参院採決という本丸攻めにおいては、敵方の奸計の前に敗退したかのような小泉であったが、一度城外に退いて陣を立て直し、大衆を味方につけようという大規模な反撃を目論んだのだった。敵方の正体はそれまで国民の前には十分明らかとなっていなかった連中がたくさんいたのだが、参院否決後の解散によって城外に誘き寄せられ、大衆の前に姿を曝したのだった。
造反組は、当初の予定では新党を立ち上げようか、などと息巻いていたのだが、現実に解散されてみると、烏合の衆に逆戻りしてしまった。頭目の定まらない集団など、何の影響力も持たなかった。そこに小泉方から強烈な侍大将が現れた。今まで、不器用で政策論にも疎い感のあった、愚直な武部幹事長であった。この猪突猛進型の幹事長が、思いのほか強さを発揮した。選挙戦という、城攻めとは全く違った野戦に強い党幹部が存在したことは、小泉方に望外の効果をもたらしたのだった。
今年初めから続いた「三の丸」攻めでは、自民党内での反撃を抑えながら政府の法案提出に漕ぎ着けた最大の功労者は、与謝野政調会長であった。時に、最も標的とされ易かった軍師竹中を守りつつのいくさであった。特に激しい抵抗を受けた連休前の最後の突撃には、園田らと共に執行部一任という形で抵抗勢力の正面突破を図ったのだった。この後を受けたのは、二階総務局長だ。衆院特別委員長という、「戦」を意識した小泉用兵であった。これは、既に選挙突入に備えた作戦とも言えた。二階は中川国対委員長と共に、「二の丸」落しを着実に進めたのだった。また、総務会での抵抗勢力を粉砕したのは、久間総務会長だった。党議拘束も強い方針で臨み、採決をもって党議拘束決定を下したのだった。手続き論が無制限に続くという水掛け論に終止符を打ったのだ。それによって、衆院採決では、わずか5票差という薄氷の勝利ではあったが、「二の丸」を陥落させることに成功したのだった。この採決前から、実は強い方針を打ち出していたのが、目立たなかった幹事長、武部であった。
このように本丸攻めまでには、党執行部のタスキリレーとも言える協力があったのだが、最後にこのタスキを手渡されたのは武部であった。「紙芝居」作戦などに代表されるように、幹事長としては何となく力量不足のような感が否めないと目されていた武部であったが、こと「いくさ」に関しては強く、二階と共に選挙という野戦では、強い侍大将ぶりを発揮した。衆院採決前から、「厳しい処分も有り得る。公認外しや除名も有り得る」と警告を発していたのだが、これを本気にする者などは敵方に誰もいなかったのだ。特に敵方の勢力の中心であった亀井、平沼あたりは、「外せるならばやってみろ、何ならこっちはこっちで真正自民党でも立ち上げてやる」という、なめた態度で、「まあるい、気の抜けたような幹事長」の言うことなんて怖くないぞ、というような態度が明らかであった。
ところが、いざ解散となってみると、武部幹事長という男の、強さを見ることになったのである。思いのほか、存在感が大きく、造反者達が安く値踏みしていた幹事長とは思えなかったのだ。小泉からも「公認を外す、離党勧告・除名も辞さない。そして全ての選挙区に候補者を擁立する」という強い指示が出ていた。武部幹事長の「絶対公認しない」という一直線な態度に、造反者達は激しく狼狽した。こんなところで、猪突猛進型の男が活きてくるとは・・・。武部は反対派の泣き言や言い訳など全く聞かず、全て粉砕した。どんな非難もものともせず、反対派は誰をリーダーにするか、新党をどうするのか、などと混乱しているうちに、次々と先手を取って攻め立てていった。小泉流の「刺客」と呼ばれた対立候補が次々と擁立されていったのだった。この動きを支えたのは、官邸と選挙対策を集中的に管理していた幹事長、安倍代理、二階総務局長などを中心とする党本部チームであった。
選挙という野戦では、告示前に小泉自民有利の状況ができつつあった。それは、標的が判りやすかったからだ。郵政民営化ということは勿論、「官に敵がいる」という標的を作ることで、小泉自民がこの「官」を叩く正義なのだ、と訴えることができたのだ。「官」との関係は、民主党にも矛先を向けさせることが出来た。民主党が触れられたくない部分、官公労や自治労と郵政民営化を結び付けられてしまっていたのだ。本当は自民党が多くの利権と繋がってきたはずなのだが、そこから目をそらさせ、自民党はそれと決別したのに民主党は未だ「官」との関係から抜けられないでいる悪者なのだ、という像を作り出した。確かに民主党は、造反組の連中と一緒になって本丸攻めを妨害してしまったのだから。
この城外での野戦は、小泉自民にとっては有利な状況を作ることに成功した。城から出て、バラバラになった反対派達は、一般大衆に取り囲まれ、個別戦での戦いを余儀なくされた。「強力な本丸」も、城の外では何の役にも立たなかった。「各個撃破」されていくのを、どうにか耐え忍ぶ以外になかった。
軍師竹中も、公示前から積極的に戦場を駆け巡った。特に解散直後の序盤戦では、かつて本丸を目前にして「矢襖」状態にされた敵方を打ちのめす為に、精力的に「強い論客」ぶりを披露した。城外に出れば、竹中はいくさでも負けないと思っていたのだ。この援護は選挙が終わるまで続けられた。
大衆という味方を手に入れ、しかも城外という野戦では、敵方に勝ち目はなくなっていた。民主党は、反対派に回ってしまったことを後悔することになった。本丸攻めの時には、はじめは遠くから眺めていたのに、終盤になってから反対派である籠城組に兵糧援助などをして、漁夫の利を得ようという小賢しい戦術をとったことが、裏目に出たのだ。大義なきいくさでは、勝てるはずもなかった。
8月30日公示、9月11日投票。
この選挙期間中、反対派も民主党も、一度も小泉自民を上回れることなく、敗北せざるを得なかった。
開票開始。
敵方は総崩れとなり、一部の落ち武者達が生き延びたが、援軍の役割を果たした民主党は大敗を喫した。小泉は、反対派と当面のライバルであった民主党を同時に叩き潰したのだ。いくさは予想外の大勝利となり、敵方の将は大物が何人も討ち取られていった。
小泉は結果が報じられるのを見ながら、ふと思った。
大衆が味方につけば、必ず勝てるのだ・・・多分、天命があったのだ、私には。
勝利するのは、大義ある者だけだ。
そして、大衆が動く時を待った甲斐があったというものだ・・・長かった・・・
小泉は、「伝家の宝刀」を本気で抜いて城外戦に誘き出し、果敢に戦いを挑んだ。
そして、大衆を味方につけ、再びこの城の前に戻ってきたのだ。
城に残っていた反対派の残滓は、おとなしく明け渡しの宣言をした。
参院での採決では、「賛成に回る」と。
反撃する力も残されていなかったのだろう。
入城を目前に控えた小泉は、最後の勝利を確信した。
この城は、落ちたのだ。
「大うつけ」の私が、何十年も挑み続けた城が、
遂に落城するのだ・・・
造反組は、当初の予定では新党を立ち上げようか、などと息巻いていたのだが、現実に解散されてみると、烏合の衆に逆戻りしてしまった。頭目の定まらない集団など、何の影響力も持たなかった。そこに小泉方から強烈な侍大将が現れた。今まで、不器用で政策論にも疎い感のあった、愚直な武部幹事長であった。この猪突猛進型の幹事長が、思いのほか強さを発揮した。選挙戦という、城攻めとは全く違った野戦に強い党幹部が存在したことは、小泉方に望外の効果をもたらしたのだった。
今年初めから続いた「三の丸」攻めでは、自民党内での反撃を抑えながら政府の法案提出に漕ぎ着けた最大の功労者は、与謝野政調会長であった。時に、最も標的とされ易かった軍師竹中を守りつつのいくさであった。特に激しい抵抗を受けた連休前の最後の突撃には、園田らと共に執行部一任という形で抵抗勢力の正面突破を図ったのだった。この後を受けたのは、二階総務局長だ。衆院特別委員長という、「戦」を意識した小泉用兵であった。これは、既に選挙突入に備えた作戦とも言えた。二階は中川国対委員長と共に、「二の丸」落しを着実に進めたのだった。また、総務会での抵抗勢力を粉砕したのは、久間総務会長だった。党議拘束も強い方針で臨み、採決をもって党議拘束決定を下したのだった。手続き論が無制限に続くという水掛け論に終止符を打ったのだ。それによって、衆院採決では、わずか5票差という薄氷の勝利ではあったが、「二の丸」を陥落させることに成功したのだった。この採決前から、実は強い方針を打ち出していたのが、目立たなかった幹事長、武部であった。
このように本丸攻めまでには、党執行部のタスキリレーとも言える協力があったのだが、最後にこのタスキを手渡されたのは武部であった。「紙芝居」作戦などに代表されるように、幹事長としては何となく力量不足のような感が否めないと目されていた武部であったが、こと「いくさ」に関しては強く、二階と共に選挙という野戦では、強い侍大将ぶりを発揮した。衆院採決前から、「厳しい処分も有り得る。公認外しや除名も有り得る」と警告を発していたのだが、これを本気にする者などは敵方に誰もいなかったのだ。特に敵方の勢力の中心であった亀井、平沼あたりは、「外せるならばやってみろ、何ならこっちはこっちで真正自民党でも立ち上げてやる」という、なめた態度で、「まあるい、気の抜けたような幹事長」の言うことなんて怖くないぞ、というような態度が明らかであった。
ところが、いざ解散となってみると、武部幹事長という男の、強さを見ることになったのである。思いのほか、存在感が大きく、造反者達が安く値踏みしていた幹事長とは思えなかったのだ。小泉からも「公認を外す、離党勧告・除名も辞さない。そして全ての選挙区に候補者を擁立する」という強い指示が出ていた。武部幹事長の「絶対公認しない」という一直線な態度に、造反者達は激しく狼狽した。こんなところで、猪突猛進型の男が活きてくるとは・・・。武部は反対派の泣き言や言い訳など全く聞かず、全て粉砕した。どんな非難もものともせず、反対派は誰をリーダーにするか、新党をどうするのか、などと混乱しているうちに、次々と先手を取って攻め立てていった。小泉流の「刺客」と呼ばれた対立候補が次々と擁立されていったのだった。この動きを支えたのは、官邸と選挙対策を集中的に管理していた幹事長、安倍代理、二階総務局長などを中心とする党本部チームであった。
選挙という野戦では、告示前に小泉自民有利の状況ができつつあった。それは、標的が判りやすかったからだ。郵政民営化ということは勿論、「官に敵がいる」という標的を作ることで、小泉自民がこの「官」を叩く正義なのだ、と訴えることができたのだ。「官」との関係は、民主党にも矛先を向けさせることが出来た。民主党が触れられたくない部分、官公労や自治労と郵政民営化を結び付けられてしまっていたのだ。本当は自民党が多くの利権と繋がってきたはずなのだが、そこから目をそらさせ、自民党はそれと決別したのに民主党は未だ「官」との関係から抜けられないでいる悪者なのだ、という像を作り出した。確かに民主党は、造反組の連中と一緒になって本丸攻めを妨害してしまったのだから。
この城外での野戦は、小泉自民にとっては有利な状況を作ることに成功した。城から出て、バラバラになった反対派達は、一般大衆に取り囲まれ、個別戦での戦いを余儀なくされた。「強力な本丸」も、城の外では何の役にも立たなかった。「各個撃破」されていくのを、どうにか耐え忍ぶ以外になかった。
軍師竹中も、公示前から積極的に戦場を駆け巡った。特に解散直後の序盤戦では、かつて本丸を目前にして「矢襖」状態にされた敵方を打ちのめす為に、精力的に「強い論客」ぶりを披露した。城外に出れば、竹中はいくさでも負けないと思っていたのだ。この援護は選挙が終わるまで続けられた。
大衆という味方を手に入れ、しかも城外という野戦では、敵方に勝ち目はなくなっていた。民主党は、反対派に回ってしまったことを後悔することになった。本丸攻めの時には、はじめは遠くから眺めていたのに、終盤になってから反対派である籠城組に兵糧援助などをして、漁夫の利を得ようという小賢しい戦術をとったことが、裏目に出たのだ。大義なきいくさでは、勝てるはずもなかった。
8月30日公示、9月11日投票。
この選挙期間中、反対派も民主党も、一度も小泉自民を上回れることなく、敗北せざるを得なかった。
開票開始。
敵方は総崩れとなり、一部の落ち武者達が生き延びたが、援軍の役割を果たした民主党は大敗を喫した。小泉は、反対派と当面のライバルであった民主党を同時に叩き潰したのだ。いくさは予想外の大勝利となり、敵方の将は大物が何人も討ち取られていった。
小泉は結果が報じられるのを見ながら、ふと思った。
大衆が味方につけば、必ず勝てるのだ・・・多分、天命があったのだ、私には。
勝利するのは、大義ある者だけだ。
そして、大衆が動く時を待った甲斐があったというものだ・・・長かった・・・
小泉は、「伝家の宝刀」を本気で抜いて城外戦に誘き出し、果敢に戦いを挑んだ。
そして、大衆を味方につけ、再びこの城の前に戻ってきたのだ。
城に残っていた反対派の残滓は、おとなしく明け渡しの宣言をした。
参院での採決では、「賛成に回る」と。
反撃する力も残されていなかったのだろう。
入城を目前に控えた小泉は、最後の勝利を確信した。
この城は、落ちたのだ。
「大うつけ」の私が、何十年も挑み続けた城が、
遂に落城するのだ・・・