終え、リハビリも進み、なんとか暮らせるようになりようやく周りの表情を感じることが出来るようになった。
おいてけぼりなのである。
がんのショック、生と死に分たれるかもしれぬつらさに突き落としたままなのである。
一緒に考えていこうね、という時間を取れば良かったと思う。
ひとりでなんでもさっさか動いてしまった。
確かに妙にみな優しかった。
どう接したらいいのか困って事態を受け入れきれずおどおど戸惑っていたのだろう。
普通、そうだと思う。
悪いことをしたと反省している。

がん告知を受けたらやっぱ、自分のことばかりいっぱいいっぱい。
周りは何も見えていなかったのだろう。
そうなりがちなので、がんがわかった方はゆっくり周りの人と一緒に考えていってほしいと思う。
取り残されていく恐怖感、孤独感を共有してあげてほしいと思う。

鉄の女だなあ、と今更ながら自分を反省している。

これからは甲殻類ではなくやわらかな存在として生きていきたいものだ。

こういう時にこそ残りの時間を気にして変わっていかないとな~