1990年代初頭からの約四半世紀、それぞれの階級で印象に残った選手を挙げていっております。記載上のルールは各選手、登場するのは1階級のみ。また、選んだ選手がその階級の実力№1とは限りません。
8月18日からライト級の話題に階級アップ。その先陣を切ったのが元WBC王者ミゲル アンヘル ゴンザレス(メキシコ)同王座を10連続で防衛した名選手。しかしそれ以上に「東京 三太」というリングネームで世界王座獲得前に5度実戦を行った事の方が有名な話かもしれませんね。
協栄ジムの招聘選手として来日し、活躍した三太。今回登場するのは三太と同じ時期に来日し、その後引退前の数戦以外は日本のリング、または日本(協栄ジム)のプロモートを受けていたオルズベック ナザロフ(キルギス/協栄)の出番となります。ナザロフは当初、「グッシー」ナザロフというリングネームで戦っていました。
(オルズベック グッシー ナザロフ)
三太とは違い、キャリアの大半を日本のリングで過ごしたナザロフ。実質は日本の選手で、実際にも日本のジム所属の世界チャンピオンとして記録されています。
サウスポーのナザロフは時代の先駆けとでもいうのでしょうか、相手に距離を置く暇を与えず、テンポよく攻撃を仕掛けていきました。後のWBOスーパーミドル級王者ジョー カルザゲ(ウェールズ)は、ナザロフのボクシング・スタイルを受け継いだ選手といっても過言ではないでしょう。
いつ頃だったでしょうかね、ナザロフの記事を初めて目にしたのは?ナザロフの戦績を振り返って見ると、自分(Corleone)がボクシングマガジンを初めて購入した時には既に日本ライト級王座に君臨していました。
土日か祝日かはっきりとは覚えていませんが、ナザロフの世界初挑戦の試合(1993年10月30日)が、昼間に生中継されていました。テレビと放送されるとは知らずに、偶然つけたテレビで試合が流れているのを発見。「ラッキー」と思いきやナザロフは前半戦(4回だったかな?)にダウン。「やべえよ、やべえよ」と思いきや、回が進むごとにペースを上げていくナザロフ。その後ダウンを奪い返し、敵地のど真ん中で堂々の世界初挑戦、獲得劇を演じてしまいました。
当時ナザロフが世界王座を獲得した時、「まあ、ナザロフの実力からして当然の結果だろう。前王者となるディンガン トベラ(南ア)は大した選手ではないし」と思っていました。しかし現在、それを思い返せば、自分はとんでもなく無知だったということが判明しています。トベラはナザロフとの初戦から7年後、何と5階級上のWBCスーパーミドル級王座を獲得しているのですから。それに加えてトベラの母国南アフリカは、極度の人種差別であったアパルトヘイトが終焉したばかり。外国人であるナザロフ、そして協栄陣営は想像を絶するプレッシャーを受けていたのではないでしょうか。
(WBAライト級王座を賭け、敵地でトベラと連戦)
当然の如くのように世界王座を獲得したナザロフですが、真価を発揮したのは世界王座奪取後の事。半年後には再び南アフリカに渡ってトベラを初戦以上に圧倒。その年の終わりには米国の東北地方メイン州で元2階級制覇王座のジョーイ ガマチェ(米)を全く寄せ付けることなくKO勝利。日本の専門家に限らず、米国を中心とした海外でもその評価をドンドン伸ばしていきました。
(人気者、ガマチェを一蹴)
ナザロフの不幸はその強さのために日本、そしてアジア国内でライバル選手がいなかったことではないでしょうか。ガマチェ戦後、3試合続けてアジアの選手との防衛戦を行ったナザロフ。朴 元(韓国)、ディンド カノイ(比)、そしてアドリアヌス タロケ(インドネシア)と揃ってナザロフの相手にならず。今でもそうですが、どうもボクシング界で日本人以外の国内ジム所属の選手は、どれだけの実力があろうとも正当な評価が得られないようです。
結局はタロケ戦を最後に日本のリングに上がることはなかったナザロフ。キャリア最後の3試合は、協栄ジムと袂を分かれて行っています。
ナザロフの通算戦績は26勝(19KO)1敗(0KO負け)。KO率は70%。唯一の敗戦は、自身の最終戦となったジャン バプティスト メンディ(仏)に王座を明け渡した試合のみになります。
デビュー6戦目で日本王座を獲得し、12戦目でOPBF(東洋太平洋)王者に昇格したナザロフ。日本王座は2度、OPBF王座は5度の防衛に成功しています。ライト級でもしこれだけの実力、実績のある日本人選手だったら、とんでもない評価を得ていたことでしょうね。
ナザロフが獲得した王座(獲得した順):
日本ライト級:1991年4月22日獲得(防衛回数1)
OPBF(東洋太平洋)ライト級:1992年5月11日(5)
WBAライト級:1993年10月30日(6)
1966年生まれのナザロフ。今年でちょうど50歳の誕生日を迎えています。現在は母国キルギスで、ボクシングに関わる仕事をされているようです。出来れば協栄ジムの同胞ユーリ アルバチャコフ(露)同様に、そのキャリアを日本のリングで終えてほしかったですね。
もしナザロフという存在を知らなければ、自分は「キルギス」という国名に接する機会はなかったのではないでしょうか。ナザロフには感謝しています。