4月30日 御朱印船

2009年05月01日 | 風の旅人日乗
息を切らしてママチャリで葉山の坂道を登り切って、
あえぎながら吸い込む空気の中に、
いろんな植物の新芽の匂いが交じっている。
なんだか空気がおいしい季節になったなあ、と思っていたら、
もう、明日から5月なんだ。
ちょっと前まで、朝の自転車は帽子と手袋なしでは乗れなかったのに、
季節は自分が思っているスピード以上の速さで流れているってわけだ。

この1年の間に、同年齢の知り合いが4人、亡くなった。
4人とも、去年の今頃は当たり前のように元気で生きていた。
そのうちの2人とは、
この新緑の季節の空気を一緒に吸いながら
書類を前にして今年の仕事の具体的な計画を練っていた。

来年の今頃、自分がこの世に居ないことも、
この美味しい空気を来年はもう吸えないことも、
それほど突拍子もないことじゃない、
もっと時間を大切にすべし、と自分を戒めてはいるのだけれど…。

ホクレアのポマイラ航海から戻ってきた4月8日以来、
いろんな人に会うことを続けて、もう3週間が過ぎた。
行動を起こすキッカケを探している。
行動を起こすべきことのコアの部分は、
自分ひとりのことじゃない、
たくさんの人との輪の中で行なわなければ意味がない、
そのことだけは、この3週間で確信することができた。

大正10年に発刊された、朱印船に関する記録を、
鵠沼に住む伝説のサーファーからお借りしてきた。
表記が昔風で、しかも自分の能力の問題で読めない漢字も多く、読み辛い。
しかし、パラパラとページをめくって拾い読みするだけで、
驚くべきことの数々が、平穏な表現で書かれていることを発見する。

例えば、『朱印船の構造』の章。
「船を堅牢にするだけでなく、創意を加えて、
逆風を利用し、波浪を凌駕するための道を講じた。」
「帆は最初はマストに直接取り付けていたが、
マストにガフとブームを取り付けてこれに帆を取り付け、
それをウインチ(轆轤)でコントロールし、
前後左右上下に移動して風に合わせて推進力とした。」
すごい。すでに今の近代ヨットと同じだ。
「船底は2重構造とした」、ともある。近代タンカーと同じ安全構造だ。

そして、もっと凄いことが書かれているのを発見した。

「船尾に2対のスクリューを装着し、それをウインチ(轆轤)で巻いて回転させ、推進力とした。
これは周防大島の村上氏の祖先の創意(発明)である」、
との記述だ。
設計図(そう、設計図の写真もある)を見ると、
飛行機のプロペラのように細く長い羽が4枚付いている。
そのスクリューが船尾板左右に2つ装備されている。
確かに、これだと人力でも轆轤を介せば楽に回せただろう。

西洋で、蒸気でスクリューを回す蒸気船が登場したのが19世紀。
周防大島の村上氏のスクリューの発明が、16世紀。
西洋より300年も前に、日本で人力スクリューが発明され、実用されていた!
うーん、知らなかった。
村上氏というのは当然、村上水軍関係者だろうな。
歴史の時間は年号ばかり覚えさせられて、退屈で仕方なかったけど、
先生、こういうことを学校で教えてくれば、
ボク、もっと勉強するいい子になっていたのに。

ホクレアが寄った周防大島。
ホクレアの周防大島寄港の段取りを整えてくれた大島商船高専の
藤井船長の生まれ故郷の、あの周防大島で、
地球初のスクリューが考え出されたのか…。
突飛なことのようだけど、でも、あの島に住む人たちの船と海の「血」の濃さを思えば、
当然のようにも思えてくる。
2年前に寄港して以来、周防大島ファンになっているホクレアのクルーたちに、
早速教えてあげよう。

ホクレアに関することを相談に行った先で、
帰り際にまったくそのこととは関係なく、1冊の本をお借りしたら、
それもホクレアに繋がってしまった。
うーん、どういうこと?
そういうこと?

豊臣秀吉が発案し、徳川幕府開闢直後に徳川家康が制度化した朱印船は、
その僅か30年後、鎖国政策によって存在理由をなくし、廃れた。