DAISPO WORLD BOXING EXPRESS

今年もやってるやってる~

あの試合から30年(WBOヘビー級:1995年3月11日)

2025年03月11日 05時29分20秒 | ボクシングネタ、その他雑談

今から30年前となる1995年3月11日、米国ネバダ州で行われた試合結果です。
WBOヘビー級戦:
挑戦者リディック ボウ(米)KO6回2分25秒 王者ハービー ハイド
(英)

*元統一王者で、無冠になったとはいえまだまだヘビー級最強戦士と謳われていた当時のボウ。身長195.6センチ体重 109.3キロという、現在のヘビー級でも通じる立派な体格の持ち主です。ボウを迎え撃つハイドは 188センチ97キロ。2025年の時点で言えば、標準的ヘビー級の選手対クルーザー級のリミットを少々上回った選手による対戦となります。

(元統一王者ボウがマイナー団体チャンピオンのハイドに挑戦)/ Photo: Wikipedia

ボウに比べると小柄なハイドですが、特に上半身の筋肉が発達したどちらかというとボディビルダーのような体格の持ち主。マイナー団体WBOの王者とはいえ、26戦全勝(25KO)という非常に魅力的な戦績の持ち主です。

(たくましい体格の持ち主ハイド)/ Photo: BoxRec

この試合が行われる一年半前の1993年11月に、イベンダー ホリフィールド(米)との再戦に敗れ、保持していたIBF/WBAタイトルを失っていたボウ。その後ラリー ドナルド(米)を相手に行った再起戦は、試合前から荒れに荒れ、結局は無効試合となってしまいました。ボウにとりこのハイドとの一戦が、再度の再起戦となりました。

小柄なハイドが必死に動き、果敢にパンチを出しまくる形で幕を開けて一戦。ボウはハイドのスピードに対応できないのか、それとも余裕を見せているのか、ほとんど手を出さずに前に出るだけ。そのため否が応でも最初の6分間は英国人のラウンドとなる事になりました。

(予想以上に善戦したハイド(右))/ Photo: Youtube

3回に入ると試合は急展開を迎える事にた。その強打でボウをバタつかせたハイドですが、打たれ脆さも中々のもの。本物のヘビー級のパンチが頭部に当たると、なぎ倒される形でダウンを繰り返すことになりました。最初にフロアに送られた時はレフィリーがダウンと見なさずに命拾い。しかしその後2度のダウンを立て続けに喫しています。もし主審を務めたリチャード スチールが最初のダウンの際、判断ミスを犯していなければ、スリーノックダウン制だったこの試合はこの回で終わってた事になります。

ハイドを甘く見ているのか体調不良なのか、一発で倒そうという意識が強すぎたこの日のボウですが、4回に入りようやくコンビネーションが出るようになりました。3回に続きこの回も2度のダウンを奪ったボウ。対格差があり過ぎるためか、限界以上で戦っているハイドは肩で息を吸うほど追い詰められていきました。

打たれ脆さと回復の速さを兼ね備えたハイドは5回、そして最終回となった6回にもダウンを追加されていきます。不思議なことにダウンを喫する毎に反撃を試み、ボウを驚かせたハイド。それに加えボウの強打を避けるためか、自ら崩れるようにしてキャンバスに送られる場面が何度もありました。ハイドが喫した正式なダウンは7度でしたが、それ以外の非公式なダウンを合わせると二桁は「ダウン」したのではないでしょうか。

(何度もフロアに転げ落ちたハイド)/ Photo: Youtube

あまりにもハイドの行為が不甲斐ないため、解説者は「ハイド(Hide)は、リングに転がる事により、ボウの今日だから隠れる(Hide)事が出来た」と皮肉なダジャレを言っていました。

5回にハイド陣営からタオルが投入されましたが、当時その行為でのレフィリーストップ/ギブアップは認められていませんでした。そのため、さらなるダメージを被り6回まで痛めつけられたハイド。ボウとの実力差はかなりのものがありました。

ダウンの回数だけ見るとボウの大勝劇に思われますが、この日ボウが見せたパフォーマンスは、以前見せていた洗練されたボクシングからは程遠く、褒めれたものではありませんでした。

マネージャーのロック ニューマン(Rock Newman)と主要団体の確執、および1992年末にボウが行ったWBCのベルトをゴミ箱に捨てるという愚行から、各団体から敬遠され、しょうがなくマイナー団体WBOタイトルに挑戦する事となったボウ。このハイドとの一戦はボウからすると気乗りしなかった試合かもしれません。

(ニューマン氏(後方)とボウ)/ Photo: Andscape

メジャー団体の王座への返り咲きと、ビックマッチへの出場を目指していたボウ。この試合から2週間後に、ボウを含め当時のヘビー級の誰もが対戦を望んでいた超大物が社会「復帰」することになります。

(この男がついに出所する事に!)/ Photo: ABC News

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あの試合から30年(WBAウェルター級:1995年3月4日・その2)

2025年03月05日 05時06分34秒 | ボクシングネタ、その他雑談

今から30年前の昨日にあたる1995年3月4日、米国ニュージャージー州で行われた試合結果です。
WBAウェルター級戦:
王者アイク クォーティー(ガーナ)TKO4回 挑戦者朴 政吾
(韓国)

*1989年2月に来日にし、当時のOPBF(東洋太平洋)ウェルター級王者尾崎 富士男(帝拳)に挑戦した朴。若き挑戦者は、世界に2度の挑戦経験を持つ王者に完敗し王座奪取なりませんでした。翌1990年9月に2度目の挑戦で王座奪取を果たした朴。その後佐藤 仁徳(仙台)や吉野 弘幸(当時はワタナベ)など、日本ウェルター級屈指の実力者たちを破り12連続防衛に成功。これまで(1995年3月時点)に韓国を含め、アジアから世界ウェルター級を制した選手はなく、まさに同地域を代表するボクサーとして世界ウェルター級タイトルに挑むことになりました。

初の世界戦出場が本場アメリカという大舞台にも関わらず、試合開始のゴングと同時に攻勢を続けた朴。しかし挑んだ王者が悪すぎました。この試合が、1992年10月のラスベガスでの試合以来2度目の米国でのお披露目となったクォーティー。鉄壁のガードと槍のような左ジャブで対戦者を破壊していく実力者です。果敢に攻めてくる朴の攻撃を余裕で対応し、主武器である左ジャブをビシバシと当てていきます。

(主武器である左ジャブをビシバシと当てていくクォーティー)/ Photo: BoxRec

朴のパンチは防御技術に優れたガーナ人にはほとんど当たらず、逆に韓国人は王者の強打を浴び続けていきます。挑戦者のタフネスと勇気は賞賛に値するものでしたが、両者の実力差はあまりにも開きすぎていました。手数も落ち、出血も始まった朴は結局4回にレフィリーにそれ以上のダメージを被る事から救い出されることに。クォーティーが全勝記録を29(25KO)に伸ばすと同時に、前年6月に獲得した王座の2度目の防衛に成功しました。

(朴(右)も勇敢に立ち向かっていきましたが...)/ Photo: Happy Ghana

この一戦は、ウェルター級での東洋圏と世界トップレベルの実力の差をまざまざと見せつけられた一戦でした。

(アジアトップ選手との実力差をまざまざと見せつけたクォーティー)/ Photo: Prime News Ghana

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あの試合から30年(WBAジュニアミドル級:1995年3月4日・その1)

2025年03月04日 05時06分33秒 | ボクシングネタ、その他雑談

今から30年前となる1995年3月4日、米国ニュージャージー州で行われた試合結果です。
WBAジュニアミドル級戦(スーパーウェルター級):
挑戦者/WBCウェルター級王者パーネル ウィテカー(米)判定3対0(118-107、118-110、116-110)王者フリオ セサール バスケス(亜)

*当時のウィテカーは非常に微妙な立場に置かれていました。この試合から遡る事1年半前となる1993年9月、ウィテカーは当時全勝街道を走っていた「伝説のメキシカン」フリオ セサール チャベスと対戦し、チャベスに88戦目にして引き分けという初の白星以外の結果を擦り付けました。その試合での判定は、ウィテカーとチャベスは痛み分けというものでしたが、誰が見てもウィテカーの勝利は明らかでした。チャベス戦後、ウィテカーの評価は絶対的なものとなり、現役選手最強の称号を手に入れる事となりました(俗に言うパウンド・フォー・パウンド)。

自他共に最巧(最高)選手に君臨する事となったウィテカーですが、チャベス戦後に対戦した相手は、WBCウェルター級1位のサントス カルドナ(プエルトリコ)と前WBCウェルター級王者ジェームス マクガート(米)の2選手のみ。カルドナは指名挑戦者としては役不足。マクガートは実力者ではありましたが、ウィテカー同様に技術で勝負する選手なだけに、一般的にはアピール不足の対戦相手でした。

ウィテカーの対抗王者にはIBF王者としてカリブの天才児フェリックス トリニダード(プエルトリコ)が、そしてWBAには強打者アイク クォーティー(ガーナ)が君臨していました。トリニダード、クォーティー共に将来的な打倒ウィテカーの有力候補として挙げられていましたが、世界王者としてはまだまだ新米。ウィテカーと対戦が期待された一階級上の超実力者テリー ノリス(米)も、自身の打たれ脆さと軽率さで立て続けに敗戦を喫する(KO負けと反則負け)などして消滅。さすがにスーパーミドル級のロイ ジョーンズ(米)とは体重差があり過ぎと、実力はありながらも対戦相手がいないという残念な状況に置かれていました。

そんな不遇な状況に置かれていたウィテカーの対戦者に選ばれたのが、ノリスの対抗王者(この試合が行われた時点ではノリスは無冠)で、WBAジュニアミドル級(スーパーウェルター級)王座の10連続防衛に成功していたフリオ セサール バスケス(亜)です。1992年師走に上山 仁(新日本木村)を初回2分59秒秒殺し、世界王座を獲得。その後、母国アルゼンチンを皮切りに、フランス、英国、スペイン、モナコ、カザフスタン、米国でその雄姿を披露したバスケスはあっという間に二桁防衛を達成。挑戦者の中には、後のWBC王者ハビエル カステジョホ(スペイン)や統一王者ロナルド ライト(米)も含まれています。本場アメリカでの知名度は低いバスケスでしたが、筋金入りの実力者であることは間違いありません。

(最巧ウィテカーが一階級上のバスケスに挑戦)/ Photo: Wikipedia

上山戦の印象が強く、速攻派のイメージがあるバスケスですが、世界戦の戦績は11戦全勝(4KO)と意外にKO/TKO勝利は低め。強豪相手に世界を渡り歩いてきた選手なだけに、ウィテカーに負けない技巧派といっても過言ではないでしょう。そして実際の試合も、おおよその予想を反するが如く、サウスポー(左構え)同士による右ジャブの打ち合いの場面が多く見られました。

(激しいジャブの打ち合いが見られました)/ Photo: Youtube

ジャブの数と的確性では挑戦者(ウィテカー)が大きく勝りました。しかし王者もボディー攻撃などでペースを譲らず、前半戦はまったく互角の展開が続いていきます。

この試合のウィテカーは、これまでのように左右前後へのフットワークはなりを潜めていました。それが年齢による影響か、それとも体重増加のためか、あるいは作戦だったのか?本人のみが知り得る事です。

4回、ウィテカーはガードを下げ、同時にダッキングをしバスケスを挑発するポーズをとります。ちょうど足が揃っていたところにアルゼンチン人の左フックを貰ってしまったウィテカーは思わずダウンを喫してしまいました。そのダウンによるダメージはまったくありませんでした。しかしその回終盤、左をクリーンヒットされと米国人は、珍しく少々足にきてしまいました。

その後、持ち前の技術を駆使し、徐々にペースを引き寄せていったウィテカー。ポイントを引き離しにかかりました。フラストレーションが溜まりつつあったバスケスは、クリンチ際にウィテカーの後頭部)を打つ行為(ラビットパンチ)が目立つようになりました。レフィリーはそれを見逃さず、バスケスは9回と11回にそれぞれ減点1を科されることに。

後半戦で手痛いマイナス2ポイントを受けてしまったバスケス。結局は大差の判定で虎の子のタイトルを明け渡す事となりました。ウィテカーの勝利は不動に見えましたが、いくら何でも118対110や118対109という採点はないでしょう。

(試合は採点以上に競った内容に)/ Photo: Youtube

戦前の予想以上に苦戦を強いられたウィテカーでしたが、シュガー レイ レナード(米)、トーマス ハーンズ(米)、ロベルト デュラン(パナマ)に続いて史上4人目となる世界4階級制覇に成功。しかしこのタイトルは試合前から公言していたように、翌日に返上し本来のウェルター級に戦いの場を戻すことになっています。

55戦目にして、自身2度目の黒星を喫してしまったバスケス。試合前にウィテカー陣営から頻繁に唾を吐く行為を止めるよう勧告を受けていたため、その(汚い)行為は鳴りを潜めていました。

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あの試合から30年(WBAジュニアバンタム級:1995年2月25日・その2)

2025年02月26日 05時49分14秒 | ボクシングネタ、その他雑談

今から30年前の昨日にあたる1995年2月25日、韓国で行われた試合結果です。
WBAジュニアバンタム級戦(スーパーフライ級):
王者李 炯哲(韓国)TKO12回2分32秒 挑戦者田村
 知範(オークラ)

*この試合が行われた前年9月に、東京のリングで鬼塚 勝也(協栄)からタイトルを奪った李。初防衛戦の相手に、協栄ジム系列にあたるオークラジム出身の田村が選ばれました。

(韓国に乗り込み世界に挑んだ田村)/ Photo: Youtube

本来は一階級下のフライ級を主戦場としている田村。敵地での世界初挑戦となりましたが、緊張感を感じさせないスムーズなボクシングを展開していきます。対する李は、初防衛戦ではありますが、すでに安定王者の雰囲気を醸し出していました。従来のコリアン・ファイター達とは違い、リカルド ロペス(メキシコ)を彷彿させるスタイリッシュなスタイル(褒めすぎかな?)でどっしりと構え、田村を迎え撃ちました。

出だしから田村の健闘が目につきましたが、一階級下のフライ級上がりのためでしょうか、その攻撃は李のものと比べると軽く感じられてしまいます。また、パンチの的確性でも王者に大きく劣り、徐々にエンジンのギアを上げていく李に追い詰められていく形となってしまいました。

李にとり、元日本国内王者は格下ということもあり、鬼塚戦より一段高いレベルのボクシングを披露。接近すれば左右のフックで、離れれば見事な左ジャブで田村を突き放しという老獪なボクシングを披露していきます。

王者のパンチを被弾すれば必死に反撃を試みる田村ですが、目の腫れもありラウンドを追う毎に苦しい展開に追い込まれていきます。8回を過ぎたあたりから、内出血のためか右目(というより右顔全体)を大きく腫らし始めた挑戦者。試合後半になると、左目の周りも腫れも目立ち始め、その精悍な顔がフランケンシュタインのように変貌してしまいました。

限界を超えながら前進し、必死に手数を出す田村。対する李は力をセーブし余力を残した状態で試合は後半戦に突入。そのスタミナに反映されるように、回を追う毎にパンチの数を増やしていった李。腫れにより視力が低下してしまった田村は、次々にそれらのパンチを被弾してしまいます。

試合も残り1分を切ったところ、連打から右でダウンを奪った李。挑戦者はカウント内に立ち上がりましたが、田村陣営は試合継続を拒否。それ以上のダメージの蓄積から田村を守りました。

ボクシングの人気が急降下した韓国を象徴するかのようにガラガラの会場で初防衛に成功した李。防衛回数をドンドンと伸ばしていく印象を残しています。大善戦むなしく敗者となった田村。この試合を最後に、現役生活に別れを告げています。

 

この試合が終わった時点(1995年2月25日)でのスーパーフライ級/ジュニアバンタム級の世界王者たちの顔触れは下記のようになります。

WBA:李 炯哲(韓国/防衛回数1)
WBC:川島 郭志(ヨネクラ/2)
IBF:ハロルド グレイ(コロンビア/2)
WBO:ジョニー タピア(米/1)

*知名度ではタピアが他の王者たちを一歩リードしていましたが、実力は伯仲だったといっていいでしょう。

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あの試合から30年(WBCスーパーミドル級:1995年2月25日・その1)

2025年02月25日 05時04分36秒 | ボクシングネタ、その他雑談

今から30年前となる1995年2月25日、英国で行われた試合結果です。
WBCスーパーミドル級戦:
王者ナイジェル ベン(英)TKO10回1分46秒 挑戦者ジェラルド マクラレン
(米)

(世界中が注目したスーパーミドル級戦が実現)/ Photo: Wikipedia

*試合終了後、リング上で昏睡状態に陥ってしまったマクラレン。その後生死を彷徨ことになりましたが、何とか一命を取り留める事は出来ました。しかし脳内出血による後遺症から、失明すると同時に車いすでの生活を余儀なくされました。

(悲しい結末を迎えしてまいった大一番となってしまいました)/ Photo: Daily Mail

試合後、マクラレンはベンの過度のバッティングやラビットパンチ(後頭部を打つ反則行為)と、それを一切注意しなかったレフィリーへの批判が殺到しました。しかし試合を見振り返ってみてみると、それらの非難ほど荒れた試合ではなかったように映りました(もちろん歓迎される行為ではない)。

初回、マクラレンのパンチと、その重圧で吹っ飛ばされる形でリング外に飛び出してしまう形でダウンを喫したベン。カウント9ギリギリでリングに戻る事が出来ました。このダウンからのベンが被ったダメージはそれほど無く、試合再開後、左右のパンチを振るいながら力強い反撃を見せています。

2回に入ると早速反撃体制に入ったベン。元来打たれ脆くも回復も早い選手ですが、この試合での回復力は怪物的と言っていいでしょう。ジャブをあまり放たない英国人は、左右のフックでライバルに肉薄。マクラレンが後手に回る場面が時間を追うにつれ増えていきます。

(反撃に出るベン)/ Photo: BoxRec

それまで最長8ラウンドまでしか経験したことのない挑戦者。不安材料として長期戦及び接戦でのスタミナが懸念されていましたが、4ラウンドにはすでにスタミナ切れの兆候を見せ始めていました。呼吸が苦しいのか、中盤戦に入るとマウスピースを半分口から出す仕草を続けるようになったマクラレン。時折、サウスポー(左構え)にスイッチするなど、苦し紛れのボクシングも目に付くようになりました。

回を重ねてもスタミナが衰えないベンは、地元ファンの大歓声に押されるように左右のワイルド且つスピーディーなフックでマクラレンへの攻撃の手を止めません。対する挑戦者は6回、パンチをもろに貰いマウスピースを飛ばされ、スタミナも底をつき放心状態に。見るからにいつギブアップしてもおかしくない状態となっていました。

そんな中8回、死力を出し連打からこの試合2度目のダウンを奪ったマクラレン。しかし最後の死力を尽くしてもライバルを仕留める事は叶わず、あとは残るラウンドをどう生き延びるかに専念する事に。

(最後のエネルギーを絞って攻勢に出るマクラレン)/ Photo: YouTube

マクラレンにとり未知のラウンドとなった9回以降、稀代のKOパンチャーは果たして意識のある状態で戦っていたのでしょうか?疲労とそれまでの被弾のため、無意識で戦っていたと言っても過言ではないでしょう。

結局、10回に半分自滅の形でKO負けを喫したマクラレン。31勝の内20もの初回KO/TKO勝利を飾ってきた超速攻型マクラレンは、あまりもの強打者だったために対戦相手が見つからず、そのため長丁場などの苦しい経験を積むことが出来ませんでした。また普段は練習嫌いで、コーラを日常的にがば飲みするなど、自身の悪い面が最悪の形でベンとの一戦に結合されてしまったのではないでしょうか。

(ベンの攻撃の前にマクラレンがついにダウン)/ Photo: the Guardian

試合後のマクラレンの悲劇は、敗者にとっても勝者にとってもつらいものとなってしました。しかし試合中の会場は、母国の英雄の大奮戦を後押しするように大声援の嵐に包まれ続けました。その中には後の世界ヘビー級王者フランク ブルーノ(英)やフェザー級で一時代を築いたナジーム ハメド(英)の姿も見られました。

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意見番(02‐23‐25)

2025年02月23日 05時13分03秒 | ボクシングネタ、その他雑談

*一体井上は引退までにどれだけの記録を樹立していくのでしょうか。比べられているのがあのジョー ルイス(米)なのですからたまげたものです。

この数日内に来月の表紙が決まりそうです。

Photo: Amazon.co.jp

 

*毎年楽しみにしている「世界ボクシングパーフェクトガイド」は、来月(3月末)に販売が延期されたようです。時期は何時でも構いませんが、今年も是非手にしたい一冊です。

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あの試合から30年(NABOクルーザー級:1995年2月19日)

2025年02月19日 05時09分37秒 | ボクシングネタ、その他雑談

今から30年前となる1995年2月19日、米国カリフォルニア州で行われた試合結果です。
NABOクルーザー級戦(王座決定戦
):
西島 洋介山(オサム)判定2対1(117-111、116-112、113-115)ジョン カイザー(米)

1990年代に世界の重量級に挑んだ西島の、記念すべき初タイトル戦が行われました。

WBOの北米地域王座であるNABOクルーザー級のこけら落としとなった一戦。西島の戦績は9勝(7KO)1敗で、この試合が行われる2ヵ月前に初めて10回戦を行っています。対するカイザーは7勝(3KO)6敗2引き分けの戦績の持ち主で、タイトル戦はおろか10回戦の経験もない選手です。西島、カイザーはともに、地域王座戦に出場するような実績も実力も持ち合わせてはいないように思えましたが、マイナー団体の初代地域王座決定戦としては、致し方ないのではないでしょうか。

(西島が獲得したNABOのチャンピオンベルト)/ Photo: Shutterstock

残念ながらこの試合の映像を探すことは出来ませんでした。しかし西島にとり、本場米国での試合はほぼ敵地といってよく、12回を戦い抜き2対1ながらも判定勝利を収めた事は非常に価値のある白星といって過言ではないでしょう。

この試合が行われてから既に30年も経ちますが、いまだに日本が生み出したミドル級以上の選手で最高傑作の一人といわれている西島。惜しいことに、同じ時代に国内のライバルはおろか、練習相手も居なかったということです。

(日本ボクシング界重量級の最高傑作の一人に数えられる西島)/ Photo: BoxRec

もし西島の現役時代に、その後日本、WBOアジア太平洋、OPBF(東洋太平洋)の3つのヘビー級タイトルを獲得した藤本 京太郎(角海老宝石=引退)や、現日本ヘビー級王者但馬 ブランドン ミツロ(KWorld3)が存在し対戦していたら、とついついそのような夢物語を思い描いてしまいます。現在の日本ヘビー級ランキングを見てみると、名前を連ねているのは王者の但馬のみ。この寂しい状況が何時か破られる時がくるのでしょうか!?

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あの試合から30年(WBOライト級:1995年2月18日)

2025年02月18日 05時27分07秒 | ボクシングネタ、その他雑談

今から30年前となる1995年2月18日、米国ネバダ州で行われた試合結果です。
WBOライト級戦:
王者オスカー デラホーヤ(米)判定3対0(117-110、116-111x2)挑戦者/IBFジュニアライト級王者ジョンジョン モリナ(プエルトリコ)

1992年バルセロナ五輪米国唯一の金メダリストとなったオスカー デラホーヤ(米)が、プロ17戦目にして初の本格派/実力者を迎える事になりました。

(強豪モリナを迎える事になったデラホーヤ)/ Photo: Youtube

この日、デラホーヤが対戦したのはIBFジュニアライト級(スーパーフェザー級)王者ジョンジョン モリナ(プエルトリコ)。これまでに3度世界王座に就き、現在(この試合が行われた当時)も世界王者として君臨中で、その王座の7連続防衛に成功。トニー ロペス(米)やグレゴリオ バルガス(メキシコ)等強豪たちと拳を交えながら、36勝(26KO)3敗という素晴らしい戦績を築いてきました。

(一階級下のジュニアライト級で一時代を築いていたモリナ)/ Photo: Facebook

モリナの不幸は、その実力を評価されながら、同じ時代にヘナロ エルナンデス(米)やアズマー ネルソン(ガーナ)といった同階級を代表する選手たちが他団体王座に君臨していたことです。

実力者相手にスーパースター候補生がどのようなボクシングを展開するか。注目がその一点に絞られたこの戦いは、デラホーヤが見事なスタートを切る事になりました。

(序盤戦に明白なリードを奪ったデラホーヤ(右))/ Photo: ESPN

スピーディーで力強い左ジャブで先手を取ったデラホーヤ。初回中盤、目の覚めるような見事な右で先制のダウンを奪います。このままモリナもデラホーヤの勢いに飲まれると思いきやどうしてどうして。歴戦の雄は徐々に本領を発揮していきます。

これまでのデラホーヤの対戦相手のように飲まれる事なく、真正面からデラホーヤとの打ち合いに臨んだモリナ。パンチの的確性では劣るものの、パンチをスイングし新鋭に襲い掛かるなどペースを自分に引き寄せていきます。時には第3のパンチ(頭)で突っ込む形でデラホーヤに肉薄。接近すれば頭を王者に寄せ付け、デラホーヤにフラストレーションを貯めさせていきます。ベテランの巧みなボクシングにはめられたデラホーヤは、クリンチ際にモリナの後頭部にパンチを放ったりとイライラを隠せない様子。この試合後も長いキャリアを築いていくデラホーヤですが、こうも冷静さを失ったデラホーヤは稀としか言えません。

しかしそこはスーパースター。力強い左ジャブを放つことを忘れずに、ポイントは確実に自分のものにしていきます。中盤戦以降クリンチが多い戦いとなってしまいましたが、結局は軍配はデラホーヤに。キャリア最初の難関をクリアしたデラホーヤは、筋金が一本入った事になりました。

ペースは自分のモノにするものの、ポイントでは敗れたモリナ。黒星を喫したとはいえ、その評価が落ちる事はありませんでした。このモリナ戦後、スター街道をひたすら前進する事になったデラホーヤ。ゴールデンボーイ(デラホーヤのニックネーム)が苦しんだ試合の一つといって間違いないでしょう。

20代から既に髪の毛が薄くなっていたプエルトリカン。この試合ではアデランス効果(プエルトリコにアデランスがあるかは知りません)のためしっかりと整っていました。その後キャリアの後半ではスキンヘッドにチェンジ。60歳を目前に控えている現在のモリナが、どのような髪形をしているかは未検索のままです。

(ポスターの右上には以前のモリナの姿が)/ Photo: Wikipedia

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あの試合から30年(WBOフライ級:1995年2月11日)

2025年02月11日 05時47分45秒 | ボクシングネタ、その他雑談

今から30年前となる1995年2月11日、南アフリカで行われた試合結果です。
WBOフライ級戦:
挑戦者アルベルト ヒメネス(メキシコ)TKO8回2分35秒 王者ジェイク マトララ(南ア)

1991年10月にタイに渡り、当時のWBC王者ムアンチャイ キィテカセム(タイ)に挑戦者したヒメネス。敵地での世界初挑戦にも関わらず、2度のダウンを奪うなどタイ人に地獄の入り口を見せました。しかしその日のムアンチャイは打たれ脆さをさらけ出したとはいえ、好コンディションも幸いし辛くも逆転に成功。2対0の判定で、強豪ヒメネスを退けています。

ムアンチャイに苦杯を喫してから2年数ヵ月、ヒメネスに再度敵地での世界挑戦の機会が訪れました。ヒメネスを迎え撃ったのは148センチと超短身のマトララ。41勝10敗1引き分けと世界王者としては並以下の戦績の持ち主ですが、国内外の戦いで勝ち負けを繰り返しながら実力を付けてきた実戦派です。

(30年前の今日、南アフリカで実現した軽量級の好カード。写真は地元の王者マトララ)/ Photo: BoxRec

今回もまた、敵地での世界挑戦となりましたが、ドッシリとしたボクシングを展開していくヒメネス。しっかりとした構えから、角度の良い左右のパンチを上下に、あえて軽打で当てていく。王座獲得前から「横綱相撲」とでもいうのでしょうか、すでに世界王者としての風格を漂わせていました。

(ドッシリとしたボクシングを展開するヒメネス(左))/ Photo: Dailymotion

実力拮抗者同士の好試合は、一進一退の攻防が続いていきます。会場は王者がパンチを放つたびに、地元マトララのパンチが当たったように錯覚し盛り上がりをみせました。しかしヒメネスは固いガードやスリッピングアウェー(首を横に振る高度な防御技術)など防御技術を駆使し、南アフリカ人のパンチをほとんど殺していきました。

序盤戦から的確なコンビネーションでマトララにダメージを与え続けたヒメネス。完成度の高いボクシングを展開する挑戦者に必死に抵抗する王者でしたが、徐々に、徐々にと弱り始めました。迎えた8回、マトララはヒメネスのコンビネーションの前に力尽きるような形でダウン。そのダウンはこの回に喫したパンチによるものというより、それまでのダメージの蓄積によるもの。レフィリーのストップが少々早いように感じられましたが、マトララマトララ陣営、そして会場から抗議が聞かれなかったので妥当なストップだったのでしょう。

見事なボクシングで念願の世界王座奪取に成功したメキシカン。その後、王座の5連続防衛に成功することになります。当時のフライ級には、WBAには超技巧派セーン ソー プルンチット(タイ)が、WBCにはロシアンスナイパー勇利 アルバチャコフ(露/協栄)が安定政権を樹立していました。ヒメネスはこれら2王者に劣らない評価を受けていました。惜しいことに、その腰に巻いたベルトがまだまだマイナー団体として見られていたWBOだったことですね。

(マイナー団体の新WBO王者となったヒメネス)/ Photo: BoxRec

実力者ヒメネスに王座を明け渡したマトララも、その後長らくトップ戦線で戦い続ける事になりました。この試合から僅か9ヶ月後の同年11月には、一階級下のWBO王座を獲得し、変則的な形で2階級制覇に成功。2年後となる1997年には、米国で当時マイナー団体のIBAタイトルを保持していたあのマイケル カルバハル(米)に挑戦。番狂わせのTKO勝利を収め、その実力を新貯めて世界に知らしめることになりました。

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あの試合から30年(WBOスーパーフライ級:1995年2月10日)

2025年02月10日 05時19分02秒 | ボクシングネタ、その他雑談

今から30年前となる1995年2月10日、米国ニューメキシコ州で行われた試合結果です。
WBOスーパーフライ級戦(WBOは当初からスーパーの呼称を使用):
王者ジョニー タピア(米)判定3対0(120-107、118-109、117-110)挑戦者ホセ ソーサ(亜)

この試合が行われた11ヵ月前となる1994年3月に3年半ぶりにリング復帰を果たしたタピア。その後精力的に試合をこなしていき、10月には早くもWBOタイトルを獲得。師走には元IBFフライ級王者ローランド ボホール(比)を相手に無冠戦を行うなど、1994年には10ヶ月の間に7試合(全勝6KO)も実戦を行いました。

(精力的にリング活動を行っていたタピア)/ Photo: Youtube

1995年になってもアクティブなリング活動を続けるタピア。新年の第一試合では、世界王座の初防衛戦を行うことになりました。タピアに初防衛戦に選ばれたのは、15勝(9KO)7敗5引き分けという戦績の持ち主であるホセ ソーサ(亜)。マイナー団体WBOとはいえ、世界戦に出場するには不似合いな戦績の持ち主です。

ソーサは戦いながら実力を付けていった典型的な「叩き上げ」ボクサーといっていいでしょう。最初の10戦の戦績は4勝4敗2引き分けで、次の5戦では白星なしの3敗2引き分けと散々なキャリア前半を過ごしました。その後徐々に白星が増え始め、南米の地域王座戦に出場するまでに成長。その一戦でタイトル奪取はなりませんでしたが、今回暴れん坊タピアの初防衛戦の挑戦者に大抜擢されることになりました。

地元アルバカーキの大声援を背に、序盤戦から優位に試合を進めていくタピア。しかし勝ち負けを繰り返しながら世界戦までこぎ着けたソーサも、一筋縄でいく選手ではありません。パンチを放てばクリンチにいき、その際自身の第3のパンチ(頭)でタピアにフラストレーションを貯めていきます。しかし度重なる反則すれすれの行為から、4回に減点を科されたソーサ。ポイントはラウンドを重ねるごとに開いていきましたが、それでも王者に完全にペースを与える事はありませんでした。

リング外では大問題児として知られるタピアですが、リング上で見せるボクシングは基本に忠実なもの。左ジャブから右ストレート、左右のパンチを上下に打ち分け、確実にポイントを奪取していきます。常に自分の立ち位置(ポジショニング)に注意を払うなど、その試合の組み立てからは長いアマチュア歴と30戦のプロキャリア(28勝1引き分け)が伊達でないということがしばし伺えます。

ソーサの頭突きという老獪さも影を潜めだした中盤以降、挑戦者との差をドンドンと広げていったタピア。大差の判定で初防衛に成功しています。地元では絶大な支持を得ていたタピアですが、一般的にはまだまだその名を聞かせる程度の存在(専門誌で非常に高く評価されていましたが)。しかしすでに世界王者とはいえ、今後の成長が大きく期待が持てたオールドホープでした。

判定はワンサイドで王者の防衛が支持されましたが、フルラウンド戦い抜くという予想外(?)の大善戦を見せたソーサ。この試合から約3年後の1998年3月に来日し、当時のWBCバンタム級王者辰吉 丈一郎(大阪帝拳)に挑戦し大差の判定負けを喫しています。

(タピアに善戦し、後に辰吉に挑戦したソーサ)/ Photo: BoxRec

タピアが出場したこの興行には、同じくアルバカーキ出身で、タピアと人気を二分するダニー ロメロ(米)も登場。無冠戦でプエルトリコのハビエル シントロンを一蹴。4月末に予定される世界初挑戦に向け、無難な調整を終えています。

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