今日はとても落ち込んでいます。はっきり言ってツライです。何がというと、自分の考えや行為が良くないことなのかもしれないと思うからです。
会計検査院にメールしましたが、結果はまだわかりません。財務省にはメールしてから相当日数たってますが、なしの礫です。やはり、何処の誰だかわからない奴の言う事など、相手にもしてくれないという事なのでしょうか?
こちらの対応としては、単なる個人ですからじっと待ってるほかありませんね。私は法的判断もできないし、調べてみた範囲でしか考えたり意見を述べたりすることぐらいしか出来ません。各省庁が答えてくれなければ、何が正しく、何が誤りなのかさえ永遠にわからないのです。
私もしがない仕事をしている身であり、個人でできることなど限られています。特別な情熱を持った活動家でもないし、市民グループとかに加入して活動できる程の時間的余裕があるわけでもありません(今書いてるんだったら暇があるでしょ?って指摘されるかもしれませんね)。特殊な政治思想を持った集団の構成員でもありません。1人ならばできることにも限界がありますし、いくら自分で考えてもその客観的評価はできません。
行政府からの回答がなければ全く意味をなさないのです。
法的に裁判などで争いたいなどとは思ってもいないし、たとえそれが唯一の権利であるとしてもそんなことを実行できるはずもありません。法の専門家は「法的にはそれが権利だから」とでも言うのでしょうか。私個人が行政府の判断を聞くだけの為に、裁判になることに意味があるわけないでしょ?
結局無力で無知な国民の1人の意見など、取るに足らないということです。私の意見や質問そのものに誤りがあるのなら、それを指摘し反論して各省庁の正しさを示してほしいし、それなら法令に従って「ああ、やっぱり行政のやってることは間違いがなく、正しいのだ」と納得できるのですが。
なんだか、喉に引っ掛かってとれないみたいな感覚です。釈然としない、でもしかたがないということなのでしょう。
こうして国民は納得はできないけれど、「行政の専門家」の「言いなり」になるのが正当であって、それはしかたがないこととして受け入れざるを得ないという意見もあるかもしれません。
私はそれを肯定できませんが。
例え話と一つひとつの現実は違うとのご指摘もありますので、ここで例え話をするのも気がひけるのですが、そういった「専門家の言いなり」をしかたがないと受け入れられる人は、仮に自分に医学的知識がないなら病気で手術されるときも全て医者の言いなりでよいということなのでしょう。納得できることかどうかも、考えなくてよいということなのでしょうか。抽象的になってしまって、正当性には欠けるかもしれませんが、論理的思考に優れない愚民にはこのように感じてしまいますね。
衆愚はどこまでいっても衆愚であり、行政や政治家などの専門家集団は愚民の支配のために存在し、そうした専門家たちが衆愚を正しい方向に導いてくれるという考え方が許されるとでもいうのでしょうか。
同時に法の専門家集団も法学についての論理や法的知識を有さない愚民の意見など聞くべきではないし聞いても無意味であるということを示唆しているのかもしれませんね。そして、愚民にはそうした説明をする事自体無意味であると考えておられるのかもしれません。
そう考えると、財務省やその他の省庁も愚民の意見を黙殺するのは当然であり、愚民は説明する対象にさえ入らないということなのでしょう。
愚民は何を考えても無駄、これが結論なんですね。
虚しいですね。非常に。
正しさを求めたり考えたりすることが何の意味も持たず、ただ行政専門家集団の「言いなり」を受容せねばならないことが、とても虚しいです。残念ながら法はそのことを支持しており、法の専門家集団もそれを支持しているというのが今の日本ということなんでしょう。
会計検査院にメールしましたが、結果はまだわかりません。財務省にはメールしてから相当日数たってますが、なしの礫です。やはり、何処の誰だかわからない奴の言う事など、相手にもしてくれないという事なのでしょうか?
こちらの対応としては、単なる個人ですからじっと待ってるほかありませんね。私は法的判断もできないし、調べてみた範囲でしか考えたり意見を述べたりすることぐらいしか出来ません。各省庁が答えてくれなければ、何が正しく、何が誤りなのかさえ永遠にわからないのです。
私もしがない仕事をしている身であり、個人でできることなど限られています。特別な情熱を持った活動家でもないし、市民グループとかに加入して活動できる程の時間的余裕があるわけでもありません(今書いてるんだったら暇があるでしょ?って指摘されるかもしれませんね)。特殊な政治思想を持った集団の構成員でもありません。1人ならばできることにも限界がありますし、いくら自分で考えてもその客観的評価はできません。
行政府からの回答がなければ全く意味をなさないのです。
法的に裁判などで争いたいなどとは思ってもいないし、たとえそれが唯一の権利であるとしてもそんなことを実行できるはずもありません。法の専門家は「法的にはそれが権利だから」とでも言うのでしょうか。私個人が行政府の判断を聞くだけの為に、裁判になることに意味があるわけないでしょ?
結局無力で無知な国民の1人の意見など、取るに足らないということです。私の意見や質問そのものに誤りがあるのなら、それを指摘し反論して各省庁の正しさを示してほしいし、それなら法令に従って「ああ、やっぱり行政のやってることは間違いがなく、正しいのだ」と納得できるのですが。
なんだか、喉に引っ掛かってとれないみたいな感覚です。釈然としない、でもしかたがないということなのでしょう。
こうして国民は納得はできないけれど、「行政の専門家」の「言いなり」になるのが正当であって、それはしかたがないこととして受け入れざるを得ないという意見もあるかもしれません。
私はそれを肯定できませんが。
例え話と一つひとつの現実は違うとのご指摘もありますので、ここで例え話をするのも気がひけるのですが、そういった「専門家の言いなり」をしかたがないと受け入れられる人は、仮に自分に医学的知識がないなら病気で手術されるときも全て医者の言いなりでよいということなのでしょう。納得できることかどうかも、考えなくてよいということなのでしょうか。抽象的になってしまって、正当性には欠けるかもしれませんが、論理的思考に優れない愚民にはこのように感じてしまいますね。
衆愚はどこまでいっても衆愚であり、行政や政治家などの専門家集団は愚民の支配のために存在し、そうした専門家たちが衆愚を正しい方向に導いてくれるという考え方が許されるとでもいうのでしょうか。
同時に法の専門家集団も法学についての論理や法的知識を有さない愚民の意見など聞くべきではないし聞いても無意味であるということを示唆しているのかもしれませんね。そして、愚民にはそうした説明をする事自体無意味であると考えておられるのかもしれません。
そう考えると、財務省やその他の省庁も愚民の意見を黙殺するのは当然であり、愚民は説明する対象にさえ入らないということなのでしょう。
愚民は何を考えても無駄、これが結論なんですね。
虚しいですね。非常に。
正しさを求めたり考えたりすることが何の意味も持たず、ただ行政専門家集団の「言いなり」を受容せねばならないことが、とても虚しいです。残念ながら法はそのことを支持しており、法の専門家集団もそれを支持しているというのが今の日本ということなんでしょう。