201●年――
・EU某国 9月10日 17時08分
商品Xの国際先物市場のオンライン取引システムは、休止時間を迎えた。
このシステムを提供している中堅取引会社Yでは、毎日午後5時になるとあらゆる注文がストップされ、一日の決裁を行うことになっていたからだ。Y社のシステムは、様々な投資家たちや、プロのトレーダーたちに利用されているものだった。各自がオンラインで自由に取引できるので、大変便利なシロモノとして重宝されていた。利用者たちは、Y社のシステムに接続すれば、Y社の取引口座の管理だけでなく、銀行との資金移動も簡単に行うことができた。
この日、Y社のシステム監視担当者が、ある異常を見つけた。顧客の取引口座の決裁が行われた数秒後には、何故か全ての口座残高がゼロの表示になってしまったのだった。一人や二人ではなく、確認する口座は全部ゼロだった。その数分後には、報告を受けた担当役員の指示で、システムの緊急停止措置が取られたが、Y社の顧客たちの取引口座は突如としてカラッポになってしまったのだった。ただ一つの口座を除いては…。
◇◇◇◇◇
<少し時間を遡って…>
・日本 2月5日
中国人の王は、小樽に到着したばかりだった。極寒の地と聞いてはいたものの、案外と暖かく感じた。中国の内陸部の冬に比べれば、凍結の程度は生温いだけだった。とは言うものの、暖かい香港からやってきたばかりの王にとって、寒さに震えたのは間違いなかった。小樽に集合することに決めたのは、ロシア人のサーシャだった。一番目立たず、集まりやすいから、という理由からだ。
王は小樽の市街地にある、カフェテリアで到着を待った。カフェの前の広場には、観光客が大勢たむろしていた。主に、中国人や台湾人のグループだった。ここでは、中国人は珍しくはないようだった。日本全国的に、当たり前の光景になっていたのは事実だが。
カフェのメニューには、中国語表記の他にロシア語が書かれていた。利用客には、ロシア人が少なくなかったからだろう。確かに、店内にはまばらにロシア人風の男達が座っていた。なるほど、目立たない、という理由が王にも理解できたのだった。
暫くすると、サーシャが暗い色のコートに身を包み、ふっくらした帽子と大きめのサングラスをかけて入ってきた。サーシャの帽子の前面には、何故か日本語で「サーシヤ」と書かれていたのだった。これを読んだ王の口元に笑いがこぼれた。どうやら、判りやすい目印ということらしい。軽く手を挙げて合図を送った王を見つけたサーシャは、ゆっくりとテーブルにやってきた。王は挨拶を済ませると、モトヒトはまだ来てないと告げた。サーシャは、あの人はいつもそうだわ、と不満を口にした。
その時、広場を横切って、男が小走りにやってきた。モトヒトだった。彼は長身だったが、やけにひょろっとした体型で、恐らくサーシャよりも体重は軽いだろう、と以前から王は思っていた。大学院を卒業して以来の再会だった。3人はかつて、米国の有名大学の大学院で同級生だったのだ。3人が得意にしていたのは、数学や物理や金融や経済やコンピュータやソフトウェア、だった。
カフェを出た3人は、市内のホテルの部屋に籠もって、入念に打ち合わせを繰り返した。彼らが計画していたのは、金庫破りだった。昔の映画のような大胆不敵な金庫爆破とかではなく、姿を見せぬままごっそり頂くという、バーチャルな強盗団だ。
計画の一部を確認する為に、小樽から離れた都市にある専門学校に忍び込み、そこのコンピュータを使って一度だけとあるネットワークに侵入してみた。何もせずに、何も奪わず、ただ、入れることだけを確認したのだった。この痕跡に気付ける人間は、そうそう多くはないだろう。恐らく、誰にも気付かれないという自信は、王にはあった。あとは、下準備を入念に行って、実行に移すだけだ。
これまでの計画段階で、殆どのやりとりを暗号メールで済ませてきていた。今後の連絡も、同じく暗号メールでできるだろう。特に王は、政府側の監視網をくぐりぬける為の、細心の注意を必要とされていたので、おいそれと「金庫」だのという危険ワードを書くわけにはいかなかった。彼らは、電子メールは「秘匿性が優れる」というような過信は、抱かない主義だった。逆に、メールの送信先や内容―危険ワードの有無など―のチェックなどを常に受けているだろう、と考えていたのだった。それへの対策も、用心深く考えていた。
最後に、3人は香港での再会を誓った。次は、本番実行だ。
◇◇◇◇◇
・EU某国 9月10日 18時23分
Y社のシステムは緊急停止されたにも関わらず、大金が消えていることが判明した。顧客の口座情報を洗いなおすと、唯一残高がゼロになっていない口座があった。そこには、約137億円が集まってしまったのだった。この日に行われた、Y社のシステムでの取引総額が
その金額だった。その決裁が行われた途端に、一つの口座に金が集められたのだった。しかもその金のうち約120億円は、すぐさま外部のZ銀行に資金が移動されてしまった。移動先のZ銀行は、EU内ならばどこでもネット経由で資金移動のできる銀行システムを持つ、国際的に有名な欧州の銀行だった。
Y社の幹部は警察を通じてすぐさまZ銀行に電話連絡をした。資金を移動した先の銀行口座の凍結を依頼するためであった。しかし、時既に遅し、であった。Z銀行の資金は、タックスヘイブンのとある島へと移動された後だった。
・●●島 9月11日 10時14分
EU某国の警察から調査を依頼された現地警察が、Z銀行から資金が送金された銀行口座を調べに行った。公式な捜査令状などがないので、銀行側は非協力的で情報開示には中々応じようとしなかった。政治的圧力も通じにくかった。どうやら、送金先は現地で設立された法人Aということらしかった。法人Aの専用口座だったようだが、そこからスイスの口座へと資金が移動されたらしかった。EU某国警察は、必死にお願いをして、スイスのどこの銀行なのか聞き出そうとした。しかし、答えられない、との一点張りだった。
またしても、時間ばかり浪費してしまい、送金リレーに追いつけないのだった。入金があったら、次の送金先が予め指定されていたようで、Z銀行も、法人Aの専用口座も、入金直後に次の送金先へと素早く移してしまっていた。ビジネスなので、止むを得ない話なのだけれども。銀行家たちにとっては、それも仕事の一つでしかないのだから。
・スイス 9月14日 9時06分
広域犯罪の捜査協定を盾にして協力を取り付けた某国警察は、ようやくスイスにある銀行の一つの口座を探し当てることに成功したのだった。法人A専用口座から送金された資金は、またしても別な口座へと移動されたようだった。次は、ロシアにある銀行らしかった。今後は、はるかに捜査時間がかかるようになるだろう。ロシアの警察が協力してくれるとも思われず、ましてや銀行が顧客の情報を簡単に開示するとも思えなかったからだ。
……
・EU某国 9月29日 10時
捜査状況の報告が、警察幹部たちの前で行われた。犯罪の全貌がどうやら明らかになってきたようであった。
10日、先物取引のY社のシステムから、顧客の資金が盗まれた。
銀行との間のファイヤーウォールは頑丈そのもので、銀行側システムにも隙は少なかったが、Y社のシステムには脆弱性があったのがターゲットとされた原因のようであった。しかも、資金の移動先に指定できる銀行には、巨大な国際銀行であるZ銀行という好都合があった。国境を楽々飛び越えることのできる銀行口座にはもってこいだった。EUの便利さが、逆用されてしまった形だ。投資家ら顧客とY社を繋ぐ部分に、金庫破りたちは侵入したのだった。大手の銀行などに比べると、防御システムに資金をあまり投入する余裕のなかったY社のシステムには防壁の弱い部分があって、そこを狙われたのだ。
Z銀行に移された資金は、●●島の口座にすぐ移動。この口座開設は、現地の地元民1名とカリブ海の浮浪者2名の法人だった。それぞれ金で頼まれただけだった。身分証明は地元民の免許証が使われ、他の2名は偽造パスポートだった。彼らを雇ったのは、中国系米国人らしい。マイアミあたりにいる、という話だったが、誰かは不明。こうして、書類上の架空法人Aが作られ、その口座が開設されたということだ。
そこからスイスに送金されたが、スイスの銀行口座はロシア人Bが作ったものらしい。そのBはイギリスに住んでおり、ネット上の掲示板で口座開設の仕事を頼まれた。スイスまでの旅行と、おまけに金までくれるという、好条件のバイトだった為に、このロシア人Bは何の疑いもなく引き受けたようだ。しかし、この口座はネット上の別なロシア人と思しき人物に売却され、利用された。
そこからロシア国内の銀行へと送金されたが、その先の資金の動きは完全解明には至らなかった。捜査手段が途絶えたからだ。どうやら、ロシアの銀行からアラブ諸国のどこかの銀行に資金が移されたようだ。王族なのか、アンダーグラウンドな資金なのか、よく判らないことも多いようなので、ロシア側の銀行はあまり触れたがらないらしい。こうして、数十億円規模に小分けにされた資金は、オークションなどで高額な絵画や宝飾品の購入代金として充てられたようだった。オークション主催側は、支払が行われれば品物を引き渡すので、どんな人間が買ったのかはよく知らないそうだ。
このオークションは、12日に香港で行われたものだった。
品物を取りにきたのも東洋人(多分中国人ということだった)で、他の連中とあまり違いなどなかったので、誰もよく憶えていないということだった。結局、絵画や宝飾品に化けてしまった、というわけだ。資金がY社から盗まれてから、僅か2日で香港の品物になっているとは、思いもよらないことだった。
10日のY社のシステムへの侵入は、韓国のサーバを経由して行われたようだ。そのアクセスポイントはダミーで、本体は多分中国だろう、ということらしかった。それも、香港か上海のどちらか、ということだ。そこから、韓国を経由して、EU某国のY社のシステムに侵入し、決裁計算を書き換えて一つの架空口座へ資金を移した。この資金をZ銀行の口座に送金した瞬間から、サイバー送金リレーがスタートした、というわけだ。各銀行では、数字を書き換えるだけの楽な操作に過ぎず、予め指定された手続を実行してしまったというわけだ。
この侵入者たちは、事前に入金額と送金先を指定しておいたので、あっという間に資金移動が完了できたのだ。事前の入金額が判っていることが大事だった。137億円全部を移し替えることができたのに、敢えてそれをしなかったわけだ。また、送金先は、捜査が及ぶのに時間のかかる先ばかりを選んでいるのだ。犯人割り出しや、手掛かりを掴めるまでの時間稼ぎのできる銀行を選んだということだ。
ロシアやアラブ圏となると、政治体制の壁もあるし、言葉の壁もあるし、現地の警察当局の能力や協力姿勢などの違いもある。欧米諸国などの先進国をあまり選んでいないというのは、その為であろう。そして、現物に替える時には、人の多すぎる香港を選んだ。目立たぬようにするには好都合だろう。多分、中国人グループが犯行に関与している可能性が高いであろう。中国でなら、中国人であることが珍しくはないからね。
更に、10億円の札束を持ってあちこち移動したり逃げるのは難しいが、小型の絵画や宝石ならば移動が容易になるからだろう。犯人グループは既に香港を離れているだろう。
……
こうして、120億円サイバー強奪事件は成功し、未だ解決の目処は立っていない。
犯行グループの手掛かりもないままである。
・EU某国 9月10日 17時08分
商品Xの国際先物市場のオンライン取引システムは、休止時間を迎えた。
このシステムを提供している中堅取引会社Yでは、毎日午後5時になるとあらゆる注文がストップされ、一日の決裁を行うことになっていたからだ。Y社のシステムは、様々な投資家たちや、プロのトレーダーたちに利用されているものだった。各自がオンラインで自由に取引できるので、大変便利なシロモノとして重宝されていた。利用者たちは、Y社のシステムに接続すれば、Y社の取引口座の管理だけでなく、銀行との資金移動も簡単に行うことができた。
この日、Y社のシステム監視担当者が、ある異常を見つけた。顧客の取引口座の決裁が行われた数秒後には、何故か全ての口座残高がゼロの表示になってしまったのだった。一人や二人ではなく、確認する口座は全部ゼロだった。その数分後には、報告を受けた担当役員の指示で、システムの緊急停止措置が取られたが、Y社の顧客たちの取引口座は突如としてカラッポになってしまったのだった。ただ一つの口座を除いては…。
◇◇◇◇◇
<少し時間を遡って…>
・日本 2月5日
中国人の王は、小樽に到着したばかりだった。極寒の地と聞いてはいたものの、案外と暖かく感じた。中国の内陸部の冬に比べれば、凍結の程度は生温いだけだった。とは言うものの、暖かい香港からやってきたばかりの王にとって、寒さに震えたのは間違いなかった。小樽に集合することに決めたのは、ロシア人のサーシャだった。一番目立たず、集まりやすいから、という理由からだ。
王は小樽の市街地にある、カフェテリアで到着を待った。カフェの前の広場には、観光客が大勢たむろしていた。主に、中国人や台湾人のグループだった。ここでは、中国人は珍しくはないようだった。日本全国的に、当たり前の光景になっていたのは事実だが。
カフェのメニューには、中国語表記の他にロシア語が書かれていた。利用客には、ロシア人が少なくなかったからだろう。確かに、店内にはまばらにロシア人風の男達が座っていた。なるほど、目立たない、という理由が王にも理解できたのだった。
暫くすると、サーシャが暗い色のコートに身を包み、ふっくらした帽子と大きめのサングラスをかけて入ってきた。サーシャの帽子の前面には、何故か日本語で「サーシヤ」と書かれていたのだった。これを読んだ王の口元に笑いがこぼれた。どうやら、判りやすい目印ということらしい。軽く手を挙げて合図を送った王を見つけたサーシャは、ゆっくりとテーブルにやってきた。王は挨拶を済ませると、モトヒトはまだ来てないと告げた。サーシャは、あの人はいつもそうだわ、と不満を口にした。
その時、広場を横切って、男が小走りにやってきた。モトヒトだった。彼は長身だったが、やけにひょろっとした体型で、恐らくサーシャよりも体重は軽いだろう、と以前から王は思っていた。大学院を卒業して以来の再会だった。3人はかつて、米国の有名大学の大学院で同級生だったのだ。3人が得意にしていたのは、数学や物理や金融や経済やコンピュータやソフトウェア、だった。
カフェを出た3人は、市内のホテルの部屋に籠もって、入念に打ち合わせを繰り返した。彼らが計画していたのは、金庫破りだった。昔の映画のような大胆不敵な金庫爆破とかではなく、姿を見せぬままごっそり頂くという、バーチャルな強盗団だ。
計画の一部を確認する為に、小樽から離れた都市にある専門学校に忍び込み、そこのコンピュータを使って一度だけとあるネットワークに侵入してみた。何もせずに、何も奪わず、ただ、入れることだけを確認したのだった。この痕跡に気付ける人間は、そうそう多くはないだろう。恐らく、誰にも気付かれないという自信は、王にはあった。あとは、下準備を入念に行って、実行に移すだけだ。
これまでの計画段階で、殆どのやりとりを暗号メールで済ませてきていた。今後の連絡も、同じく暗号メールでできるだろう。特に王は、政府側の監視網をくぐりぬける為の、細心の注意を必要とされていたので、おいそれと「金庫」だのという危険ワードを書くわけにはいかなかった。彼らは、電子メールは「秘匿性が優れる」というような過信は、抱かない主義だった。逆に、メールの送信先や内容―危険ワードの有無など―のチェックなどを常に受けているだろう、と考えていたのだった。それへの対策も、用心深く考えていた。
最後に、3人は香港での再会を誓った。次は、本番実行だ。
◇◇◇◇◇
・EU某国 9月10日 18時23分
Y社のシステムは緊急停止されたにも関わらず、大金が消えていることが判明した。顧客の口座情報を洗いなおすと、唯一残高がゼロになっていない口座があった。そこには、約137億円が集まってしまったのだった。この日に行われた、Y社のシステムでの取引総額が
その金額だった。その決裁が行われた途端に、一つの口座に金が集められたのだった。しかもその金のうち約120億円は、すぐさま外部のZ銀行に資金が移動されてしまった。移動先のZ銀行は、EU内ならばどこでもネット経由で資金移動のできる銀行システムを持つ、国際的に有名な欧州の銀行だった。
Y社の幹部は警察を通じてすぐさまZ銀行に電話連絡をした。資金を移動した先の銀行口座の凍結を依頼するためであった。しかし、時既に遅し、であった。Z銀行の資金は、タックスヘイブンのとある島へと移動された後だった。
・●●島 9月11日 10時14分
EU某国の警察から調査を依頼された現地警察が、Z銀行から資金が送金された銀行口座を調べに行った。公式な捜査令状などがないので、銀行側は非協力的で情報開示には中々応じようとしなかった。政治的圧力も通じにくかった。どうやら、送金先は現地で設立された法人Aということらしかった。法人Aの専用口座だったようだが、そこからスイスの口座へと資金が移動されたらしかった。EU某国警察は、必死にお願いをして、スイスのどこの銀行なのか聞き出そうとした。しかし、答えられない、との一点張りだった。
またしても、時間ばかり浪費してしまい、送金リレーに追いつけないのだった。入金があったら、次の送金先が予め指定されていたようで、Z銀行も、法人Aの専用口座も、入金直後に次の送金先へと素早く移してしまっていた。ビジネスなので、止むを得ない話なのだけれども。銀行家たちにとっては、それも仕事の一つでしかないのだから。
・スイス 9月14日 9時06分
広域犯罪の捜査協定を盾にして協力を取り付けた某国警察は、ようやくスイスにある銀行の一つの口座を探し当てることに成功したのだった。法人A専用口座から送金された資金は、またしても別な口座へと移動されたようだった。次は、ロシアにある銀行らしかった。今後は、はるかに捜査時間がかかるようになるだろう。ロシアの警察が協力してくれるとも思われず、ましてや銀行が顧客の情報を簡単に開示するとも思えなかったからだ。
……
・EU某国 9月29日 10時
捜査状況の報告が、警察幹部たちの前で行われた。犯罪の全貌がどうやら明らかになってきたようであった。
10日、先物取引のY社のシステムから、顧客の資金が盗まれた。
銀行との間のファイヤーウォールは頑丈そのもので、銀行側システムにも隙は少なかったが、Y社のシステムには脆弱性があったのがターゲットとされた原因のようであった。しかも、資金の移動先に指定できる銀行には、巨大な国際銀行であるZ銀行という好都合があった。国境を楽々飛び越えることのできる銀行口座にはもってこいだった。EUの便利さが、逆用されてしまった形だ。投資家ら顧客とY社を繋ぐ部分に、金庫破りたちは侵入したのだった。大手の銀行などに比べると、防御システムに資金をあまり投入する余裕のなかったY社のシステムには防壁の弱い部分があって、そこを狙われたのだ。
Z銀行に移された資金は、●●島の口座にすぐ移動。この口座開設は、現地の地元民1名とカリブ海の浮浪者2名の法人だった。それぞれ金で頼まれただけだった。身分証明は地元民の免許証が使われ、他の2名は偽造パスポートだった。彼らを雇ったのは、中国系米国人らしい。マイアミあたりにいる、という話だったが、誰かは不明。こうして、書類上の架空法人Aが作られ、その口座が開設されたということだ。
そこからスイスに送金されたが、スイスの銀行口座はロシア人Bが作ったものらしい。そのBはイギリスに住んでおり、ネット上の掲示板で口座開設の仕事を頼まれた。スイスまでの旅行と、おまけに金までくれるという、好条件のバイトだった為に、このロシア人Bは何の疑いもなく引き受けたようだ。しかし、この口座はネット上の別なロシア人と思しき人物に売却され、利用された。
そこからロシア国内の銀行へと送金されたが、その先の資金の動きは完全解明には至らなかった。捜査手段が途絶えたからだ。どうやら、ロシアの銀行からアラブ諸国のどこかの銀行に資金が移されたようだ。王族なのか、アンダーグラウンドな資金なのか、よく判らないことも多いようなので、ロシア側の銀行はあまり触れたがらないらしい。こうして、数十億円規模に小分けにされた資金は、オークションなどで高額な絵画や宝飾品の購入代金として充てられたようだった。オークション主催側は、支払が行われれば品物を引き渡すので、どんな人間が買ったのかはよく知らないそうだ。
このオークションは、12日に香港で行われたものだった。
品物を取りにきたのも東洋人(多分中国人ということだった)で、他の連中とあまり違いなどなかったので、誰もよく憶えていないということだった。結局、絵画や宝飾品に化けてしまった、というわけだ。資金がY社から盗まれてから、僅か2日で香港の品物になっているとは、思いもよらないことだった。
10日のY社のシステムへの侵入は、韓国のサーバを経由して行われたようだ。そのアクセスポイントはダミーで、本体は多分中国だろう、ということらしかった。それも、香港か上海のどちらか、ということだ。そこから、韓国を経由して、EU某国のY社のシステムに侵入し、決裁計算を書き換えて一つの架空口座へ資金を移した。この資金をZ銀行の口座に送金した瞬間から、サイバー送金リレーがスタートした、というわけだ。各銀行では、数字を書き換えるだけの楽な操作に過ぎず、予め指定された手続を実行してしまったというわけだ。
この侵入者たちは、事前に入金額と送金先を指定しておいたので、あっという間に資金移動が完了できたのだ。事前の入金額が判っていることが大事だった。137億円全部を移し替えることができたのに、敢えてそれをしなかったわけだ。また、送金先は、捜査が及ぶのに時間のかかる先ばかりを選んでいるのだ。犯人割り出しや、手掛かりを掴めるまでの時間稼ぎのできる銀行を選んだということだ。
ロシアやアラブ圏となると、政治体制の壁もあるし、言葉の壁もあるし、現地の警察当局の能力や協力姿勢などの違いもある。欧米諸国などの先進国をあまり選んでいないというのは、その為であろう。そして、現物に替える時には、人の多すぎる香港を選んだ。目立たぬようにするには好都合だろう。多分、中国人グループが犯行に関与している可能性が高いであろう。中国でなら、中国人であることが珍しくはないからね。
更に、10億円の札束を持ってあちこち移動したり逃げるのは難しいが、小型の絵画や宝石ならば移動が容易になるからだろう。犯人グループは既に香港を離れているだろう。
……
こうして、120億円サイバー強奪事件は成功し、未だ解決の目処は立っていない。
犯行グループの手掛かりもないままである。