昨日、偶然にも「連合赤軍」に関するDVDの鑑賞記事を書いたが、時期的にはそういう時代(笑)だったんだ、というのがふと思い当たった。成田闘争とかのことも、チラッと出てきていたしね。
よく「9.11~~」みたいな、日付入りの記事見出しとか、メディアでの言い回しとかあるわけだが、映画の中で連合赤軍のメンバーの連中が、誇らしげに語っていた「12.18 ○○闘争」みたいなものとか、「2.26 ○○決起集会」とかそういうのと全く同じなのだな、と思ったよ。そうか、そういう時代を過ごしてきた人たちが、もっと年長になった時に書く記事というものが「そういう見出し」を飾るのだな、と。
そういえば、ソ連が存在していた時代だと、「○○連」みたいな、最近ではまず見かけないような集団名が付けられていることがあったよね。あれも、流行り廃りがあるのかもしれないが、記事見出しなどでは「○○連を結成」みたいな感じで割と見かけたような気がする。けど、ソ連崩壊後には、「○○連」みたいな名称の団体は少なくなってきたのではなかろうかと思う。似た感じで残っているのは「○○連絡会」みたいなのかな。略した時には、「○○連」になるから?
共産主義運動とか、社会主義運動が盛んだった頃であれば、「○○同盟」みたいな団体名とかもあるのな。近頃では、まず見ることのないものだろうけどね。
本題に戻ろう。
八ッ場ダムの反対派の活動家たちっていうのは、実は、「地元にいない人間」が大勢いるみたいなんですよ。
「八ッ場ダムをストップさせる茨城の会」とか、東京都や関係5県とかに存在するみたいなんですよ。で、ネットで見つけたのは、事務局の神原晴美氏は次のような文を載せていました。
『この住民訴訟は「市民運動」のひとつの手段です。主体はあくまでも「市民運動」です。したがって最大の役割は、「裁判の傍聴」です。ガラガラですと裁判官の心証が悪くなります。マスコミに軽視されます。傍聴席を埋め尽くすことが重要です。』
つまりは、ダムの設置がどうとか地元の住民がどうというような話ではなく、単なる「活動」に利用しようとする人たちもいる、ということです。それは、「市民運動」というような美名を装った、連合赤軍時代にもあったような組織的反権力(=反政府、反官僚)闘争に一般人を駆り出す「活動」なのだ、ということです。よくネット上で「工作乙」とか言いますけれども、これは、一部は本当に「工作活動」だったわけですよ。
反対派住民は、自分たちが利用されているのだとは直ぐには気づかないのです。そこを利用して、一般人を組織化し、反対活動を強化し、部外者が反対行動を乗っ取ってゆくわけですよ。地元住民の意思からも、地元住民の手からも離れた所で、”プロの活動家”たちが反対運動を繰り広げて、徒に泥沼化させ長期化させる、という反権力闘争なんですよ。それが行き過ぎると、「革命戦争の前段階」みたいな妄想に結びつくわけですよ。
ダム闘争というのが、何故これほどにまでにこじれてきたのか、ということについて、少し見てみましたよ。
①「反対運動」の陰に潜む反権力的活動
成田空港について、どうしてあんなに「バカなこと」が延々と続けられていたのか、学生時代のぼくにはまるで判らなかった。でも、反対運動をやっている活動家の人たちにとっては、何らかの意味があるものなのだろう。ああいう運動が典型例なのだと思うが、専門の活動家みたいな人がずーっとやっているわけですよ。で、塔みたいなのを作り、櫓みたいなものを建て、立て籠もりを継続するわけだ。それが、権力への挑戦だ、権力との対峙だ、みたいなことを言い続けるわけです。
あのような運動は、当初の地元の反対派たちにとっては予想できなかったことでしょう。外部からやってきた「市民運動」の賛同者たちが、実は反政府的テロ活動を行うような「過激派」(或いはモドキ)だったとは、誰も考えなかったでしょう。けど、現実には「革命運動」の一環みたいにして、無垢な一般人を組織化し反対運動へと煽動してゆくという、基本戦術が行われていたわけですよ。成田空港はそういうのに利用されたのだ。だから、赤軍派だの連合赤軍だのの活動家たちは、象徴的にああいうのを語ろうとするわけだ。それこそ、「総括」云々(笑)とか言い出すわけだ。地元民にとっては、まるで関係ないことなのに、市民運動推進と称して反政府活動に加担させようとするのである。
②蜂の巣城紛争
ダムの反対運動のモデルとなったのが、多分、この「蜂の巣城」だったのだろう。更に、成田闘争でも、同じような闘争手段が取られており、”城”を作る、交代交代で立て籠もる、警察権力などにも暴力で対抗する、など、似たようなものが見られるからである。
>下筌ダム - Wikipedia
この中で、次のように記載されている。
『室原は現在でも見られる盲目的「ダム建設反対」論者であった訳ではなく、地元を如何に守り活性化させて行くかを最優先に考えていた。故にダム建設後の町の在り方を反対運動の最中にも考えていた。建設省幹部との交渉・交流の中で室原は周辺整備についての意見を度々行い、地域住民が利用しやすい道路整備、湖水との景観に配慮した橋梁・トンネルの建設、観光資源活用のための遊覧船就航等を要望し、それらは全て建設省によって取り入れられている。』
これは、どういうことかを平たく言うと、「ゴネ得」を勝ち取る、ということである。
建設省が考えていた当初の住民補償だけでは”足りない”、だから、もっと勝ち取ろうとする運動なのである。これにより勝ち取ったのが、「周辺整備」「道路整備」「橋梁・トンネル建設」「観光資源活用の為の措置要望」といったものだったのだ。周辺との調和と称して、「橋の色」にさえも口出しした、ということらしい。
要するに、ダム工事に当たっては、周辺整備を進めさせ、地元の地域振興策をやらせる、という方向性が定まっていったのだ、ということである。法整備(水特法)さえも実施させることに成功したのだ。これを獲得したのは、過激とも言うべき地元民を巻き込んだ反対闘争だった、ということである。
特筆すべきは、地元民には全く無関係な、労組系組合員たちとか、活動家と称する連中などが大挙して推し掛けてきて、ダム建設反対運動というのを盛んにやっていった、ということである。
ダム反対運動の本態というのは何か、ということになると、こうした部外者であって、地元利益には関係のない連中が泥沼化させる運動を行うのだ。だから、気の遠くなるような年月が浪費されてきたのだ、ということだ。参入してくるのは、労組系とか、共産系の活動家たちなのだ。そういう連中がやってきては、引っかき回し、市民運動だの抵抗運動だの思想カブレみたいなものでもって若い世代の人たちを巻き込んでいったのだ。
建設省が、「地元配慮」ということになっていったのも、こうした過去の経緯を踏まえてのものであろう。地元住民の反対を受ければ、強行することはできない、ということに傾いていったのだ。だからこそ、反対闘争が長期化していったのだ。
③プロの活動家たち
こちらのインタビュー中に次のような下りがあります。
>Forum - 非暴力の政治的市民運動と自由 - 幻のダムものがたり/緒川ダム - 小林茂
□反対運動のオーガナイズにあたって主にどのような段階をふまれましたか。
― 緒川村も反対、美和村も反対、結局一緒にやろうということで連絡取ったんですけど、組織としては、こっちは「緒川村ダム対策協議会」むこうは「ダム反対期成同盟会」という形で最初発足したんだ。関係者は全部組織の中に入ったから。こっちは私が会長やって、美和村は村長をやっていた相田さんという、65-6歳ぐらいだったかな。その人が会長をやったんですよ。それで、一番気をつけたのは、全員をまとめて組織に入るということと、あの当時は成田(空港)の問題もあって、あんなの見ていると、外部からの援助、それをお断りした。シャットアウトした。成田は過激派がね反対運動の中に入ってきた。それと、社会党や共産党、自民党はこれは賛成派だからね、問題外としても、ここでは純粋に地元だけでやってゆこうという考え方だった。
□外部の力を拒否されたのは、恐怖を感じていたからですか。
― 恐怖はないけれど、外部から来る人は頭いいじゃないですか(笑)、外部から来る人はプロですからね。ああいう反対運動、革マル派だとか、共産同盟青年なんとかだとかいわゆる過激派、彼らは頭良いし運動のプロですから、こういう純朴な農民の中に入ってきたら、我々地元の組織が潰されちゃうんですよ。引きずられて、だめになっちゃう。過激派学生からの援助申し出もなかったですけどね。
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八ッ場ダムの反対運動というのが、こういうプロの活動家たちが来てやっていたものか、知りません。けれども、連合赤軍が群馬、栃木、神奈川などの山中にベースを作って移動していたりしていたことを考えると、関東圏の山間部に活動しにやってくることなど造作もないことだったのではないかな、と想像しますね。昔の反対運動の映像がニュースなどでチラッと流れていたりしたように思いますが、ヘルメットに手ぬぐいという、まるで労働運動とか安保闘争とかの時の姿とあまりにも重なりますもん。恐らく、地元民ではない、プロの活動家たちが入ってきていたのではないかな、と。
それから、04年以降の八ッ場ダム反対の住民訴訟ですけれども、これも、ちょっと引っ掛かるものがあるのですよね。似ていると思いませんか?
「住民訴訟で一斉蜂起」というのが。
昔の活動家たちは、デモ隊とかで実力部隊でやっていたんだろうと思いますけれども、ソ連崩壊後にはそういうのが流行らなくなっていったことに気づいたのでしょう。一般市民がついて行けなくなっていったし。というか、バカバカしいのでヤル気にもなれない、ということだろうと思いますけど。
そこで、方向転換を図っていったのではないでしょうか。
それは、法廷闘争ということなんですよ。
ターゲットは色々とあるので、政府・行政側を攻撃できる「市民活動」と名のつくものであれば、何でもいいのです。大企業が標的でもいいんですよ。
ダム反対の住民訴訟による一斉蜂起は、まさにC型肝炎問題の一斉訴訟提起と似ているんですよ。時期が違うというだけ。02~03年頃というのが肝炎問題、八ッ場ダム問題は04年頃ということです。
標的とする薬剤が「陣痛促進剤」であろうと、「フィブリノゲン」であろうと、別に構いやしないのですよ。産科の訴訟件数がどうしてあんなに多かったのか、というのが、やはり予想していた部分はあったわけですよ。因みに、永田死刑囚は薬科大卒だったそうですね。ただの偶然だろうと思いますけれども(笑)。
茨城の会の神原氏の言うように、あくまで「市民活動」なんですよ。狙いは、市民を組織し、反権力闘争へと一般市民を巻き込んでゆくことが大事なのだ、ということでしょうね。
◇◇◇◇◇◇
個別の内容がどうのという話ではない。
ダムでも、肝炎でも、陣痛促進剤でも、内診問題でも、何だっていいわけなんですよ。活動家の領域さえあれば。標的となる、政府や官僚や大企業を攻撃できるものであれば。
よく「9.11~~」みたいな、日付入りの記事見出しとか、メディアでの言い回しとかあるわけだが、映画の中で連合赤軍のメンバーの連中が、誇らしげに語っていた「12.18 ○○闘争」みたいなものとか、「2.26 ○○決起集会」とかそういうのと全く同じなのだな、と思ったよ。そうか、そういう時代を過ごしてきた人たちが、もっと年長になった時に書く記事というものが「そういう見出し」を飾るのだな、と。
そういえば、ソ連が存在していた時代だと、「○○連」みたいな、最近ではまず見かけないような集団名が付けられていることがあったよね。あれも、流行り廃りがあるのかもしれないが、記事見出しなどでは「○○連を結成」みたいな感じで割と見かけたような気がする。けど、ソ連崩壊後には、「○○連」みたいな名称の団体は少なくなってきたのではなかろうかと思う。似た感じで残っているのは「○○連絡会」みたいなのかな。略した時には、「○○連」になるから?
共産主義運動とか、社会主義運動が盛んだった頃であれば、「○○同盟」みたいな団体名とかもあるのな。近頃では、まず見ることのないものだろうけどね。
本題に戻ろう。
八ッ場ダムの反対派の活動家たちっていうのは、実は、「地元にいない人間」が大勢いるみたいなんですよ。
「八ッ場ダムをストップさせる茨城の会」とか、東京都や関係5県とかに存在するみたいなんですよ。で、ネットで見つけたのは、事務局の神原晴美氏は次のような文を載せていました。
『この住民訴訟は「市民運動」のひとつの手段です。主体はあくまでも「市民運動」です。したがって最大の役割は、「裁判の傍聴」です。ガラガラですと裁判官の心証が悪くなります。マスコミに軽視されます。傍聴席を埋め尽くすことが重要です。』
つまりは、ダムの設置がどうとか地元の住民がどうというような話ではなく、単なる「活動」に利用しようとする人たちもいる、ということです。それは、「市民運動」というような美名を装った、連合赤軍時代にもあったような組織的反権力(=反政府、反官僚)闘争に一般人を駆り出す「活動」なのだ、ということです。よくネット上で「工作乙」とか言いますけれども、これは、一部は本当に「工作活動」だったわけですよ。
反対派住民は、自分たちが利用されているのだとは直ぐには気づかないのです。そこを利用して、一般人を組織化し、反対活動を強化し、部外者が反対行動を乗っ取ってゆくわけですよ。地元住民の意思からも、地元住民の手からも離れた所で、”プロの活動家”たちが反対運動を繰り広げて、徒に泥沼化させ長期化させる、という反権力闘争なんですよ。それが行き過ぎると、「革命戦争の前段階」みたいな妄想に結びつくわけですよ。
ダム闘争というのが、何故これほどにまでにこじれてきたのか、ということについて、少し見てみましたよ。
①「反対運動」の陰に潜む反権力的活動
成田空港について、どうしてあんなに「バカなこと」が延々と続けられていたのか、学生時代のぼくにはまるで判らなかった。でも、反対運動をやっている活動家の人たちにとっては、何らかの意味があるものなのだろう。ああいう運動が典型例なのだと思うが、専門の活動家みたいな人がずーっとやっているわけですよ。で、塔みたいなのを作り、櫓みたいなものを建て、立て籠もりを継続するわけだ。それが、権力への挑戦だ、権力との対峙だ、みたいなことを言い続けるわけです。
あのような運動は、当初の地元の反対派たちにとっては予想できなかったことでしょう。外部からやってきた「市民運動」の賛同者たちが、実は反政府的テロ活動を行うような「過激派」(或いはモドキ)だったとは、誰も考えなかったでしょう。けど、現実には「革命運動」の一環みたいにして、無垢な一般人を組織化し反対運動へと煽動してゆくという、基本戦術が行われていたわけですよ。成田空港はそういうのに利用されたのだ。だから、赤軍派だの連合赤軍だのの活動家たちは、象徴的にああいうのを語ろうとするわけだ。それこそ、「総括」云々(笑)とか言い出すわけだ。地元民にとっては、まるで関係ないことなのに、市民運動推進と称して反政府活動に加担させようとするのである。
②蜂の巣城紛争
ダムの反対運動のモデルとなったのが、多分、この「蜂の巣城」だったのだろう。更に、成田闘争でも、同じような闘争手段が取られており、”城”を作る、交代交代で立て籠もる、警察権力などにも暴力で対抗する、など、似たようなものが見られるからである。
>下筌ダム - Wikipedia
この中で、次のように記載されている。
『室原は現在でも見られる盲目的「ダム建設反対」論者であった訳ではなく、地元を如何に守り活性化させて行くかを最優先に考えていた。故にダム建設後の町の在り方を反対運動の最中にも考えていた。建設省幹部との交渉・交流の中で室原は周辺整備についての意見を度々行い、地域住民が利用しやすい道路整備、湖水との景観に配慮した橋梁・トンネルの建設、観光資源活用のための遊覧船就航等を要望し、それらは全て建設省によって取り入れられている。』
これは、どういうことかを平たく言うと、「ゴネ得」を勝ち取る、ということである。
建設省が考えていた当初の住民補償だけでは”足りない”、だから、もっと勝ち取ろうとする運動なのである。これにより勝ち取ったのが、「周辺整備」「道路整備」「橋梁・トンネル建設」「観光資源活用の為の措置要望」といったものだったのだ。周辺との調和と称して、「橋の色」にさえも口出しした、ということらしい。
要するに、ダム工事に当たっては、周辺整備を進めさせ、地元の地域振興策をやらせる、という方向性が定まっていったのだ、ということである。法整備(水特法)さえも実施させることに成功したのだ。これを獲得したのは、過激とも言うべき地元民を巻き込んだ反対闘争だった、ということである。
特筆すべきは、地元民には全く無関係な、労組系組合員たちとか、活動家と称する連中などが大挙して推し掛けてきて、ダム建設反対運動というのを盛んにやっていった、ということである。
ダム反対運動の本態というのは何か、ということになると、こうした部外者であって、地元利益には関係のない連中が泥沼化させる運動を行うのだ。だから、気の遠くなるような年月が浪費されてきたのだ、ということだ。参入してくるのは、労組系とか、共産系の活動家たちなのだ。そういう連中がやってきては、引っかき回し、市民運動だの抵抗運動だの思想カブレみたいなものでもって若い世代の人たちを巻き込んでいったのだ。
建設省が、「地元配慮」ということになっていったのも、こうした過去の経緯を踏まえてのものであろう。地元住民の反対を受ければ、強行することはできない、ということに傾いていったのだ。だからこそ、反対闘争が長期化していったのだ。
③プロの活動家たち
こちらのインタビュー中に次のような下りがあります。
>Forum - 非暴力の政治的市民運動と自由 - 幻のダムものがたり/緒川ダム - 小林茂
□反対運動のオーガナイズにあたって主にどのような段階をふまれましたか。
― 緒川村も反対、美和村も反対、結局一緒にやろうということで連絡取ったんですけど、組織としては、こっちは「緒川村ダム対策協議会」むこうは「ダム反対期成同盟会」という形で最初発足したんだ。関係者は全部組織の中に入ったから。こっちは私が会長やって、美和村は村長をやっていた相田さんという、65-6歳ぐらいだったかな。その人が会長をやったんですよ。それで、一番気をつけたのは、全員をまとめて組織に入るということと、あの当時は成田(空港)の問題もあって、あんなの見ていると、外部からの援助、それをお断りした。シャットアウトした。成田は過激派がね反対運動の中に入ってきた。それと、社会党や共産党、自民党はこれは賛成派だからね、問題外としても、ここでは純粋に地元だけでやってゆこうという考え方だった。
□外部の力を拒否されたのは、恐怖を感じていたからですか。
― 恐怖はないけれど、外部から来る人は頭いいじゃないですか(笑)、外部から来る人はプロですからね。ああいう反対運動、革マル派だとか、共産同盟青年なんとかだとかいわゆる過激派、彼らは頭良いし運動のプロですから、こういう純朴な農民の中に入ってきたら、我々地元の組織が潰されちゃうんですよ。引きずられて、だめになっちゃう。過激派学生からの援助申し出もなかったですけどね。
======
八ッ場ダムの反対運動というのが、こういうプロの活動家たちが来てやっていたものか、知りません。けれども、連合赤軍が群馬、栃木、神奈川などの山中にベースを作って移動していたりしていたことを考えると、関東圏の山間部に活動しにやってくることなど造作もないことだったのではないかな、と想像しますね。昔の反対運動の映像がニュースなどでチラッと流れていたりしたように思いますが、ヘルメットに手ぬぐいという、まるで労働運動とか安保闘争とかの時の姿とあまりにも重なりますもん。恐らく、地元民ではない、プロの活動家たちが入ってきていたのではないかな、と。
それから、04年以降の八ッ場ダム反対の住民訴訟ですけれども、これも、ちょっと引っ掛かるものがあるのですよね。似ていると思いませんか?
「住民訴訟で一斉蜂起」というのが。
昔の活動家たちは、デモ隊とかで実力部隊でやっていたんだろうと思いますけれども、ソ連崩壊後にはそういうのが流行らなくなっていったことに気づいたのでしょう。一般市民がついて行けなくなっていったし。というか、バカバカしいのでヤル気にもなれない、ということだろうと思いますけど。
そこで、方向転換を図っていったのではないでしょうか。
それは、法廷闘争ということなんですよ。
ターゲットは色々とあるので、政府・行政側を攻撃できる「市民活動」と名のつくものであれば、何でもいいのです。大企業が標的でもいいんですよ。
ダム反対の住民訴訟による一斉蜂起は、まさにC型肝炎問題の一斉訴訟提起と似ているんですよ。時期が違うというだけ。02~03年頃というのが肝炎問題、八ッ場ダム問題は04年頃ということです。
標的とする薬剤が「陣痛促進剤」であろうと、「フィブリノゲン」であろうと、別に構いやしないのですよ。産科の訴訟件数がどうしてあんなに多かったのか、というのが、やはり予想していた部分はあったわけですよ。因みに、永田死刑囚は薬科大卒だったそうですね。ただの偶然だろうと思いますけれども(笑)。
茨城の会の神原氏の言うように、あくまで「市民活動」なんですよ。狙いは、市民を組織し、反権力闘争へと一般市民を巻き込んでゆくことが大事なのだ、ということでしょうね。
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個別の内容がどうのという話ではない。
ダムでも、肝炎でも、陣痛促進剤でも、内診問題でも、何だっていいわけなんですよ。活動家の領域さえあれば。標的となる、政府や官僚や大企業を攻撃できるものであれば。