ホノルルにいます。
2月7日にホノルルに到着した練習船海王丸の船長レセプションで、ナイノア、ノーマン、レイトン、マイクといったホクレア関係者と再会し、レセプション終了後、雨宮船長の御好意で船長公室に陣取って日本航海のときの話に花を咲かせました。
翌日の8日には、ぼくのピンチヒッターとして沖縄―熊本の水先案内を務めてくれた奥・海王丸一等航海士が、ホクレアの日本航海のDVDを実習生に見せながら、ホクレアのこれまでの活動を説明してくれたそうです。
その授業でホクレアに興味を持った実習生たちが、忙しい日程と折角の上陸休暇の最中なのにもかかわらず、2月9日午前中、サンドアイランドのホノルル・コミュニティー・カレッジのマリタイムトレーニング・エデュケーション・センターに上架されているホクレアの、整備作業を手伝いに来てくれました。
日本の船員の卵たちが、ホクレアと関わりを持ち、クルーたちとの絆を深めたことを、とても嬉しく思っています。
昨日2月9日は、宇和島水産高校の練習船えひめ丸の悲惨な事故から7年目にあたります。
えひめ丸の記念碑がある美しい丘で行われたセレモニーには、昨年の7回忌と同じように、ナイノアはじめ、ホクレアとカマヘレのクルーたちが参列しました。
ホクレアとカマヘレのクルーたちが宇和島寄航中に大変お世話になった水口さんご夫妻はじめ、ご遺族の方たちにも、ホクレアとカマヘレの宇和島寄港以来半年ぶりで再会することができました。
今年のセレモニーには、この日の午前中にホクレアの整備を手伝ってくれた練習船海王丸の実習生も、真っ白い制服に着替えて参列してくれました。
もしかしたら、彼らの真っ白い制服は、それに似た制服を着て宇和島を出港していく息子たちを見送ったご遺族の方たちの目には辛かったかもしれません。しかし、それを越えて、自らの意思で、短い自由上陸時間を割いてこのセレモニーに参加したい旨を申し出てくれた20歳前後の若者たちの、真摯な心がご遺族の方たちに伝わったのではないか思います。
昨年の同じ日、セレモニーのあとのレセプションの席上で、ご遺族を代表してご挨拶した水口さんの、『ホクレアが、息子たちの霊を宇和島まで運んでくださる』旨のお言葉を聞いたときが、ぼくがこの航海に関わることに最終決断をしたときかもしれません。
ホクレアがハワイ島を2007年1月にミクロネシアに向けて出港した後、ハワイ州観光局日本事務局の御手配で実現した昨年2月のホノルル訪問は、ハワイに残っていたナイノアに4月以降の日本近海の海況を説明し、また、ぼくの大学の後輩でもあり、日本の海況に非常に詳しい独立行政法人・航海訓練所の海王丸・雨宮船長をナイノアに紹介することが目的でしたが、それにも関わらず、ぼくは、ホノルルに向けて成田を飛び立つ時点では、2007年のホクレアの日本航海の水先案内を務める決心がついていませんでした。
ぼくは、2007年の4月から6月に渡るホクレアの日本航海に関わることになれば、そのときすでに契約していた、主としてヨーロッパを転戦する今後複数年にわたる外洋レースヨットのマネージング・スキッパーという、自分にとって理想に近い仕事を放棄しなければならない、という立場にありました。
もちろん、2001年に初めてナイノア・トンプソンという人物に会い、初めてホクレアに乗せてもらってオアフ島―マウイ島間の航海をして以来、ホクレアがそれまでにやってきたことも、ホクレアが日本にやってくる意味も意義も、理解しているつもりではいました。しかし、そのハワイのカヌーに関わることが、日本人である自分の人生にとってどれほどの意味があるか否かの議論になると、自分の中でどうしても答えを見つけられないことでした。
しかし、そのときのホノルル滞在で初めて、事故後6年も経って、日本人の間でさえ忘れかけられているえひめ丸とその御遺族のために、ホクレアがハワイでしてくれているいろんなことを知ったとき、何かがぼくの心の中に走ったようです。
短い滞在を終えてホノルル空港を飛び立つときには、もし自分がこれまで培ってきた海での経験と知識を、ホクレアが日本の海で必要としてくれているのであれば、2007年のシーズンはホクレアを最優先にするしかないだろう、と決心をしていました。
さて、2008年2月10日。今夜はナイノアのお母さんの家で、ぼくとぼくの家族は夕食に招待されています。
昨日会ったときにナイノアは、次のホクレアの航海のプランについて相談したい、と言っていました。
その大航海のプランは、もうかなり完成に近づいているようです。
その、恐らくは日本に寄港しない航海に関わることができるとすれば、日本人としてそれに関わるその意味と意義とは何なのか?
このことが、今後の自分自身の心との会話のテーマになっていきそうです。
(ナイノアが、次の航海でのホクレアのサポート艇として目を付けている中古の大型ヨットを、ホテルの窓からチラチラと見下ろしながら)
西村一広
2月7日にホノルルに到着した練習船海王丸の船長レセプションで、ナイノア、ノーマン、レイトン、マイクといったホクレア関係者と再会し、レセプション終了後、雨宮船長の御好意で船長公室に陣取って日本航海のときの話に花を咲かせました。
翌日の8日には、ぼくのピンチヒッターとして沖縄―熊本の水先案内を務めてくれた奥・海王丸一等航海士が、ホクレアの日本航海のDVDを実習生に見せながら、ホクレアのこれまでの活動を説明してくれたそうです。
その授業でホクレアに興味を持った実習生たちが、忙しい日程と折角の上陸休暇の最中なのにもかかわらず、2月9日午前中、サンドアイランドのホノルル・コミュニティー・カレッジのマリタイムトレーニング・エデュケーション・センターに上架されているホクレアの、整備作業を手伝いに来てくれました。
日本の船員の卵たちが、ホクレアと関わりを持ち、クルーたちとの絆を深めたことを、とても嬉しく思っています。
昨日2月9日は、宇和島水産高校の練習船えひめ丸の悲惨な事故から7年目にあたります。
えひめ丸の記念碑がある美しい丘で行われたセレモニーには、昨年の7回忌と同じように、ナイノアはじめ、ホクレアとカマヘレのクルーたちが参列しました。
ホクレアとカマヘレのクルーたちが宇和島寄航中に大変お世話になった水口さんご夫妻はじめ、ご遺族の方たちにも、ホクレアとカマヘレの宇和島寄港以来半年ぶりで再会することができました。
今年のセレモニーには、この日の午前中にホクレアの整備を手伝ってくれた練習船海王丸の実習生も、真っ白い制服に着替えて参列してくれました。
もしかしたら、彼らの真っ白い制服は、それに似た制服を着て宇和島を出港していく息子たちを見送ったご遺族の方たちの目には辛かったかもしれません。しかし、それを越えて、自らの意思で、短い自由上陸時間を割いてこのセレモニーに参加したい旨を申し出てくれた20歳前後の若者たちの、真摯な心がご遺族の方たちに伝わったのではないか思います。
昨年の同じ日、セレモニーのあとのレセプションの席上で、ご遺族を代表してご挨拶した水口さんの、『ホクレアが、息子たちの霊を宇和島まで運んでくださる』旨のお言葉を聞いたときが、ぼくがこの航海に関わることに最終決断をしたときかもしれません。
ホクレアがハワイ島を2007年1月にミクロネシアに向けて出港した後、ハワイ州観光局日本事務局の御手配で実現した昨年2月のホノルル訪問は、ハワイに残っていたナイノアに4月以降の日本近海の海況を説明し、また、ぼくの大学の後輩でもあり、日本の海況に非常に詳しい独立行政法人・航海訓練所の海王丸・雨宮船長をナイノアに紹介することが目的でしたが、それにも関わらず、ぼくは、ホノルルに向けて成田を飛び立つ時点では、2007年のホクレアの日本航海の水先案内を務める決心がついていませんでした。
ぼくは、2007年の4月から6月に渡るホクレアの日本航海に関わることになれば、そのときすでに契約していた、主としてヨーロッパを転戦する今後複数年にわたる外洋レースヨットのマネージング・スキッパーという、自分にとって理想に近い仕事を放棄しなければならない、という立場にありました。
もちろん、2001年に初めてナイノア・トンプソンという人物に会い、初めてホクレアに乗せてもらってオアフ島―マウイ島間の航海をして以来、ホクレアがそれまでにやってきたことも、ホクレアが日本にやってくる意味も意義も、理解しているつもりではいました。しかし、そのハワイのカヌーに関わることが、日本人である自分の人生にとってどれほどの意味があるか否かの議論になると、自分の中でどうしても答えを見つけられないことでした。
しかし、そのときのホノルル滞在で初めて、事故後6年も経って、日本人の間でさえ忘れかけられているえひめ丸とその御遺族のために、ホクレアがハワイでしてくれているいろんなことを知ったとき、何かがぼくの心の中に走ったようです。
短い滞在を終えてホノルル空港を飛び立つときには、もし自分がこれまで培ってきた海での経験と知識を、ホクレアが日本の海で必要としてくれているのであれば、2007年のシーズンはホクレアを最優先にするしかないだろう、と決心をしていました。
さて、2008年2月10日。今夜はナイノアのお母さんの家で、ぼくとぼくの家族は夕食に招待されています。
昨日会ったときにナイノアは、次のホクレアの航海のプランについて相談したい、と言っていました。
その大航海のプランは、もうかなり完成に近づいているようです。
その、恐らくは日本に寄港しない航海に関わることができるとすれば、日本人としてそれに関わるその意味と意義とは何なのか?
このことが、今後の自分自身の心との会話のテーマになっていきそうです。
(ナイノアが、次の航海でのホクレアのサポート艇として目を付けている中古の大型ヨットを、ホテルの窓からチラチラと見下ろしながら)
西村一広