1990年代初頭からの約四半世紀、それぞれの階級で印象に残った選手を挙げていっております。記載上のルールは各選手、登場するのは1階級のみ。また、選んだ選手がその階級の実力№1とは限りません。まあ早い話、個人的に思い入れのある選手ということになります。
前回はこれまでの記載上のルールを破る第一号生をお届けしましたが、今回からいつもの路線に戻ると同時に、新たな階級であるスーパーライト級に突入します。そのスーパーライト級の初陣を飾るのは、元WBAスーパーライト級(当時ジュニアウェルター)王者平仲 明信(沖縄)。平仲が世界王座を獲得したのは1992年4月。メキシコに渡りエドウェイン ロサリオ(プエルトリコ)を僅か92秒でストップし念願の世界王座奪取に成功。自分はその試合が見たいがためにWOWOWに加入しました。

(見るからにタフな今回の主人公、平仲 明信)
外見がゴツゴツしていて、そのボクシングもそれに反映。そして性格というのでしょうか、ボクシングに対する姿勢も一直線。平仲を形容するのなら、そのような言葉を並べるのが適切でしょうね。こういう選手、最近では日本、そして世界を見回してもあまりいませんよね。ボクシング自体の技術は向上しているのでしょうが、何となくスマートになり過ぎました、21世紀のプロボクシングというのは。
その外見とは裏腹に、平仲の初期のキャリアは非常にエリート的なものでした。日本大学所属時に1984年に行われたロサンゼルス五輪に出場。ウェルター級でエントリーしますが、初戦で敗退。しかし翌年春には43勝(37KO)5敗という堂々たるアマチュア歴を引っ提げてプロ入りします。
1986年1月に後楽園ホールに初登場。プロ4戦目で迎えた日本ジュニアウェルター級(現スーパーライト)王座挑戦をワンパンチKOで堂々と奪取。プロ4戦目で国内王座獲得という最短記録は、辰吉 丈一郎(大阪帝拳)はじめ、幾人かに並ばれていますが、いまだに破られず。日本王座の防衛は9まで伸ばすことに成功。平仲が打ち立てたこの記録は、今世紀初頭に木村 登勇(横浜光)が破るまで同王座の最多防衛記録として残りました。驚くことに平仲は、9度の防衛の内8度までをKO/TKOで飾っています。最近は、以前からかもしれませんが、日本王座を獲得し、2、3度防衛して「世界戦への準備のため」といって返上する選手が大勢います。日本王座を守り続けながら国内最強の地位を確立してからその上を狙う、というのが本来望ましい形ではないでしょうかね。世界王座を奪取できれば、その時に日本の王座を返上すればいいことですし。
さて、話を平仲に戻しましょう。平仲の世界初挑戦は1989年4月、第3国であるイタリアで行われました。王者ファン マルチン コッジは南米アルゼンチン出身の選手とはいえイタリアにルーツを持つ選手。事実上敵地で行われたその一戦は、現在でもコッジに対する地元贔屓試合だったという批判が根強く残っています。初回、ダメージでも何でもない平仲はスタンディング・カウントが数えられ、2回には不可解に減点1を課される始末。3回、持ち前の強打を発揮し、2度コッジをリングに送りますが、その回でのフィニッシュならず。結局平仲の世界初挑戦は、大差の判定負けで終わってしまいました。

(イタリアでの世界初挑戦)
世界初挑戦で王座獲得に失敗したとはいえ、ここまでの平仲の歩んできたキャリアは順当そのもの。しかし平仲に真の試練が訪れるのはここからになります。コッジ戦後、何度か世界再挑戦の話が舞い降りますが、その都度自身のオーバーワークのための体調不良、王者の怪我、そして目まぐるしい王座の交代劇で中々実現しません。平仲が空港で世界戦中止の連絡を受けたこともありました。
結局3年後に訪れる世界再挑戦までに経験した実戦は僅か2試合。もしこの時期に平仲が1試合でも多く経験をつめていれば、ひょっとしたら世界に名を残す選手になっていたかもしれません。それだけ同級で世界王者になるというのは難しいことなんです。

(メキシコで念願の世界王座獲得)
平仲念願の世界再挑戦は1992年4月10日、今回もまた第3国で行われました。試合が行われたのはメキシコ。当時同級のWBC王座には史上最強のメキシカンと言われるフリオ セサール チャベスが君臨。平仲が挑戦したエドウィン ロサリオ(プエルトリコ)はかつてそのチャベスと拳を交え、ボコボコにされた経験を持っています。試合前のロサリオは平仲など眼中にないようで、しきりにチャベスとの再戦、そう王座統一戦をアピールしていました。
運命のゴングがなってからレフィリーが試合を止めるまでに費やされた時間は僅か92秒。しかし平仲はその92秒の間に全エネルギーを注ぎ込みます。
前進を止めることなく強打を当て続ける平仲。ライト級で3度、そして現行の階級で1度の王座を獲得しているロサリオは何も出来ずに立ったまま気絶状態に。初めてこの試合を見たとき、「ストップが早すぎるのでは?」と思いましたが、ストップ後ロサリオ本人はもちろん、ロサリオ陣営からも何の抗議もありませんでした。まさに見事な世界奪取。その一言に尽きるでしょう。
平仲が獲得した王座(獲得した順):
日本ジュニアウェルター級:1986年1月9日獲得(防衛回数9)
WBAジュニアウェルター級:1992年4月10日(0)
平仲が世界王座を奪取したというニュースを耳にする前、日本時間の前日に、鬼塚 勝也(協栄)が論議を呼ぶ判定勝利を収めWBAジュニアバンタム級(現スーパーフライ)王座を獲得していました。新学期早々暗い雰囲気になりかけていた日本ボクシング界だけに、平仲の海外での世界奪取快挙は驚きとともに、喜びも倍でした。
見事の世界奪取から僅か5ヶ月後、平仲は安全パイと思われていたモーリス イースト(比)にまさかの逆転TKO負を喫し世界のベルトと決別。試合後脳内出血が確認されたため、イースト戦を最後に現役からの引退を余儀なくされてしまいました。
決してイーストの勝利にケチをつけるわけではありません。しかし平仲に持ち前のひた向きさに柔軟性が加わっていれば、負ける相手ではなかったでしょう。
最後の最後まで、いや、現在でも故郷・沖縄にこだわり続ける平仲。平仲が世界王者になってから4半世紀になりますが、沖縄の後継者はいまだに誕生していません。その空白期間、近い将来に終わるといいですよね。
平仲の終身戦績は22戦20勝(18KO)2敗。見事な記録です。
前回はこれまでの記載上のルールを破る第一号生をお届けしましたが、今回からいつもの路線に戻ると同時に、新たな階級であるスーパーライト級に突入します。そのスーパーライト級の初陣を飾るのは、元WBAスーパーライト級(当時ジュニアウェルター)王者平仲 明信(沖縄)。平仲が世界王座を獲得したのは1992年4月。メキシコに渡りエドウェイン ロサリオ(プエルトリコ)を僅か92秒でストップし念願の世界王座奪取に成功。自分はその試合が見たいがためにWOWOWに加入しました。

(見るからにタフな今回の主人公、平仲 明信)
外見がゴツゴツしていて、そのボクシングもそれに反映。そして性格というのでしょうか、ボクシングに対する姿勢も一直線。平仲を形容するのなら、そのような言葉を並べるのが適切でしょうね。こういう選手、最近では日本、そして世界を見回してもあまりいませんよね。ボクシング自体の技術は向上しているのでしょうが、何となくスマートになり過ぎました、21世紀のプロボクシングというのは。
その外見とは裏腹に、平仲の初期のキャリアは非常にエリート的なものでした。日本大学所属時に1984年に行われたロサンゼルス五輪に出場。ウェルター級でエントリーしますが、初戦で敗退。しかし翌年春には43勝(37KO)5敗という堂々たるアマチュア歴を引っ提げてプロ入りします。
1986年1月に後楽園ホールに初登場。プロ4戦目で迎えた日本ジュニアウェルター級(現スーパーライト)王座挑戦をワンパンチKOで堂々と奪取。プロ4戦目で国内王座獲得という最短記録は、辰吉 丈一郎(大阪帝拳)はじめ、幾人かに並ばれていますが、いまだに破られず。日本王座の防衛は9まで伸ばすことに成功。平仲が打ち立てたこの記録は、今世紀初頭に木村 登勇(横浜光)が破るまで同王座の最多防衛記録として残りました。驚くことに平仲は、9度の防衛の内8度までをKO/TKOで飾っています。最近は、以前からかもしれませんが、日本王座を獲得し、2、3度防衛して「世界戦への準備のため」といって返上する選手が大勢います。日本王座を守り続けながら国内最強の地位を確立してからその上を狙う、というのが本来望ましい形ではないでしょうかね。世界王座を奪取できれば、その時に日本の王座を返上すればいいことですし。
さて、話を平仲に戻しましょう。平仲の世界初挑戦は1989年4月、第3国であるイタリアで行われました。王者ファン マルチン コッジは南米アルゼンチン出身の選手とはいえイタリアにルーツを持つ選手。事実上敵地で行われたその一戦は、現在でもコッジに対する地元贔屓試合だったという批判が根強く残っています。初回、ダメージでも何でもない平仲はスタンディング・カウントが数えられ、2回には不可解に減点1を課される始末。3回、持ち前の強打を発揮し、2度コッジをリングに送りますが、その回でのフィニッシュならず。結局平仲の世界初挑戦は、大差の判定負けで終わってしまいました。

(イタリアでの世界初挑戦)
世界初挑戦で王座獲得に失敗したとはいえ、ここまでの平仲の歩んできたキャリアは順当そのもの。しかし平仲に真の試練が訪れるのはここからになります。コッジ戦後、何度か世界再挑戦の話が舞い降りますが、その都度自身のオーバーワークのための体調不良、王者の怪我、そして目まぐるしい王座の交代劇で中々実現しません。平仲が空港で世界戦中止の連絡を受けたこともありました。
結局3年後に訪れる世界再挑戦までに経験した実戦は僅か2試合。もしこの時期に平仲が1試合でも多く経験をつめていれば、ひょっとしたら世界に名を残す選手になっていたかもしれません。それだけ同級で世界王者になるというのは難しいことなんです。

(メキシコで念願の世界王座獲得)
平仲念願の世界再挑戦は1992年4月10日、今回もまた第3国で行われました。試合が行われたのはメキシコ。当時同級のWBC王座には史上最強のメキシカンと言われるフリオ セサール チャベスが君臨。平仲が挑戦したエドウィン ロサリオ(プエルトリコ)はかつてそのチャベスと拳を交え、ボコボコにされた経験を持っています。試合前のロサリオは平仲など眼中にないようで、しきりにチャベスとの再戦、そう王座統一戦をアピールしていました。
運命のゴングがなってからレフィリーが試合を止めるまでに費やされた時間は僅か92秒。しかし平仲はその92秒の間に全エネルギーを注ぎ込みます。
前進を止めることなく強打を当て続ける平仲。ライト級で3度、そして現行の階級で1度の王座を獲得しているロサリオは何も出来ずに立ったまま気絶状態に。初めてこの試合を見たとき、「ストップが早すぎるのでは?」と思いましたが、ストップ後ロサリオ本人はもちろん、ロサリオ陣営からも何の抗議もありませんでした。まさに見事な世界奪取。その一言に尽きるでしょう。
平仲が獲得した王座(獲得した順):
日本ジュニアウェルター級:1986年1月9日獲得(防衛回数9)
WBAジュニアウェルター級:1992年4月10日(0)
平仲が世界王座を奪取したというニュースを耳にする前、日本時間の前日に、鬼塚 勝也(協栄)が論議を呼ぶ判定勝利を収めWBAジュニアバンタム級(現スーパーフライ)王座を獲得していました。新学期早々暗い雰囲気になりかけていた日本ボクシング界だけに、平仲の海外での世界奪取快挙は驚きとともに、喜びも倍でした。
見事の世界奪取から僅か5ヶ月後、平仲は安全パイと思われていたモーリス イースト(比)にまさかの逆転TKO負を喫し世界のベルトと決別。試合後脳内出血が確認されたため、イースト戦を最後に現役からの引退を余儀なくされてしまいました。
決してイーストの勝利にケチをつけるわけではありません。しかし平仲に持ち前のひた向きさに柔軟性が加わっていれば、負ける相手ではなかったでしょう。
最後の最後まで、いや、現在でも故郷・沖縄にこだわり続ける平仲。平仲が世界王者になってから4半世紀になりますが、沖縄の後継者はいまだに誕生していません。その空白期間、近い将来に終わるといいですよね。
平仲の終身戦績は22戦20勝(18KO)2敗。見事な記録です。
筋トレもそうなんですが、どうも最近、見るからに武骨な選手がいませんよね、平仲氏や浜田 剛史氏のように。