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八ッ場ダム問題に関する雑感~その4

2009年09月24日 17時35分35秒 | 政治って?
昨日、偶然にも「連合赤軍」に関するDVDの鑑賞記事を書いたが、時期的にはそういう時代(笑)だったんだ、というのがふと思い当たった。成田闘争とかのことも、チラッと出てきていたしね。

よく「9.11~~」みたいな、日付入りの記事見出しとか、メディアでの言い回しとかあるわけだが、映画の中で連合赤軍のメンバーの連中が、誇らしげに語っていた「12.18 ○○闘争」みたいなものとか、「2.26 ○○決起集会」とかそういうのと全く同じなのだな、と思ったよ。そうか、そういう時代を過ごしてきた人たちが、もっと年長になった時に書く記事というものが「そういう見出し」を飾るのだな、と。

そういえば、ソ連が存在していた時代だと、「○○連」みたいな、最近ではまず見かけないような集団名が付けられていることがあったよね。あれも、流行り廃りがあるのかもしれないが、記事見出しなどでは「○○連を結成」みたいな感じで割と見かけたような気がする。けど、ソ連崩壊後には、「○○連」みたいな名称の団体は少なくなってきたのではなかろうかと思う。似た感じで残っているのは「○○連絡会」みたいなのかな。略した時には、「○○連」になるから?

共産主義運動とか、社会主義運動が盛んだった頃であれば、「○○同盟」みたいな団体名とかもあるのな。近頃では、まず見ることのないものだろうけどね。


本題に戻ろう。

八ッ場ダムの反対派の活動家たちっていうのは、実は、「地元にいない人間」が大勢いるみたいなんですよ。
「八ッ場ダムをストップさせる茨城の会」とか、東京都や関係5県とかに存在するみたいなんですよ。で、ネットで見つけたのは、事務局の神原晴美氏は次のような文を載せていました。

『この住民訴訟は「市民運動」のひとつの手段です。主体はあくまでも「市民運動」です。したがって最大の役割は、「裁判の傍聴」です。ガラガラですと裁判官の心証が悪くなります。マスコミに軽視されます。傍聴席を埋め尽くすことが重要です。』

つまりは、ダムの設置がどうとか地元の住民がどうというような話ではなく、単なる「活動」に利用しようとする人たちもいる、ということです。それは、「市民運動」というような美名を装った、連合赤軍時代にもあったような組織的反権力(=反政府、反官僚)闘争に一般人を駆り出す「活動」なのだ、ということです。よくネット上で「工作乙」とか言いますけれども、これは、一部は本当に「工作活動」だったわけですよ。

反対派住民は、自分たちが利用されているのだとは直ぐには気づかないのです。そこを利用して、一般人を組織化し、反対活動を強化し、部外者が反対行動を乗っ取ってゆくわけですよ。地元住民の意思からも、地元住民の手からも離れた所で、”プロの活動家”たちが反対運動を繰り広げて、徒に泥沼化させ長期化させる、という反権力闘争なんですよ。それが行き過ぎると、「革命戦争の前段階」みたいな妄想に結びつくわけですよ。


ダム闘争というのが、何故これほどにまでにこじれてきたのか、ということについて、少し見てみましたよ。


①「反対運動」の陰に潜む反権力的活動

成田空港について、どうしてあんなに「バカなこと」が延々と続けられていたのか、学生時代のぼくにはまるで判らなかった。でも、反対運動をやっている活動家の人たちにとっては、何らかの意味があるものなのだろう。ああいう運動が典型例なのだと思うが、専門の活動家みたいな人がずーっとやっているわけですよ。で、塔みたいなのを作り、櫓みたいなものを建て、立て籠もりを継続するわけだ。それが、権力への挑戦だ、権力との対峙だ、みたいなことを言い続けるわけです。

あのような運動は、当初の地元の反対派たちにとっては予想できなかったことでしょう。外部からやってきた「市民運動」の賛同者たちが、実は反政府的テロ活動を行うような「過激派」(或いはモドキ)だったとは、誰も考えなかったでしょう。けど、現実には「革命運動」の一環みたいにして、無垢な一般人を組織化し反対運動へと煽動してゆくという、基本戦術が行われていたわけですよ。成田空港はそういうのに利用されたのだ。だから、赤軍派だの連合赤軍だのの活動家たちは、象徴的にああいうのを語ろうとするわけだ。それこそ、「総括」云々(笑)とか言い出すわけだ。地元民にとっては、まるで関係ないことなのに、市民運動推進と称して反政府活動に加担させようとするのである。


②蜂の巣城紛争

ダムの反対運動のモデルとなったのが、多分、この「蜂の巣城」だったのだろう。更に、成田闘争でも、同じような闘争手段が取られており、”城”を作る、交代交代で立て籠もる、警察権力などにも暴力で対抗する、など、似たようなものが見られるからである。

下筌ダム - Wikipedia


この中で、次のように記載されている。

『室原は現在でも見られる盲目的「ダム建設反対」論者であった訳ではなく、地元を如何に守り活性化させて行くかを最優先に考えていた。故にダム建設後の町の在り方を反対運動の最中にも考えていた。建設省幹部との交渉・交流の中で室原は周辺整備についての意見を度々行い、地域住民が利用しやすい道路整備、湖水との景観に配慮した橋梁・トンネルの建設、観光資源活用のための遊覧船就航等を要望し、それらは全て建設省によって取り入れられている。』

これは、どういうことかを平たく言うと、「ゴネ得」を勝ち取る、ということである。
建設省が考えていた当初の住民補償だけでは”足りない”、だから、もっと勝ち取ろうとする運動なのである。これにより勝ち取ったのが、「周辺整備」「道路整備」「橋梁・トンネル建設」「観光資源活用の為の措置要望」といったものだったのだ。周辺との調和と称して、「橋の色」にさえも口出しした、ということらしい。

要するに、ダム工事に当たっては、周辺整備を進めさせ、地元の地域振興策をやらせる、という方向性が定まっていったのだ、ということである。法整備(水特法)さえも実施させることに成功したのだ。これを獲得したのは、過激とも言うべき地元民を巻き込んだ反対闘争だった、ということである。


特筆すべきは、地元民には全く無関係な、労組系組合員たちとか、活動家と称する連中などが大挙して推し掛けてきて、ダム建設反対運動というのを盛んにやっていった、ということである。

ダム反対運動の本態というのは何か、ということになると、こうした部外者であって、地元利益には関係のない連中が泥沼化させる運動を行うのだ。だから、気の遠くなるような年月が浪費されてきたのだ、ということだ。参入してくるのは、労組系とか、共産系の活動家たちなのだ。そういう連中がやってきては、引っかき回し、市民運動だの抵抗運動だの思想カブレみたいなものでもって若い世代の人たちを巻き込んでいったのだ。

建設省が、「地元配慮」ということになっていったのも、こうした過去の経緯を踏まえてのものであろう。地元住民の反対を受ければ、強行することはできない、ということに傾いていったのだ。だからこそ、反対闘争が長期化していったのだ。


③プロの活動家たち

こちらのインタビュー中に次のような下りがあります。
Forum - 非暴力の政治的市民運動と自由 - 幻のダムものがたり/緒川ダム - 小林茂


□反対運動のオーガナイズにあたって主にどのような段階をふまれましたか。

― 緒川村も反対、美和村も反対、結局一緒にやろうということで連絡取ったんですけど、組織としては、こっちは「緒川村ダム対策協議会」むこうは「ダム反対期成同盟会」という形で最初発足したんだ。関係者は全部組織の中に入ったから。こっちは私が会長やって、美和村は村長をやっていた相田さんという、65-6歳ぐらいだったかな。その人が会長をやったんですよ。それで、一番気をつけたのは、全員をまとめて組織に入るということと、あの当時は成田(空港)の問題もあって、あんなの見ていると、外部からの援助、それをお断りした。シャットアウトした。成田は過激派がね反対運動の中に入ってきた。それと、社会党や共産党、自民党はこれは賛成派だからね、問題外としても、ここでは純粋に地元だけでやってゆこうという考え方だった。


□外部の力を拒否されたのは、恐怖を感じていたからですか。

― 恐怖はないけれど、外部から来る人は頭いいじゃないですか(笑)、外部から来る人はプロですからね。ああいう反対運動、革マル派だとか、共産同盟青年なんとかだとかいわゆる過激派、彼らは頭良いし運動のプロですから、こういう純朴な農民の中に入ってきたら、我々地元の組織が潰されちゃうんですよ。引きずられて、だめになっちゃう。過激派学生からの援助申し出もなかったですけどね。

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八ッ場ダムの反対運動というのが、こういうプロの活動家たちが来てやっていたものか、知りません。けれども、連合赤軍が群馬、栃木、神奈川などの山中にベースを作って移動していたりしていたことを考えると、関東圏の山間部に活動しにやってくることなど造作もないことだったのではないかな、と想像しますね。昔の反対運動の映像がニュースなどでチラッと流れていたりしたように思いますが、ヘルメットに手ぬぐいという、まるで労働運動とか安保闘争とかの時の姿とあまりにも重なりますもん。恐らく、地元民ではない、プロの活動家たちが入ってきていたのではないかな、と。


それから、04年以降の八ッ場ダム反対の住民訴訟ですけれども、これも、ちょっと引っ掛かるものがあるのですよね。似ていると思いませんか?

「住民訴訟で一斉蜂起」というのが。
昔の活動家たちは、デモ隊とかで実力部隊でやっていたんだろうと思いますけれども、ソ連崩壊後にはそういうのが流行らなくなっていったことに気づいたのでしょう。一般市民がついて行けなくなっていったし。というか、バカバカしいのでヤル気にもなれない、ということだろうと思いますけど。
そこで、方向転換を図っていったのではないでしょうか。
それは、法廷闘争ということなんですよ。

ターゲットは色々とあるので、政府・行政側を攻撃できる「市民活動」と名のつくものであれば、何でもいいのです。大企業が標的でもいいんですよ。
ダム反対の住民訴訟による一斉蜂起は、まさにC型肝炎問題の一斉訴訟提起と似ているんですよ。時期が違うというだけ。02~03年頃というのが肝炎問題、八ッ場ダム問題は04年頃ということです。

標的とする薬剤が「陣痛促進剤」であろうと、「フィブリノゲン」であろうと、別に構いやしないのですよ。産科の訴訟件数がどうしてあんなに多かったのか、というのが、やはり予想していた部分はあったわけですよ。因みに、永田死刑囚は薬科大卒だったそうですね。ただの偶然だろうと思いますけれども(笑)。

茨城の会の神原氏の言うように、あくまで「市民活動」なんですよ。狙いは、市民を組織し、反権力闘争へと一般市民を巻き込んでゆくことが大事なのだ、ということでしょうね。


◇◇◇◇◇◇


個別の内容がどうのという話ではない。
ダムでも、肝炎でも、陣痛促進剤でも、内診問題でも、何だっていいわけなんですよ。活動家の領域さえあれば。標的となる、政府や官僚や大企業を攻撃できるものであれば。




八ッ場ダム問題に関する雑感~その3

2009年09月24日 13時16分56秒 | 政治って?
地元住民を愚弄する政治家たちの勝手気ままが、今の混乱を招いていると言っても過言ではないだろう。
責任追及を求めるコメントが再び出されていますので、昨日の群馬県知事が語った過去の事実について、見ることにする。

八ッ場ダム 国交相が視察 「建設中止は白紙に戻さず」(毎日新聞) - Yahooニュース

『大澤知事は、95年に同ダム事業の協定書を締結した際、「自社さ政権で鳩山総理や前原国交相も一員だった」と指摘、新政権の対応を批判した。この点について前原国交相は会合後の記者会見で「批判は甘んじて受けなければならない」と述べた。』


当時の与党の連中が予算を通したから執行されたというのに、その責任を今になって地元に押し付ける、ということだ。詐欺みたいなものだな。国家の行う、壮大な詐欺。


群馬県側の言っているのは、例えばこんな話であろう。
群馬県 - 産業・労働 - 【主要事業】関連道路整備事業

こうした工事の着工時期が平成7年度とか平成8年度だったということを、群馬県知事は言っていたものと思う。

さて、こうした事業が行われる為には、平成7年度予算とか、平成8年度予算が通されなければ、建設工事には至らないわけである。どんなに官僚たちが計画を作ろうとも、悪賢い役人たちが陰謀を練っていても、それらは予算が認められて「GOサイン」が出されないと実施することはできないわけである。これに関わっていた人たちは、「さきがけ」という与党側にいた鳩山、菅、前原という国会議員たち以外に、一体誰がいたのかということを見ることにしよう。


95(H7)年度とか96(H8)年度の予算は、前年くらいに策定されてゆくだろう。
当時の自社さ政権の陣容を見ると、次のようになっていた。

94.6.30~95.8.8
・建設大臣:野坂浩賢(社会党)
・建設政務次官:簗瀬進(社会党)

つまり、民主党に合流してくる前の、民主党勢力の人々とか旧社会党勢力が、最も重要な決定権限行使のできる建設省の大臣に就任していたのだ、ということ。更には、政務次官も現役の民主党議員だったではないか。何故、当時の建設計画を破棄させ、工事を完全ストップしなかったのか?
野坂大臣は長良川の河口堰を運用開始を決定した大臣らしい。2人の社会党議員がいて、しかも建設大臣と政務次官が揃っていながら、建設事業計画を推進させた、ということだ。予算を組んだのも、こうした行政の責任者だ。

事務次官には、あの”藤井治芳”が就いていたようだ。小泉政権下での石原行革担当相との激しいバトルで一躍有名になった、道路公団総裁の人だ。石原に解任されてしまったが。


また、当時の群馬県選出の社会党系議員には、角田義一がいた。
参院の副議長にまで歴任した民主党の大物参議員で、群馬のドンというような存在だったのではないか。政治資金規正法違反に関する疑惑で引退したらしいけど。この角田参議員も、自社さ政権下での群馬選出だったわけだ。当時に反対すればよかったものを、何故建設計画を通すばかりか、群馬県の道路工事着工に加担したのか。



今、ダム問題で揺れる地域というのは吾妻郡にあって、東吾妻町とか長野原町とかが含まれている。この選挙区というのは、昔から激しい自民党内の競争があった地域で、旧群馬三区という時代が長く続いてきたのだ。

旧群馬3区からは、ご存知の通り、福田赳夫、中曽根康弘、小渕恵三という3名の総理を送り出した「名門選挙区」と言ってもいいだろう(後の福田康夫を入れると、4代の総理経験者を生んだということ)。それほどの「自民党の牙城」と言っても良かった選挙区であったのに、ダム計画は簡単には実行に移されることはなかった。地元民が反対していたからだ、ということになろうか。
総理大臣という行政の最高権力者が出ているのに、権力者の意のままに「自由にダムを建設する」というようなことには、安易には実行できなかった、ということだ。

もしも、コメントにあったように、権力を握っている連中が好き勝手に計画をし簡単に実行に移せるのであれば、これほどの長い時間が経過するということにもならなかったかもしれない。反対闘争など無視して、好き勝手に推進できても良かったのではないか、ということである。だが、総理が3人も生まれたにも関わらず、工事が簡単には実施されなかった(小渕さんは95年には総理になる前だから、ちょっと違うけど)。

逆に、社会党議員が建設大臣になった途端に、群馬県の道路工事はあっさりと推進された、ということだ。
中選挙区時代の福田、中曽根、小渕の争いの他では、社会党の山口鶴男が選出されていた。この議員も自社さ政権下では、総務庁長官で入閣していた。今の総務省が行う行政評価のような役割を与えられていたのが総務庁であり、各省庁の監視監督をする立場にあったのだ。この最高権力者の地位に就いていたのが、山口鶴男であり、地元選出議員だったのだよ。

もし、自民党系の族議員たちが工事を推進しようとしていたとしても、こうした山口総務庁長官や角田義一参議員が徹底して中止を求めればよかっただけではないのか。更には、建設大臣の野坂浩賢大臣や簗瀬進政務次官が、絶対に認めないとして中止させればよかったんじゃないのか。


こういう責任は、何故問われないのか。
認めたのは、今の民主党系の議員たちだったではないか。

連立与党内の「さきがけ」にいた、鳩山、菅、前原の責任はどうなんだ?
それを、今更になってひっくり返すとは、どういう了見なのか?


都合が悪くなれば、何でも「自民党の責任」か?
それとも、悪い役人たちとか、官僚のやった行為か?

社会党なんだよ。
こういうのをやっていたのは、社会党議員たちだって同じだったろ?

横路が許せないということを言ったのには、ワケがあるんだよ。旧社会党とか、民主党にのれんを架けかえた議員さんたちはそれなりにいるだろうが、そういう人たちのやってきた政治に責任はあるんだよ、という話だ。

民主党議員たちが、過去の政治の失敗について、正直に告白したり懺悔したりすることなどあったか?
自民党政治を批判するのは別にいいが、まるで自分たちには何らの責任もなかったかの如く、知らぬ顔をしているというのも疑問である。


だったら、「ムダなダム」を責める前に、自分たちのやってきたことについて、まず「総括」(笑)したらどうだ?
過去の政治を反省し、真摯に懺悔でもしてから、中止に理解を示さない地元に意見を言うべきだろう。
民主党議員に責める資格などあるのか。


これが、日本の政治なんだよ。

国民は振り回され、犠牲にされるだけだ。