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日本人を誇りにしてはいけないか―小倉弁護士への反論

2005年09月26日 13時52分43秒 | 俺のそれ
小倉先生からTB頂きました。前に私がTBを送ったのですが、文字化けして(理由は不明です)、その為か削除されてしまいました。なので今回も化けてしまうかもしれません。

参考記事:
日本人を誇りにしてはいけないか
右翼化する時代


小倉先生は次のようなご意見を寄せて下さいました(一部抜粋しました)。
続・○○人であることを誇りに思う人々

「いい国つくろう」とするのであれば、彼らに対し、周辺諸国や国内マイノリティの欠点や問題点を探し回りこれをあげつらって溜飲を下げている暇があったら、具体的に人々をより幸せにする何かを達成するために日々努力し、あるいは大人になったときに具体的に人々をより幸せにする何かを達成することができるよう今のうちからしっかり勉強しなさいと諭すべきなのではないかと思います。ネット上で周辺諸国や国内マイノリティを侮蔑するのに必死な人々は、ひょっとしたら主観的には自らを「愛国者」と位置づけているのかもしれないですが、彼らのそのような行為は「お国のために」何の役にも立っていないのですから(むしろ、民族差別ないし憎悪が広く行われているとして、日本の国際的評価を引き下げることに貢献しているといえるかもしれません。)。


ネット上で一部に散見される攻撃的なコメントや周辺諸国ないし国内マイノリティなどに向けられた侮蔑をなくしていくことに、私もやぶさかではありませんが、具体的に「君達の思想信条は間違っているので、それを改めるように」と啓蒙して回ることは出来ません。また、「○○人であることを誇りに思う」ことに対して、それを誇りに思うことは大きな勘違いであり、そういう思考も止めなさい、とは申せません。それはまるで、「○○人であることを誇りに思う」ことを当然としてそういう思考をしなければならない、と言うことと同じような気もします。


仮にある父親が「わが息子を誇りに思う」という人がいる場合、息子を誇りにしたところで父親が何かを成し遂げたものでもなく父親の能力を担保するものではないし、全くの他人から見れば「何故あんな息子を誇りにするのか」という評価であるかもしれないですが、それでも父親に「息子を誇りにすることを止めなさい」ということを求めることが必要なのでしょうか?例えがややずれてるかもしれませんけれども、他人の「~を誇りに思う」という感情に対して、そういう思考を止めなさい、という要求を出すことは、特別必要なこととも思えません。別に例の父親が息子を誇りに思うことが、父親や息子にとっても、また他人にとっても大きなマイナスを生ずるとも思えません。そのような思考に対して「止めるべき」というのと、「するべき」という要求をすることは、同じなのではないですか?と思うのです。


日本人であることを誇りに思うことは、それ程悪い事なのでしょうか?赤の他人から「その思考を止めるべき」などという教訓を与えられるべき事柄なのでしょうか?少なくとも、私はそうは思いません。誇りに思う人が増えて欲しい、そういう国になって欲しい、と願っています。


小倉先生が前の記事で触れられておられましたが、教育基本法について、その内容に「愛国心」という語句を含むかどうかという問題を取り上げて、そのような条文を入れることに「反対である」という、単に立場の表明であるならば理解は可能です。しかし、単なる個人的感情―「○○人であることを誇りに思う」こと―を、その考えは止めるべきであり右傾化に過ぎない、という総括された結論に疑問を感じるのです。止めるべき、というのは、持つべきというのと同様な強要に過ぎないと思います。


私がコメント欄で述べた次のことについても、現実離れし過ぎとの評価を頂きました。

『日本の文化を大切にする心を知れば、当然異文化に対しても同じように敬意を持って接することができるのではないか、とも考えております。根本にあるのは、他者への尊敬であり、価値観の多様性を認め尊重することだろうと思います。』

私は、家庭教育において本来達成されるべき事柄であると思っておりますが、学校教育の中においても日本の文化について教えたり、異文化に触れたりする機会があるだろうと思いますから、そのような中での教育によって、ある種の「イジメ」と似たような異民族やマイノリティへの侮蔑によって自らの溜飲を下げる行為を減少させられるのではないか、と思っています。私は現実に教育者でもなければ、教育現場をよく知る立場にある訳でもありませんが、学校でのイジメは中々なくならないし、大人社会の中にだって存在するだろうと推測しています。それに加担する人々は、上に述べたような思考を持たないか、あっても認識が非常に希薄であるとか、そういう根本的原因があるのではないだろうか、と考えています。「イジメを根絶しよう」ということで、「イジメはするな」ということをいくら言ってみたところで、加担する人々がいなくなっていないでしょう。それと同じで、「異民族やマイノリティに対して侮蔑を止めろ」と如何に説いて回ったところで、解決には至らないのではないかと思います。


少なくとも、「侮蔑は止めろ」などということは、本来ネット上で赤の他人から教わるべきことでもないでしょうし、「○○人であることを誇りに思う」ことも取り立てて非難するべきことでもないでしょう。ましてや、「○○人であることを誇りに思う」ことを、小倉先生が分類するような理屈だけで議論するというのは、一方的な決め付けに過ぎないと言わざるを得ないでしょう。その分類とは、次のようなものです。

①「惨めな現状から目を背けるための麻薬」
②「何かを指し遂げたことではなく「○○人であること」で誇りを持ててしまう、お手軽な自尊心維持方法」
③「自分の属性が一般に広く侮蔑されている場合に、これに対する精神的な対抗手段として「○○であることを誇りに思う」とあえて表明するということはしばしばありますから、「○○人であることを誇りに思う」としている人々は、「○○人である」ということによって広く一般に侮蔑されているという認識を有しているのかもしれません(これは、「弱者」の側が行うときには有効なのですが、「強者」の側が行うと非常に鼻持ちならないです。)。」


また、政治的な背景から次のようにも述べています。
「これから日本政府が推し進めようとしている新自由主義経済のもとでは、貧富の差が絶望的なまでに拡大し、しかもその貧富の差はほとんどの場合世襲されていくことが予想されます(といいますか、既にかなりそうなっていますね。)から、そういう社会においても貧困層が自尊心を失わないで済むように「日本人であることに誇りを持つ」ことを推奨するというのはあり得る」


小倉先生が仰るように、自分が自分を褒めてあげられる程「俺はこれを成し遂げた」と自己評価したところで、それが何の客観性もなければ、その人の能力や成果を示すことではないことは当然で、全くの他人から見れば、「そんなことを誇ってどうするのか」という程度のものも有り得る訳です。そんなことを他人から評価されたいのでしょうか?「~を誇りに思う」というのは、個人感情の発露であって、特別に他人から「そういう評価はいい」とか「その評価は間違いだ」などと言われる筋合いのものではないでしょう。上の例に挙げた、父親が息子を誇りに思うことだってそうです。そんなことに口出しされるのは、はっきり言えば大きなお世話なのです。


「東大卒を誇りに思う」という人がいたら、それはそれでいいと思いますが、他人から「それを誇るのは鼻持ちならない」とか「そんなことを誇りに思うのは間違い」とか、他人にいちいち言う方がオカシイと思いますが。「警官であることを誇りに思う」と表明したら、「お手軽な自尊心維持方法だね」などと言うのでしょうか?「日本人であることを誇りに思う」とブログに書いたら、「それはあなたが貧困層であり侮蔑される対象だからで、麻薬中毒に過ぎないのです。だから誇るのを止めなさい」などと、その人に向かって説教するのでしょうか?私には、そのような考え方は理解できるものではありません。