今回、初めて知った。
日本にダムが求められたことには、歴史的な経過や訳があったということになろうか。それが、延々と続けて良いというものではないことは確かであるが、昔からの様々な問題があったことは確かだ。
①水を巡る激しい争い
基本的に主要産業が農業だった、ということがあるだろう。しかも、水田なんかであれば、畑とは違って水をたくさん使ってしまうのだから。川に沿う村同士では、水の利用を巡る争いが絶えなかった、ということになろうか。特に、旱魃などが発生すると極端な水不足となり、飢饉という惨事がそうした争乱を助長してしまうことになってしまうのだろう。農民たちにとっては、本当に命をかけた死活問題だからだ。
有名なものとしては、紀の川市というところの水争いがある。
紀ノ川の支流にあった水無川(名手川)の権利争いは、鎌倉幕府や朝廷などをも巻き込んで、室町時代まで続いていたとされる。数百年に及ぶ闘争(笑)、ということだ。それほどまでに、農民たちの水を巡る確執というのは、根深いものがあったということの証であろう。
他にも、明治以降になってさえ、奈良県と和歌山県の水争いは続けられてきた。徳川時代の御威光によって、紀州に権利があったので、上流の奈良側では水を使える権利が乏しかったのである。これが戦後まで続いていたというのだから、水の利権は本当に根深いものなのである。
参考:そしてプルニエ協定へ ―奈良県・和歌山県 国営十津川・紀の川土地改良事業 ―水土の礎
こちらも。
>水の歴史奈良県公式ホームページ
『長い間、水不足に苦しんできた大和平野の人々は、吉野川の水を引きこんで水不足を補おうと考えました。今から300年前、元禄時代のことです。
以来、吉野川あるいは宇陀川の水を大和平野に導こうという計画は何度もたてられ、あるときは測量 まで、またあるときは工事の着工にまでこぎつけましたが、いずれも実現にはいたりませんでした。
多額の費用がかかることや、下流の人々の反対にあったことなどがおもな原因ですが、今日では、想像もできない大がかりな土木工事であったことがうかがえます。』
どうです?似ていませんか?
何度も計画が立てられ、調査・測量・着工まで漕ぎ着けても「中止」、多額の費用がかかる、下流の人々から反対にあう、まるで今の八ッ場ダムのことを言っているのではないかと思いませんか?
300年前から、何も変わっていなかった、ということでしょうか(笑)。
②慣行水利権
非常に苛烈な争いを招き易い水利権は、明治29年制定の旧河川法以前にあった、水の利用に関する権利は慣行水利権として法的に認められるということになったようだ。つまり、昔から利用しているぞ、という権利主張者がいれば、それは合法的に権利が認められるということで、こうした水利権は非常に強力な「既得権益」となったわけである。
これが定められる以前の紛争などでは、暴力的実力行使(一揆、隣村などの水利用妨害、堰の破壊、灌漑路の流入口封鎖、敵対勢力(他の村人など)の排除、等々)もあったが、慣習的に定められた利用秩序のようなものがあったのだろう。それが重視された、ということになる。なので、昔ながらに「利用する権利を有する人々」というのが最強であり、水利用の権利の一部を分けてもらうとか、権限者たちに許可を得て下流で利用させてもらうとか、そういったことが行われていたのであろう。
だから、水利権を巡る戦いというのは、昔からあった、そして、それは苛烈な争乱であることも珍しくはなかった、ということである。
③ダムはこれらの解消策として求められた
水利権を巡る争乱を減らすには、利用しやすいような体制に変えてゆくしかなかったであろう。だからこそ、昔の農業人口の多い時代の方が農業用水需要は多かったであろうし、ダムを希望する声は多かった、ということになるだろうか。
度々大きな天災に見舞われたり、旱魃に遭ってしまうと、水への執念が深くなってゆくのも当然だろう。それこそ、生きるか死ぬかの問題だからだ。渇水に関する悲劇は多かったし、雨乞いなどで「人身御供」といった残忍行為も行われていたであろうしね。
参考までに、こんな話があるらしい。
>さぬき暮らし Tags 讃岐の一揆・騒動
『工事途中で、藩の奸吏がうそをついて工事の中止を命じた。
しかし村長は中止の命をうけておらず、村人山地卯兵衛は同謀者十余名と藩に訴え出たが決着がつかずかえって藩命を軽蔑するという咎により、獄に入れられた。
山地卯兵衛は、獄中のひどい拷問にも屈せず、苦難に耐えた同謀者や村民は憤激してこのことを隣藩丸亀の司直に願出ようとしたことから、さすがの奸吏も遂に窮して工事は安政三年十二月旧図の通り営築され、上葛原村の水は再び南加茂村に流れ注ぐようになった。』
多度津藩の奸吏が「工事中止を命じた」というのは、今の八ッ場ダムと似ているな(笑)。
現代に必要性がどれほどあるのか、というのは、個別に判断が分かれるところではあるだろう。ただ、水利権は複雑であり、執念深いものがある、というのが日本の歴史的経緯だったのだ、ということは念頭に置く必要があるだろう。
それと、ちょっと離れる話になるが、八ッ場ダム問題について、川が酸性だったので中和していて、これが無駄なんだ、というお説があるようですが、本当にそうなのかどうかは見解が分かれる可能性はあると思うが。
>品木ダム - Wikipedia
確かに中和する為のダムが設けられていて、これが「ムダなダム」と言う人たちもいるだろう。だが、下流域に酸性水が流れていってしまうと、「死の川」となってしまうことだってあるよ、というのは考えるべきだろう。記事中にあったように、同じような酸性の川は例えば北上川があるが、中和によって農業用水として使えるようになり、稲作で発展できたのだからムダとも思えないものである。それとも、北上川の中和策がやるべきでないことだったと言うのか?
玉川の場合には、中和することなく酸性水を田沢湖に流し込んでしまった(戦時中のことらしい)ので、玉川だけではなく湖も生物が死滅してしまった。その後に中和策が行われるようにはなったけれども、未だに酸性度は回復していないとのことだ。なので、中和することがまるで意図的な悪事のように言う人はいるけれども、そうともばかりは言えないのではないか。八ッ場ダム問題に関して、中止の正当化に使っているのではないか。
吾妻川を酸性のまま流した場合の下流域の影響がどうなのかを、本当に評価した結果、「品木ダムは不要だ」というように言っているのかどうか、疑問である。普通に考えれば、温泉地の水が流れ込んで酸性のままの水が流されれば、悪影響の方が問題になったりするのではないかと思うが。川の中の生き物だけに限らず、川に沿った地域の植物にも悪影響となるだろう。
これまで記事を書いてきて思ったことは、簡単なことではないのだな、ということだった。
川、ダムといった話だけれども、それぞれに複雑な事情とか、複雑な権利関係とか、歴史的背景とか、そういうのが絡み合っている結果なんだ、ということは感じた。
勿論、こういうのに便乗して利権にありついたり、金を懐に入れたりといったことが行われてこなかったわけじゃないと思う。業界にしたって、橋梁談合に見られた如く、そういう蜜に群がろうとしてきたというのもあったろう。地元の首長たちにしたって、色々ありついたんだろうとは思う。そうだとしても、簡単に「悪者」を見つけ出してきて、これが悪の原因だ、と特定できるものとも思えなかった。
日本にダムが求められたことには、歴史的な経過や訳があったということになろうか。それが、延々と続けて良いというものではないことは確かであるが、昔からの様々な問題があったことは確かだ。
①水を巡る激しい争い
基本的に主要産業が農業だった、ということがあるだろう。しかも、水田なんかであれば、畑とは違って水をたくさん使ってしまうのだから。川に沿う村同士では、水の利用を巡る争いが絶えなかった、ということになろうか。特に、旱魃などが発生すると極端な水不足となり、飢饉という惨事がそうした争乱を助長してしまうことになってしまうのだろう。農民たちにとっては、本当に命をかけた死活問題だからだ。
有名なものとしては、紀の川市というところの水争いがある。
紀ノ川の支流にあった水無川(名手川)の権利争いは、鎌倉幕府や朝廷などをも巻き込んで、室町時代まで続いていたとされる。数百年に及ぶ闘争(笑)、ということだ。それほどまでに、農民たちの水を巡る確執というのは、根深いものがあったということの証であろう。
他にも、明治以降になってさえ、奈良県と和歌山県の水争いは続けられてきた。徳川時代の御威光によって、紀州に権利があったので、上流の奈良側では水を使える権利が乏しかったのである。これが戦後まで続いていたというのだから、水の利権は本当に根深いものなのである。
参考:そしてプルニエ協定へ ―奈良県・和歌山県 国営十津川・紀の川土地改良事業 ―水土の礎
こちらも。
>水の歴史奈良県公式ホームページ
『長い間、水不足に苦しんできた大和平野の人々は、吉野川の水を引きこんで水不足を補おうと考えました。今から300年前、元禄時代のことです。
以来、吉野川あるいは宇陀川の水を大和平野に導こうという計画は何度もたてられ、あるときは測量 まで、またあるときは工事の着工にまでこぎつけましたが、いずれも実現にはいたりませんでした。
多額の費用がかかることや、下流の人々の反対にあったことなどがおもな原因ですが、今日では、想像もできない大がかりな土木工事であったことがうかがえます。』
どうです?似ていませんか?
何度も計画が立てられ、調査・測量・着工まで漕ぎ着けても「中止」、多額の費用がかかる、下流の人々から反対にあう、まるで今の八ッ場ダムのことを言っているのではないかと思いませんか?
300年前から、何も変わっていなかった、ということでしょうか(笑)。
②慣行水利権
非常に苛烈な争いを招き易い水利権は、明治29年制定の旧河川法以前にあった、水の利用に関する権利は慣行水利権として法的に認められるということになったようだ。つまり、昔から利用しているぞ、という権利主張者がいれば、それは合法的に権利が認められるということで、こうした水利権は非常に強力な「既得権益」となったわけである。
これが定められる以前の紛争などでは、暴力的実力行使(一揆、隣村などの水利用妨害、堰の破壊、灌漑路の流入口封鎖、敵対勢力(他の村人など)の排除、等々)もあったが、慣習的に定められた利用秩序のようなものがあったのだろう。それが重視された、ということになる。なので、昔ながらに「利用する権利を有する人々」というのが最強であり、水利用の権利の一部を分けてもらうとか、権限者たちに許可を得て下流で利用させてもらうとか、そういったことが行われていたのであろう。
だから、水利権を巡る戦いというのは、昔からあった、そして、それは苛烈な争乱であることも珍しくはなかった、ということである。
③ダムはこれらの解消策として求められた
水利権を巡る争乱を減らすには、利用しやすいような体制に変えてゆくしかなかったであろう。だからこそ、昔の農業人口の多い時代の方が農業用水需要は多かったであろうし、ダムを希望する声は多かった、ということになるだろうか。
度々大きな天災に見舞われたり、旱魃に遭ってしまうと、水への執念が深くなってゆくのも当然だろう。それこそ、生きるか死ぬかの問題だからだ。渇水に関する悲劇は多かったし、雨乞いなどで「人身御供」といった残忍行為も行われていたであろうしね。
参考までに、こんな話があるらしい。
>さぬき暮らし Tags 讃岐の一揆・騒動
『工事途中で、藩の奸吏がうそをついて工事の中止を命じた。
しかし村長は中止の命をうけておらず、村人山地卯兵衛は同謀者十余名と藩に訴え出たが決着がつかずかえって藩命を軽蔑するという咎により、獄に入れられた。
山地卯兵衛は、獄中のひどい拷問にも屈せず、苦難に耐えた同謀者や村民は憤激してこのことを隣藩丸亀の司直に願出ようとしたことから、さすがの奸吏も遂に窮して工事は安政三年十二月旧図の通り営築され、上葛原村の水は再び南加茂村に流れ注ぐようになった。』
多度津藩の奸吏が「工事中止を命じた」というのは、今の八ッ場ダムと似ているな(笑)。
現代に必要性がどれほどあるのか、というのは、個別に判断が分かれるところではあるだろう。ただ、水利権は複雑であり、執念深いものがある、というのが日本の歴史的経緯だったのだ、ということは念頭に置く必要があるだろう。
それと、ちょっと離れる話になるが、八ッ場ダム問題について、川が酸性だったので中和していて、これが無駄なんだ、というお説があるようですが、本当にそうなのかどうかは見解が分かれる可能性はあると思うが。
>品木ダム - Wikipedia
確かに中和する為のダムが設けられていて、これが「ムダなダム」と言う人たちもいるだろう。だが、下流域に酸性水が流れていってしまうと、「死の川」となってしまうことだってあるよ、というのは考えるべきだろう。記事中にあったように、同じような酸性の川は例えば北上川があるが、中和によって農業用水として使えるようになり、稲作で発展できたのだからムダとも思えないものである。それとも、北上川の中和策がやるべきでないことだったと言うのか?
玉川の場合には、中和することなく酸性水を田沢湖に流し込んでしまった(戦時中のことらしい)ので、玉川だけではなく湖も生物が死滅してしまった。その後に中和策が行われるようにはなったけれども、未だに酸性度は回復していないとのことだ。なので、中和することがまるで意図的な悪事のように言う人はいるけれども、そうともばかりは言えないのではないか。八ッ場ダム問題に関して、中止の正当化に使っているのではないか。
吾妻川を酸性のまま流した場合の下流域の影響がどうなのかを、本当に評価した結果、「品木ダムは不要だ」というように言っているのかどうか、疑問である。普通に考えれば、温泉地の水が流れ込んで酸性のままの水が流されれば、悪影響の方が問題になったりするのではないかと思うが。川の中の生き物だけに限らず、川に沿った地域の植物にも悪影響となるだろう。
これまで記事を書いてきて思ったことは、簡単なことではないのだな、ということだった。
川、ダムといった話だけれども、それぞれに複雑な事情とか、複雑な権利関係とか、歴史的背景とか、そういうのが絡み合っている結果なんだ、ということは感じた。
勿論、こういうのに便乗して利権にありついたり、金を懐に入れたりといったことが行われてこなかったわけじゃないと思う。業界にしたって、橋梁談合に見られた如く、そういう蜜に群がろうとしてきたというのもあったろう。地元の首長たちにしたって、色々ありついたんだろうとは思う。そうだとしても、簡単に「悪者」を見つけ出してきて、これが悪の原因だ、と特定できるものとも思えなかった。