1990年代初頭からの約四半世紀、それぞれの階級で印象に残った選手を挙げていっています。記載上のルールは各選手、登場するのは1階級のみ。また、選んだ選手がその階級の実力№1とは限りません。個人的に思い入れのある選手、または印象に残った選手が中心となります。今回登場するのはボクシング史上最高の技術者の一人パーネル ウィテカー(米)。その試合は「つまらない」と現役時代は批判が殺到しましたが、その技術は誰もが認める天下一品のものでした。
昨年の師走からウェルター級になりました。その第一弾でお届けしたのがメルドリック テーラー(米)。アマチュアでは1984年のロサンゼルス五輪のフェザー級に出場し、見事金メダルを獲得。プロではIBFスーパーライト級とWBAウェルター級王座を獲得しました。今回の主人公であるウィテカーはそのテーラーの同期。ウィテカーもロス五輪に出場し、ライト級で金メダルを獲得しています。
テーラーはメキシコの伝説フリオ セサール チャベス(メキシコ)に破壊されてしまいましたが、このウィテカーはそのチャベスの伝説にストップを掛けました。テーラー、ウィテカーともに本当に素晴らしい選手たちでしたが、チャベスを中心に考えると、プロで残した業績は雲泥の差が出てしまいましたね。
ウィテカーがチャベスと対戦したのは1993年9月10日。その時、ウィテカー、チャベス共にすでに世界3階級制覇を達成していました。WBCウェルター級王者のウィテカーに、一つ階級が下のWBC王者チャベスが挑んだこの一戦。最初の2ランドはチャベスがグイグイとプレッシャーを掛け先行。メキシカン初の4階級制覇に向け好調な滑り出しを見せました。しかしそこからウィテカーが持ち前の技術を発揮していきます。チャベスが前進すれば持ち前の技術でかわし、逆に軽打でポイントを奪取。結局は両選手とも決定打を奪えずに12回終了。しかし出された判定はウィテカーから見て1対0(115-113、115-115x2)の痛み分け。しかし多くのボクシング関係者、ファンからはウィテカーの勝利を支持する声が多く聞かれました。
(チャベス対ウィテカー。まさに伝説対伝説の一戦となりました)
この一戦でウィテカーはチャベスに黒星を付けることは出来ませんでした。しかしチャベスがプロデビューから築き上げた連勝記録を87でストップしています。
(あのチャベスですらウィテカーの技術に及ばず...。)
ウィテカーのプロデビューは五輪の行われた年の11月。その後当然の如く白星を重ねていきます。1987年の3月に行った12戦目には、当時でいうと元WBAスーパーフェザー級王者で、その後WBCスーパーライト級王者となったロジャー メイウェザー(米)に明白な判定勝利を収めNABFライト級王座を獲得。その4ヵ月後にはUSBA王座も吸収し、世界挑戦に向け順調に地位を上げていきました。NABFもUSBAも現在と違い、地域王座とはいえ勢力が強かった1980年代後半。当時の世界ライト級王者たちにすれば、「嫌な選手がどんどん成長してきたな」と感じたことでしょうね。
(1984年のロス五輪ライト級で金メダルを獲得したウィテカー。メルドリック テーラー(金)やイベンダー ホリフィールド(銅)もメダルを獲得)
ウィテカーはプロで40(17KO)の白星を重ね、4度の敗戦と1つの引き分けを経験しています。2つの敗戦は自身最後の2戦で喫した衰えからくるもの。この2つの黒星は、ウィテカーのキャリアに何ら影を落とすことは無かったといっても過言ではないでしょう。そして残りの2つの敗戦と一つの黒星はというと、3試合とも「ウィテカーが勝利していたのでは?」という声が試合後、そして現在でも聞かれるものでした。
一つの引き分けは上記で述べたチャベス戦。一つ目の黒星はというと、チャベスの同胞ホセ ルイス ラミレスに喫したものでした。1988年の春に行われたその一戦。当時WBCライト級王者だったラミレスがフランスを主戦場にしていたためにウィテカーが渡仏して世界初挑戦を行う事になりました。ラミレスはすでに100戦以上‼のキャリアの突貫ファイター。しかし不器用なメキシカンを元金メダリストが捌き切ったと思われましたが判定はラミレスに。ウィテカーは16戦目でプロ初黒星を喫してしまいました。
「ラミレス対ウィテカー」戦後、その出された判定は多いな論議を呼びました。加えてその試合、ウィテカーは自らの負傷を抱えながらも(拳か肩)片腕でフルラウンドを戦い抜きました。まあそれは言い訳以外の何物ではないのですが、ラミレス戦で喫した黒星がウィテカーの評価を下げることはありませんでした。
ウィテカーの2度目の世界挑戦はラミレス戦から11ヵ月後の1989年2月に行われ、こちらもラミレスと同様の激闘型のグレグ ホーゲン(米)と対戦。今回は対戦相手に何もさせずに判定勝利。プロ18戦目で世界王座に到達しています。
その後ウィテカーは、順調に防衛記録を伸ばしていくと同時に、他団体のライト級王座も吸収していきます。世界王座奪取から半年後(1989年8月)、当時空位だったWBC王座を宿敵ラミレスと争ったウィテカー。その再戦では本来の実力を見せつけ大差判定勝利。WBC王座を吸収すると共に、IBF王座の防衛にも成功しています。その1年後にはWBA王座保持者のファン ナサリオ(プエルトリコ)をバッサリと一撃で仕留め3団体王座統一に成功。その後も順調にライト級王座の防衛回数を伸ばしていき、1992年の夏には2階級制覇に乗り出します。ウィテカーが挑戦したのは強打者ラファエル ピネダ(コロンビア)。しかしいくら強打者でも、パンチが当たらなければ何もなりません。逆にウィテカーはダウンを奪うなどして大差判定勝利。難なく2階級制覇を遂げています。
(3団体王座の統一に成功したファン ナサリオ戦(左)。アフリカの英雄アズマー ネルソンをも撃破(右))
IBFスーパーライト級王座をピネダから強奪してから半年、ウィテカーは当代きっての技巧派と目されていたWBCウェルター級王者ジェームス マクガート(米)に挑戦。技術者同士のレベルの高い攻防戦が12ラウンドに渡って繰り広げられましたが、結局はウィテカーが僅差ながらも明白な判定勝利を収め3階級制覇に成功。その王座の初防衛戦で上記のチャベス戦が行われました。
(マクガートとの技術戦にも勝利)
ウェルター級王座の防衛戦に飽き足らないウィテカー。1995年3月にアルゼンチンの「フリオ セサール」(本名です)、WBAスーパーウェルター級王座を10度守っていたバスケスに挑戦します。バスケスは決してかませ犬ではなく、1992年の師走に上山 仁(新日本木村)と争った王座を獲得後、強豪選手たちと世界各地で戦いながら二桁防衛に成功していた実力者。ウィテカーはそんなバスケスを手玉に取って大差判定勝利(3対0:118-107、116-110、118-110)を収めてしまうんですから大したものです。
バスケス戦後、スーパーウェルター級王座を即返上し、従来のWBCウェルター級王座の防衛に専念していったウィテカー。キャリア終盤にはお得意の「ポカ倒れ」をちょくちょく披露しましたが、ご愛敬といったところでしょう。
1997年4月に、スター街道驀進中だったオスカー デラホーヤ(米)に、ここでもまた疑惑の判定負けを喫し世界王座から決別。その後3試合をこなすも白星を得ることが出来ず(2敗1無効試合)、2001年に正式に現役からの引退を発表しました。
(デラホーヤとの金メダリスト対決。少々遊びすぎたかな?)
ウィテカーが獲得した王座(獲得した順):
NABFライト級:1987年3月28日獲得(防衛回数1)
USBAライト級:1987年7月25日(0)
IBFライト級:1989年2月18日(8)
WBCライト級:1989年8月20日(5)
(2団体統一王者に)
WBAライト級:1990年8月11日(3)
(3団体統一王者に。当時のWBOはスーパーマイナー団体)
IBFスーパーライト級:1992年7月18日(0)
(2階級制覇達成)
WBCウェルター級:1993年3月6日(8)
(3階級制覇達成。この王者時代にチャベスと対戦)
WBAスーパーウェルター級:1995年3月4日(0)
(4階級制覇達成。この王座は即返上し、ウェルター級王座の防衛に専念)
(ウィテカーの初の「タイトル」戦、対ロジャー メイウェザー)
引退後は当然の如くボクシングの殿堂入りを果たしたウィテカー。ザブ ジュダー(米)を世界王座に返り咲きさせたり、それなりにトレーナーとしても活躍。プライベートの方では、税金の未払いで一時問題になりましたが、現在のところは問題なし。2015年には息子さんを癌で亡くされています。ただ最近のインタビューを見る限り、元気そうでした。
ウィテカーといえば、やはり「つまらない」ボクサーの代名詞的存在でしたが、現役のボクサーで、そして歴代の偉大なる選手たちで一体誰が全盛期のウィテカーを凌ぐ事が出来るのでしょうか?全盛期のチャベスならかなりの勝負が期待できそうです。ヘクター カマチョ(プエルトリコ)やフロイド メイウェザー(米)とのスピード合戦も興味が惹かれます。スーパーウェルター級でのテリー ノリス(米)との対戦も見たかったし、アイク クォーティー(ガーナ)の堅いガードをどのように避けていくかにも興味がそそられます。まあ、現在のライト級、スーパーライト級、そしてウェルター級のトップ選手たちではウィテカーの相手にはならないでしょうが。
そのニックネームはスウィート ピー(Sweat Pea)。対戦相手からすれば憎たらしい嫌な選手。ファンからすれば憎みきれない選手、でしたね。
(オリンピックで金メダルを獲得し、プロでは4階級制覇に成功。凄い、の一言です)