いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

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遅ればせながら「女王の教室」最終回

2005年09月21日 22時43分57秒 | 俺のそれ
先日出かけていて観れなかったので、録画しておいた「女王の教室」の最終回を観ました。涙の最終回でしたね。またしても泣いてしまいました。視聴率が25%を超えたという報道がありましたが、ナルホドと思いました。


今回も観た通りの筋ですので、特別に何かを言うべきことはありません。今の時代には、このドラマが持っていた意味が大きかっただろうと思っています。そういう脚本を書いた人(実は誰か知らないのですけれども)は、卓越した発想であったと思います。共感することは多かったです。


前半の回での評判が悪く、各方面から色々と非難が多かったようですが、最後には理解されて良かったですね。私も記事に書いてきたので最後まで観たかったし、スポンサーが途中で降りたりせずに良かったと思います。


後半あたりから制作側の意図が伝わり、最後の高視聴率に繋がったのでしょうね。天海さんは、やはり素敵でした。アクツ先生のイメージがピッタリで、天海さん以外では難しかったかもしれませんね。


続編が検討されている、とのことで、我が家では期待しています。


女王の教室シリーズ:

我が家のブーム
「女王の教室」で泣いてしまう?
「女王の教室」第5回
「女王の教室」第6回
女王の教室(第7回)
「女王の教室」(第8回)
女王の教室(第9回)
「女王の教室」第10回




日本人を誇りにしてはいけないか

2005年09月21日 10時26分26秒 | 教育問題
小倉弁護士の記事(○○人であることを誇りに思う人々)を拝読して、「○○人の誇り」論争について知った。私は既に日本人であることを誇りに思う、と記事にも書いてきたのだが(終わったな、ホリ○モン)、思わぬところで「右傾化」を非難される羽目になった(笑)。正直な気持ちとして、もしも再び生まれてくるとしたら、日本に生まれたいと思っている。それはいけない感情なのだろうか?

「こういう人が大手をふるっている日本は・・・」とまで言われてしまって、何と失敬な、とちょっと思いました(笑)。私は歩いてしまっています、大手をふるって。


日本人であることは何も担保するものではない、ということは理解できる。だが、少なくとも日本人として生まれ、その文化に育まれて生きてきたのであるから、日本人としての誇りを持つことがそれほど問題なのだろうか?オリンピックやワールドカップでは、日本を一生懸命応援するし、勝つと嬉しいけどね、やっぱり。外国に旅したら、堂々と日本人です、と答えるし。少なくとも、中国人とか韓国人といった、よく間違われ易い民族と思われたら、「いいえ、日本人です」と答えるけれど。


「どうせ自分のことを誇りに思うのであれば、自分が他人のため、社会のために、何かを成し遂げたことを誇りに思えばいいと思うのです」とも述べておられるが、それならば別に日本人でなくとも何人でもいい訳です。何処に生まれようと無関係ですね、ということです。


これはあたかも誰の子供として生まれてもよい、ということを言っているようにも感じます。私は自分の両親から生まれたことを恥じたりはしません。勿論大金持ちでもなければ、高学歴でもなかった両親が、世間的に見て「人も羨むような立派な人」という訳でもないですし、はっきり言えば、もっと特別な家庭に生まれていたら違う人生を送れたかもしれません。大会社の御曹司とか(笑)。ですが、自分のルーツは両親を含め、自分の先祖にあることは動かせない事実であり、その生家を誇りに思うことがなければ「自分の血は穢れている」的な、暗鬱な気分しかないように思います。確かに「良家の血筋」を自慢して、それに安住するというのは、個人の能力を示すものでもないのに、おかしな話だろうと思います。ただ、そうであったとしても、自分の先祖、ルーツを否定する気にはなれません。自分を産み育ててくれたことに感謝し、誇りに思うことはあっても、他の文化を持つ家に生まれればよかった、とは思いません。


日本人であることは、自己の選択意思とは無関係なものであり、生家を選べないことと同じです。その誇りを忘れてしまい、文化を否定することは、自分のルーツを捨て去ることと同じだろうと思うのです。過去の歴史が積み上げてきた日本人の文化を捨てることで、礼節も規範意識も倫理観も喪失していくのではないか、という危惧があります。それを体得させる一つの要素が、自分のルーツを大切にする気持ちなのではないか、と感じています。


ナショナリズムに走ることの危険性や排外的思想の先鋭化問題などは、今後解決していくべきことだろうと思いますが、それと、日本人としての誇りは別物なのではないか、と考えております。寧ろ、そういう混同を避ける意味でも、「他人への敬意」「人々への感謝」といった教育をすることが必要なのではないか、と思います。教育に関する記事に何度か書いてきましたが、私は今の時代に欠けているのは、そういう他者への尊敬や両親や先人への感謝の気持ちだろうと感じます。


ですから、たとえ「日本人であることを誇りに思う」という発言をすることで疑惑の目を向けられるとしても、それを改めようとは思いません。少なくとも、誇りに思わない日本人がこれ以上増加しないことを祈るだけです。何たって、「いい国作ろう!」ですから、私の場合には(笑)。単に個人が頑張るなら、「自分で自分を褒められる人になろう!」にタイトルを変えねばなりませんから。



続・当面急ぐ課題

2005年09月21日 01時38分57秒 | 社会全般
特別国会で国民投票法案についての審議を行うという報道があったようだが、早くも数の論理による「勇み足」となるのか。こういう問題がいきなり浮上すると、先の選挙での「ヒトラー論議」や「ポピュリズム論議」を再燃させることになるだろう。国民の憲法改正への関心や優先度はそれこそ「郵政民営化」以下でしかなく(確か4~5%位だろう)、取り立てて今やることでもないし、そもそも慎重な議論が必要な事項である。特別に急ぐ内容でもないのに、数が多い「この4年間でケリをつけよう」などという拙速は避けるべきである。


自民党圧勝に導いた数パーセントの票をもってして「日本全国の愚かな選択」と評していた連中は、「ホレ見たことか」と騒ぎ立てるだろう。今はやるべきことをしっかりやるべきだ。まず国民との約束を果たせ。


特別会計の何をどのように改めるのか(国民年金が悪者か?特殊法人の不良債権額の推測?)。「役人天国」の何処を改革するのか。そうした現実的なプランも示していないのに、何で国民投票に関する議論なんだ?経済財政諮問会議の民間議員たちにしたって、経済学者が2人もいるのであるから、以前に書いた労働保険特別会計の問題(雇用保険は貢物か2特殊法人の不良債権額の推測?2)について、正しく答えろよ。どういう会計操作を行って、政府出資金が減ったのか。カネボウの監査法人の問題どころの騒ぎではないぞ。独立行政法人化したのは、現政権であろう。その説明責任を果たしているのか?何のために経済学者や経営実務家が存在するのだ?財務・会計は専門分野だろう?

政府出資金は、元々国民のお金だ。その貴重な資金が大幅に減ったのであるから、それについて正確な説明をするべきである。それすら行わず、こっそり損失処理をしておきながら、新たに国民のお金をつぎ込み続けるのも異常だし、知らないフリを続けて、今度は憲法改正を目論むなんていうのは、一万年早いぞ。


労働保険は度重なる保険料率アップで、国民から大幅に搾取しているくせに、ドブに捨てる羽目になった国民のお金をどのように戻すのだ?一体、誰が責任をとるのだ?こんなことをこれからも延々と続けるのか。まず、やるべきことをやるのが先決。


ところで、小泉さんは記者から「所謂小泉チルドレンと言われる新人議員の教育が始まりましたが・・・」とか質問を受けて、「そういうことではないです。彼らは子供ではありませんよ、大人ですよ。失礼ですね。立派な大人です」と答えていた。面白すぎて、笑った。狙っていたのなら、役者だなと思った。