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続・知識階層は弱体化が進んだのか

2005年09月08日 17時23分12秒 | 社会全般
「今の政治はポピュリズムだからダメなんだ」というならば、「あなたならどうしますか?」と率直に聞いてみたい。賢人達は、常に大衆よりも正しい判断をしてきたのならば、今までのような「ダメな政治」が行われている結果は、常に「ポピュリズムのせいだ」という結論にしかなり得ないようにも思う。それは、いつの時代にもそうだった、ということだ。海部内閣で「うまく行かないのは、政治が悪かった、それを選んだ大衆が悪い」という結論が出ているならば、次に変えればいいと思うけれども、次の宮沢内閣でも同じように「宮沢も失敗だった、それは政治のせいであり、ポピュリズムのせいだ」、次の細川内閣でも「政治が変わらないのは、与野党交代を選択した大衆が悪いのだ」ということなのか。政権交代によっても、得るものが無い時、それはポピュリズムのせいなのか?「政権交代を選択しなければよかったのだ」ということならば、知識階層の人たちがこぞってそれに反対したのか?


多くの知識階層の人たちは、どの時代にも常時批判して、「これは良くない」「変えるべき」と言い続けたのに、何故良くならなかったのか?何故望ましい政治の形が出来てこなかったのか?それは、大衆にも政治家にも何も伝わらなかったか、無効なことしか主張してこなかったからではないのか?


金融財政政策にしても同じだ。知識階層の人々は「~は良くない」とあれこれ言い続けたが、それが退けられたのは大衆のせいではない。そんな選択を大衆がしたからではないし、行政府が一般大衆のためにそういう選択を優先させたとも言えない。例えば日銀の金融政策を誤っていたとするなら、それはそういう政策決定を行う知識階層の人々が誤っていたに過ぎない。大衆のために判断が誤った訳でもない。財政政策にしても、圧倒的大多数には利益とも言えないが、一部の連中の利益となるように事を運んだ政治家や官僚達が誤っていただけであり、そういう背景は一般大衆によって支えられたものではない。むしろ擬似ポピュリズム的な言い分で実行されたに過ぎない。それに加担した人達は、勿論知識階層の連中だった。


結局、知識階層の人々は、時々の政権批判を行うことでその存在を保ち続けたが、実は「政治を変えない」ということと同じであった、とも言える。それとも、問題分析的になり過ぎて、「間違い探し」に熱心なだけであり、まるで元々の絵柄が何を書いてあるかまったく気がつかなかったようである。本当はそこに書かれている絵柄に大きな問題があったのに、細部の誤りだけに目を奪われてしまい、知識階層が指摘するのはいつも、「ここが良くない、間違っている」ということばかりで、問題解決の成否には一向に関心を払ってこなかった、とも言えるだろう。内輪で延々と「間違いはここだ」「いや、こっちだ」「そうじゃない、これだ」と言う具合だ。まるで経済論争を見るのと同じようだ。


多くの政治的問題は、大衆が誤ったというよりも、本当は行政府と関わってきた知識階層の人々が間違い続けてきたのが原因の一つだろうし、外から批判する知識階層の人々が余りに弱すぎて多くの大衆に影響力を持たなかったからではないのか。「一般大衆が愚かだから政治はよくならないのだ、俺は正しい答えを知っているのに」と冷ややかに知識階層の中に安住している人々がいるとすれば、その人々は無知なる人々と同罪か、むしろ責任が重いと言わざるを得ない。一般大衆の熱情と距離があればあるほど、その責任は重い。一般大衆は少なくとも「反応アリ」であって、間違いかもしれないが出口を捜し求めてリアクションを示す。ところが、知識階層の人々は、外から批判ばかりしてきたけれども、正しい答えを示さずに、「大衆の選択が間違いだったのさ」という結論に落ち着くばかりで、何故選択を誤ったのか誰もそれを教えようともしないし、次にどうするべきか、ということも示さなかった、と言えるだろう。知識階層の人々が言う「反応ナシ」の冷めた言説よりも、一般大衆のエネルギーの方が政治を変えられるチャンスを生んできたと感じている。


言論に影響力を持つだけの知識階層が育ってこなかったことが、過去の政治にも影響していたとしか思えないのである。それなのに、今更になって「単なるポピュリズムに過ぎない」などという批評しか出てこないとするなら、「現政権は間違いだらけで、何も達成できなかった」と批判する前に、常々批判を繰り返してきた知識階層の人々も同様に何の役にも立たない無駄な言説しか持たなかった、ということを反省するべきだろう。「ポピュリズム」にしか政治変革のチャンスを持たない国民にとっては、知識階層の言説には何も期待できず頼れないことの裏返しなのであり、だいたい賢人達の言説によって正しく政治を行わせられるならば、一般大衆が強い関心を持たずとも正しく進んでいくはずなのである。


大型旅客船のクルーが間違わずきちんと船を目的地に運んでくれるなら、航海の専門でもない無知な乗客達はあれこれ心配せずとも済むに決まっている。だが今まで、船長(=総理大臣)は間違いを繰り返し、操舵に関係ない航海マニアな乗船客達(=知識階層)は船長や航海士達に向かって、「右に舵をきったのが間違いだ」「いや、左30度じゃなくて20度だった」「減速が遅れたのが悪かった」・・・と数々の批判は出るが、「じゃあ、今後の操舵、操船はどのようにするのか」の問いに対してはまともに答えず、「全乗客達に聞いてみろ」と言い、全乗客達は船を動かすことなんて判らないのに、「舵を右に切るのか、左に切るのか」などと聞かれるようなものだ。おまけに、少ない限られた情報からやっと選んだ結果に対して、マニアックな乗客達にしてみれば「あーあ、間違えた。ほら見ろ、無知な大衆の言うことで決めるからだ。どうせ間違えるだけだ」という答えが返ってくるのである。こんな船は、無事に航海を続けられるか?目的地に正しく向かうことが出来るのか?


マニアックな乗客達は、普段から「航海方法」などについて研究したり商売の種にしたりしているのだから、正しい答えを知っているならば、全乗客達に選ばせる前に船長やクルー達に正解を教えれば済むことなのである。それか、乗客達が間違った選択をしないように、教えることが必要だろう。役立たずの知識を、マニアックな知識を持つ者同士の中だけで行き来させても何も変わらない、ということに早く気付くべきである。今まではそうやって政治が行われ、時間ばかりが進んできたのであり、知識階層の人々は同じことを繰り返してきたに過ぎないのである。


知識階層は弱体化が進んだのか



知識階層は弱体化が進んだのか

2005年09月08日 16時50分12秒 | 社会全般
以前に反権威主義・反専門家主義について述べたのだが、昨今の政治批判や政権批判を見ていて思うところもある。全員が同じ意見である場合の危険性というのは理解できる。なので、様々な批判が存在することの方が健全であるとは思う。

だが、今回の選挙を通じて、メディアなどにもよく見られる政治批判の結論として、「ポピュリズム批判」が多くなってきた。確かにそうした傾向はあるかもしれない。ならば、何故そういう道を歩んできたのか、ということへの探究心が欠けているような気がした。それについて、自分の思う所を書いてみたい。

参考記事:

「中国反日デモ」から見える日本政治
「中国反日デモ」から見える日本政治~その2
「中国反日デモ」から見える日本政治~その3

「サイバー・デモクラシー」は醸成できるか~1
サイバー・デモクラシーは醸成できるか~2

「反専門家主義」が顕在化したブログ世界


何を指して知識階層とするか、という問題もあるだろうが、私独自の定義付けとしては、一般的に理解されている知識人、言論を主たる職業としている人達、等としましょう。一般的な大衆よりも学歴も高いだろうし、知識も豊富であり、言ってみれば「賢者、賢人」的な階層の人々であると思います。多くの場合には、大衆に比べて「正しい判断が出来る」ということも認知されているとしましょう(何をもって正しいとするか問題はあるが、百人の賢人に聞いた時に最大多数派の解答とする)。


今の政治の問題とか、国家の抱える問題というのは、恐らく多くの専門家や研究者達にとっては、「今頃何を判り切ったことを言っているのか」ということなのだろうと思います。もっと早くに取り組むべきであったのだ、と。そして、政治はそういった警告を無視して、突き進んできたのだ、それを後押ししたのは大衆でありポピュリズムの悪弊に陥ったのだ、と。


ここに至る過程の中で、軌道修正するチャンスは幾度となくあったはずだし、政治や政策を変更させることも出来たかもしれないのである。行政にしても、有識者会議や専門家を招いて行う審議会等を何百とやってきて、そういう中で政策決定を行い、専門家の出した諮問や建議というものは、行政や政治に反映させるチャンスが何度もあったはずなのである。そういう諮問をするのは、大衆であるはずがない。ごく普通の、どこの馬の骨とも知れぬ国民など呼ばれて意見を聞かれたりはしないのである。つまりは、行政と一体となってやってきた「有識者」や「専門家」たちそのものが、誤った方向へと導いたとしか思われない。それとも、全国の八百屋のオヤジに「次の政策を決めたいが、どうしたらいいか」などと意見を聞いたりするものなのだろうか?


どんな時代であっても、常に選挙や政局で解説してくれる人々がいるし、有名大学教授とか有力新聞の論説委員とか、色々な分野の知識階層の人々がいる。そういう人達はいつも、「今の政治は良くない」「国民の信頼を失った」「大衆迎合は良くない」「単なるポピュリズムに過ぎない」などと解説をしてくれる。そして、「今政治が問われている」(笑)といった結論が出てくる。けれども、前には自分達だって、答えを言わなかったじゃないか、と思う。本気で大衆の判断が誤りなのであり、正解は別である、ということを示せる賢人たちが多いならば、ずーっと昔に正しい方向に進むことができたはずだ。なぜならば、行政の現場に一般大衆の意思が反映されることなど、殆どないからだ。多くは政治家や官僚達や知識階層の連中が寄ってたかって決めてきたじゃないか、と思うのである。政治学者達は、もしも「政治が間違ってる」と思っているならば、何をどのように改めればいいか、大衆に教えるとか、行政に提言を叩きつけるとか、何かやればよいのである。同じ大学の中の教授で、政府や行政と密接に関わりのある人間に対して、「君達は間違っている」と教えてやればよいのである。


90年以降に何度も首相は変わり、第一党も変わり、政党の構成も大きく変わったのに、政治はどれ程変わってきたのか。はっきり言えば、過去の変革は余りに小さく、今の方が変革の機運は大きいと感じている。その間に、知識階層の人々が行ってきたことは何だったのか、是非知りたいものである。そういう人々のお陰で、今の「改革路線」が生まれたのか?知識階層の人々が必死に行政府に働きかけた結果、政治が変わろうとしているのか?


海部、宮沢、細川、羽田、村山、橋本、小渕、森、と各歴代内閣が誕生する度に、様々な政治的変革のチャンスがあったはずである。賢人達にとってみれば、「望ましい政治のかたち、ポピュリズムではない政治」ということの基準は、この15年間で大きな違いがあったのだろうか。普通に考えれば、例示したどの内閣の時にだって、求められる政治というのは、政治学的に見て大きな違いがあったとは思われない。それぞれ、どの総理大臣にも、「ここが悪い」「お前は力量不足」「間違っている」と責め立てるが、それで何が変わったのか?果たして、どこが良くなったのか?学問的に見て、「正しい方向」に常に修正されてきたのか?


(続く)