一時、ある組織の世論調査では岸田文雄内閣の支持率が数パーセントほど上がったというニュースがあった気がしたが、やはりそれは幻であったのかもしれない。
今月になってある出来事により岸田文雄政権の実態の酷さがますます明らかになったようである。
「水俣病被害者マイク音オフ問題で露呈した、岸田自民[『謙虚さ』も『聞く力』も喪失した深刻な現状」
■以前から準備していたシナリオ。何が環境省「水俣病被害者マイク音オフ」問題を招いたか 水俣病の患者・被害者らと伊藤信太郎環境相との懇談の席(1日)で、環境省の職員が被害者の発言中にマイクを切って発言を遮り、1週間後の8日になって伊藤環境相が謝罪に追い込まれた問題が、大きな批判を受けている。マイクオフ自体もさることながら、さらに驚かされたのは、同じ8日の衆院内閣委員会で、環境省が今回の対応について「以前から準備しており、今回初めて発動した」ことを認めたことだった。 今回の問題でまず思い出したのは、前身の環境庁時代の1977年、石原慎太郎環境庁長官が水俣病患者に対し「IQが低いわけですね」などと差別発言し、謝罪に追い込まれたことだったが、あれは多分に石原氏個人の資質の欠如とみることもできた。環境省が「以前から準備していた」のを認めたことで、今回のマイクオフ問題は、より組織的な問題だったことになる。 百歩譲って「官僚が勝手に暴走した」としても、現場にいた伊藤氏は「私はマイクを切ったことについては認識しておりません」と述べ、事務方をたしなめることも、患者側に改めて発言を促すこともせずにその場を立ち去った。こうなるとそれはもう閣僚としての問題だし、岸田文雄首相が伊藤氏の続投を認めたのは、内閣全体の姿勢の問題と言わざるを得ないだろう。この問題を国会で取り上げた立憲民主党の中谷一馬氏は「岸田政権の『聞く力』のなさを体現している」と批判したが、同感だ。 こういう場面に接するたびに思い出してしまうのが、中谷氏の「師匠」でもある菅直人元首相の、民主党政権時代の対応だ。東京電力福島第一原発事故で避難を強いられた住民の避難所を訪ねた時に、避難所を去ろうとした菅氏に被災者から「もう帰るんですか!」と声をかけられた場面である。 この場面は当時から、テレビやネットなどで何度となく繰り返された。「被災者に冷たい首相」のイメージが、これでもかとばかりに喧伝された。現在でもこのイメージを持ったまま、今回の伊藤氏の姿と重ねる人もいるかもしれない。 しかし、このエピソードには「続き」がある。 【関連】ほぼ国民への宣戦布告。岸田自民が導入図る「インチキ連座制」のふざけた正体 日本を欺く集団に #政権交代 の裁き下るか ■まさに「聞く力」を持っていたかつての自民党 菅氏が福島県田村市の避難所を訪ねたのは、東日本大震災と福島原発事故の発生から約1カ月が過ぎた2011年4月のこと。避難所訪問は初めてだった。菅氏は避難所で7人の住民と話をした後、一度は足早にその場を離れようとした。菅氏はこの後もう一つの避難所を訪問し、その日のうちに帰京してオーストラリアのギラード首相との会談を行う予定だった。 「後に日程があった」点では、今回の環境省のマイクオフ問題とも重なる点がある。だが、違いはこの後だ。「無視して行かれる気持ちって分かりますか」。被災した住民夫婦からこう声をかけられた菅氏は、その場で引き返すと夫婦に謝罪を繰り返した。「ごめんなさい、話聞かせてください。そんなつもりじゃなかったんです」 菅氏はその後、被災者の言葉に黙って耳を傾け続けた。「ひどく傷つきました」「(内閣の人たちを)みんなここに連れてきて生活してみてください」。次々に投げかけられる言葉を受け止めると、菅氏は最後に「長い避難生活で本当に大変だと思いますけど、子供さんのためにも全力を挙げてやりますんで」と声をかけた。続いて訪れた郡山市の避難所では、当初予定より時間をかけて多くの被災者に声をかけて回り、ギラード首相との会談は30分以上遅れた。 「もっと被災者の立場で全てのことを考えなければならないと痛感した」と記者団に語った菅氏は、2度目となる埼玉県加須市の避難所訪問では、5時間にわたって約1,200人のほとんどの住民と言葉を交わし、同行した上田清司知事(当時)を「菅首相の『ど根性』を見た」と驚かせている。 思えば、ミニ政党出身だった菅氏が「将来の首相候補」に名乗りを上げるきっかけとなったのは、厚相当時の1996年、薬害エイズ問題で国の責任を認め、被害者に謝罪したことだった。官僚を怒鳴りつける「イラ菅」という印象が残る菅氏だが、本当に政治が耳を傾けるべき存在に対しては、謙虚な姿勢で臨むことを貫いてきた、ということなのかもしれない。 ちなみに、原発事故は民主党政権で、自民党は野党だったが、薬害エイズ問題での謝罪は、自民党の橋本龍太郎政権で行われている。当時はまだ民主党が存在しておらず、菅氏は小政党「さきがけ」の一員として、自民、社会、さきがけの3党が連立した橋本政権の閣僚として、薬害エイズ問題に取り組んだ。 あの謝罪は菅氏個人が行ったことではない。それを「政権の姿勢」として受け止める橋本龍太郎首相の存在があったことも忘れてはならない。 当時は自民党にも、こうした謙虚な姿勢が残っていた。1993年の細川政権樹立で初めての野党転落を経験し、翌年の村山政権発足で政権に復帰したばかりだった自民党は、野党をはじめ党外のさまざまな声に耳を傾ける、まさに「聞く力」を持っていたと思う。 民主党政権の発足(2009年)で2度目の野党転落を経て政権に復帰した自民党からは、こうした姿勢がほぼ消えてしまった。国民の声をまともに聞かずに独善的な政策をぶち上げ、それが行き詰まると「国民の誤解」などと言って国民の側に責任を押しつけるような態度は、新型コロナウイルス感染症の対応でも、マイナンバーカードと健康保険証の一体化問題などでも、散々みられた姿だ。そんな態度をとっておきながら、堂々と「聞く力」を標榜して平気な顔をしていられる。それが現在の自民党だ。 かつての自民党にそれなりにみられた「ごく普通の政権運営ができる能力」を、筆者はもはやこの党に見いだすことはできない。 ■改めて自民党の惨憺たる現状を感じさせた「ある会見」 環境省の「マイク切り」問題で伊藤氏が謝罪に追い込まれたのと同じ8日、徳島市で一つの記者会見があった。立憲民主党が次期衆院選の徳島1区への擁立を決めた新人、高橋永氏の出馬会見だった。高橋氏はかつて自民党で「クリーン三木」と呼ばれた三木武夫元首相の孫にあたる。会見で高橋氏は「政治への信頼を回復し、三木武夫や母(元参院議員の高橋紀世子氏)も目指したクリーンな政治を実現したい」と語った。 裏金問題に揺れる自民党に三木氏のような人物が残っていれば、とも思うが、ここでは違うことに触れたい。 首相就任前に副総理兼環境庁長官を務めていた三木氏は、1973年に水俣を訪れ、胎児性水俣病患者の女性をその手に抱きかかえながら被害者の話に耳を傾けた。三木氏は被害者に対し、国の事業として水俣病の研究を行うことを約束。これが5年後の78年に設立された国立水俣病研究センター(現・国立水俣病総合研究センター)である。 こういう政治家と縁のある人物が、自民党ではなく野党の立憲民主党からの出馬を選んだこと自体に、改めて自民党の惨憺たる現状を感じるのは筆者だけだろうか。 |
ホント、自民党は往生際が悪い。いつまで、めくらましの茶番劇をやっているのか。
政治資金規正法の改正案を巡り、自民党と公明党が、珍しく内輪モメをつづけている。大手メディアも「規正法改正案 条文化巡り自公混乱」「与党案 共同提出難航」と、大々的に報じている。 |
こんな自民党を昔から取材し内実も熟知している老ジャーナリストの指摘は正鵠をを射るものである。
「本澤二郎の「日本の風景」(5166)」
<よそ者?塩谷立を排除した清和会元老・森喜朗と萩生田光一> 自民党派閥は、戦前派の右翼派閥ほど血筋を重視する。安倍・清和会の裏金事件発覚で安倍悪政に辟易していた世論を背にして、清和会は崩壊の危機にある。そこで元老格の車いすの森喜朗が、安倍直系の萩生田と、さらに岸信介以来、派閥の黒幕である笹川ギャンブル財団と連携して、よそ者の塩谷立に詰め腹を切らせた。(このくだりで記事が消える)筆者の分析であるが、岸田は受け入れざるを得なかった。やくざ暴力団の手口と比べても頷ける裁断だった。 森は創価学会公明党に負けない神道(シントウ)・神の国信者で知られる。神道のお告げに従ったものか定かではないが、神がかりの世界だと、あるいは起こりうることかもしれない。むろん、安倍晋三や配下の萩生田もそうだった。岸信介や笹川良一らが支援した、日本制圧のための資金集めに狂奔してきた韓国のカルト教団・統一教会も、「神」を持ち出す宗教で知られる。一般人には不気味な天皇教の世界と明かす識者も少なくない。 <岸田文雄はこわい笹川ギャンブル財団に抵抗不能> 森喜朗は自身の正当化を、例によって右翼言論の代表である「文藝春秋」で図った。しかし、それに 世論は納得しない。1955年の保守合同以来、岸・福田・安倍の黒幕的存在として君臨してきたこわい笹川ギャンブル財団が、森の背後に控えていることに気付いている。 岸田とて手を出せない。森との電話会談を誤魔化すしかない。以前、駆け出し記者は宏池会職員が「うちには右翼やくざ暴力団は影も形もない」と豪語していたことに満足した。反対に、この手の悪魔がこびりついている福田派や中曽根派に対して、距離をもって取材する覚悟で対応したものである。 派閥の広報宣伝記者を振り払うため、当時進歩的な週刊誌「朝日ジャーナル」を買って読んでいた。したがって、平和主義を重視する三木派や大平派の宏池会に愛着を抱いてゆく。 この点では、児玉誉士夫や岸、笹川、大野伴睦、中曽根康弘という右翼戦前派に、好んで足を踏み入れた読売の渡辺恒雄とは、真逆のスタンスを選択しながら取材活動をしてきた、と現在でも自負している。 したがって運輸省、現在の国交省の巨大利権の公営ギャンブルの一つである競艇ギャンブルを笹川が独占していることなど、ほとんど気付かないまま、今日を迎えてしまった。それでも岸・福田・安倍と共闘してきている笹川ギャンブル財団の様子は、垣間見ることはできた。森喜朗事務所が笹川ギャンブル財団のビルにあることは、最近になるまで知らなかった。 <国士・塩谷一夫は三木武夫と共にあったのだが> 自民党救済策のために生贄にされた塩谷立・清和会座長についていうと、萩生田・世耕・西村・下村・高木と比べると、安倍晋三との思想的距離感がある。「悪党の中ではやや善人」の印象を受ける。それは父親の一夫の信念からだ。 自民党議員でありながら、自民党の腐敗に断固として批判を加えてきたナベツネの恩師・宇都宮徳馬は別格だとしても、改憲軍拡に対して厳しい態度で臨んだ三木武夫。その三木派幹部として、一夫の政治行動は怯むようなことはなかった。彼の事務所に飛び込んだことはなかったが、よく国会の薄暗い廊下で、記者に呼び止められると、穏健なしゃべり口で正論を吐いていた様子が今も脳裏をよぎる。三木直系には小沢一郎と対峙した志賀節も知られている。彼は晩年はファシズム研究に時間を割いていた。安倍の極右路線にSOSを発していた勇敢な政治家だった。夫人は政界一の美人でも有名だった。品川で次男・正文の介護生活に徹していたころも、よく夫妻から電話が入り、蒲田の駅ビルの食堂で、軽食を取りながら政局談議に花を咲かせた。その都度、夫妻から「坊ちゃんの様子はいかが」と声をかけられるのがつらかった。東芝病院での重過失死を知らせる機会はなかったのだが。 |
「やくざ暴力団の手口と比べても頷ける裁断」が安倍・清和会の裏金事件発覚で「塩谷立に詰め腹を切らせた」という事実はすでに明らかになってはいるのだが、改めて自民党という組織は国内最大の永田町の「反社集団」なのかもしれない、とオジサンは思う