一昨日シネマ・ジャックで「ヒロシマ、ピョンヤン」を観ました。
北朝鮮に居住する朝鮮人被爆者の問題をとりあげたドキュメンタリー映画です。
原爆投下により広島で約42万人、長崎では約27万人が被爆しました。
その中に、広島では約5万人、長崎では約2万人の朝鮮人がいました。
その生存者でその後朝鮮半島に帰国した人は、広島から約1万5千人、長崎からは約8千人。
韓国へは約2万人、北朝鮮へは約3千人と推測されています。
在外被爆者(帰国した外国人被爆者と、海外居住の日本人・日系人)の約90%を占める韓国・アメリカ・ブラジルの被爆者たちは、日本の被爆者と同じ援護措置を日本政府に求めて運動を続けた結果、自国でも日本政府からの手当を受けることができるようになりました。
しかし、手当申請の条件となっている「被爆者健康手帳」を、自国の日本大使館等で取得できるよう被爆者援護法が開成されたのは、なんと一昨年(2008年)のことだそうです。
しかし、在外被爆者でも北朝鮮の被爆者の場合は何の措置も受けられない状態が続いています。
2007年の調査では、確認された被爆者は1911人で、内1529人がすでに死亡。健在は382人となっています。
この映画には、何人かの朝鮮人被爆者が登場しますが、中でも平壌に住む1941年生まれの女性・李桂先(リ・ゲソン)さんと、広島県大竹市に住む母親・許必年(ホ・ピルニョン)さんを中心に構成されています。
必年さんが幼い桂先さんを連れて広島市内へは行ったのは原爆投下から12日目。残留放射能を浴びてしまいました。しかし、桂先さんは2004年に平壌に来たお母さんから話を聞くまで自分が被爆者だということを知らなかったそうです。
娘に59年間も被爆の事実を伝えなかったのは「嫁いかれんけ」、桂先さんが北朝鮮で結婚した後、何回も平壌に会いに行った時も言わなかったのは「別れたらいけんけ」・・・。
また桂先さんも被爆していたことを子や孫には話していないそうです。
この映画についての詳細は、<伊藤孝司の仕事>というサイト中の<ヒロシマ・ピョンヤン>のページをご参照ください。
さて、この映画についての私ヌルボの感想はというと、語られない言葉、語ることのできない言葉があまりに多い、ということ。
桂先さんは、民族教育に熱心な両親によって小中高はチマチョゴリを着て民族学校に通いました。そして帰国事業開始の翌1960年、アボジ(父)は溺愛する桂先さんを1人で帰国させます。
その父が初めて訪朝して娘と再会したのが1975年。以後両親は何度も平壌を訪れます。
・・・母の必年さん、娘を1人北朝鮮に送ったことに対する思い(後悔?)や、北朝鮮での生活のようすやその感想等々、いろいろあるでしょうが、それらは語られません。
桂先さんの暮らす部屋のようす等を見たところ、なかなか恵まれているようですが、必年さんからのプレゼントは画面で映されていたピカチュー等々の人形ばかりではもちろんないはずです。
伊藤孝司監督の姿勢については「北朝鮮寄りすぎる」との声が聞こえてきそうです。しかし、そうでなければ彼の国でこれだけの映画は撮れないでしょう。
ただヌルボが疑問に思ったのは次のナレーション。
「私が朝鮮で会った被爆者は、誰もが自分の国のそうした選択を支持すると語る。核廃絶を願う私は、複雑な思いでそれを聞いた」。
伊藤監督! 北朝鮮の国民が自国の政治を自由に批判できるわけないでしょう!?
この映画のパンフの冒頭で、伊藤監督は「平壌から桂先さんに同行し、広島での(被爆者)手帳取得の一部始終と母親との再会を中心とした映画を考えた」とあります。しかし来日は実現せず。「日朝間に立ちはだかる壁は、予想以上に高かった」のです。
ナレーションは次の通りです。
「2007年11月、日本政府は「手帳」取得のための桂先さんの入国を受け入れると表明。ところが、付き添い人の日本への入国は認めなかった。隊長の良くない桂先さんが、一人で来日することは不可能であるため、この話は実現しなかった。厳しい日朝関係が、母と娘の願いを打ち砕いたのである」。・・・この辺の具体的説明はありません。<付き添い人>って、マズい言動をとらないよう見張る監視人のことじゃないの?という疑問は北朝鮮を知る人ならふつうに考えることでしょう。この親子のような事情があろうがなかろうが、日本に里帰りすることは認めてないし・・・。
また伊藤監督がこの映画を撮るにあたって、北朝鮮の対外文化連絡協会との間にはややこしいやりとりが当然あったことと思います。
しかし、それも表に出せるわけないしねー・・・。
たぶん第3者の立場からはいろんな感想・意見があると思います。北朝鮮政府が悪いのであって、日本政府を一方的に責めるのは間違い、とか・・・。
ヌルボは、どっちの政府が何割とはいいませんが、どちらも責任はあると思います。
娘を一人だけ北に送った親に対しても、判断ミスを責める向きもあるでしょうが、やはり国と国の間で翻弄されてきた、ということでしょう。
たとえば「日本政府への要求」という公式的(?)な言葉の底に、もっと大きな声で叫びたい、しかし叫ぶことのできない本音がたくさんあるように感じられた映画でした。
※昨年8月28日の記事でドキュメンタリー映画「ディア・ピョンヤン」を紹介しましたが、北朝鮮政府を批判した言辞はなくても、いろんなことを自然に撮り、語った結果、梁英姫監督は入国禁止になってしまってます。
北朝鮮に居住する朝鮮人被爆者の問題をとりあげたドキュメンタリー映画です。
原爆投下により広島で約42万人、長崎では約27万人が被爆しました。
その中に、広島では約5万人、長崎では約2万人の朝鮮人がいました。
その生存者でその後朝鮮半島に帰国した人は、広島から約1万5千人、長崎からは約8千人。
韓国へは約2万人、北朝鮮へは約3千人と推測されています。
在外被爆者(帰国した外国人被爆者と、海外居住の日本人・日系人)の約90%を占める韓国・アメリカ・ブラジルの被爆者たちは、日本の被爆者と同じ援護措置を日本政府に求めて運動を続けた結果、自国でも日本政府からの手当を受けることができるようになりました。
しかし、手当申請の条件となっている「被爆者健康手帳」を、自国の日本大使館等で取得できるよう被爆者援護法が開成されたのは、なんと一昨年(2008年)のことだそうです。
しかし、在外被爆者でも北朝鮮の被爆者の場合は何の措置も受けられない状態が続いています。
2007年の調査では、確認された被爆者は1911人で、内1529人がすでに死亡。健在は382人となっています。
この映画には、何人かの朝鮮人被爆者が登場しますが、中でも平壌に住む1941年生まれの女性・李桂先(リ・ゲソン)さんと、広島県大竹市に住む母親・許必年(ホ・ピルニョン)さんを中心に構成されています。
必年さんが幼い桂先さんを連れて広島市内へは行ったのは原爆投下から12日目。残留放射能を浴びてしまいました。しかし、桂先さんは2004年に平壌に来たお母さんから話を聞くまで自分が被爆者だということを知らなかったそうです。
娘に59年間も被爆の事実を伝えなかったのは「嫁いかれんけ」、桂先さんが北朝鮮で結婚した後、何回も平壌に会いに行った時も言わなかったのは「別れたらいけんけ」・・・。
また桂先さんも被爆していたことを子や孫には話していないそうです。
この映画についての詳細は、<伊藤孝司の仕事>というサイト中の<ヒロシマ・ピョンヤン>のページをご参照ください。
さて、この映画についての私ヌルボの感想はというと、語られない言葉、語ることのできない言葉があまりに多い、ということ。
桂先さんは、民族教育に熱心な両親によって小中高はチマチョゴリを着て民族学校に通いました。そして帰国事業開始の翌1960年、アボジ(父)は溺愛する桂先さんを1人で帰国させます。
その父が初めて訪朝して娘と再会したのが1975年。以後両親は何度も平壌を訪れます。
・・・母の必年さん、娘を1人北朝鮮に送ったことに対する思い(後悔?)や、北朝鮮での生活のようすやその感想等々、いろいろあるでしょうが、それらは語られません。
桂先さんの暮らす部屋のようす等を見たところ、なかなか恵まれているようですが、必年さんからのプレゼントは画面で映されていたピカチュー等々の人形ばかりではもちろんないはずです。
伊藤孝司監督の姿勢については「北朝鮮寄りすぎる」との声が聞こえてきそうです。しかし、そうでなければ彼の国でこれだけの映画は撮れないでしょう。
ただヌルボが疑問に思ったのは次のナレーション。
「私が朝鮮で会った被爆者は、誰もが自分の国のそうした選択を支持すると語る。核廃絶を願う私は、複雑な思いでそれを聞いた」。
伊藤監督! 北朝鮮の国民が自国の政治を自由に批判できるわけないでしょう!?
この映画のパンフの冒頭で、伊藤監督は「平壌から桂先さんに同行し、広島での(被爆者)手帳取得の一部始終と母親との再会を中心とした映画を考えた」とあります。しかし来日は実現せず。「日朝間に立ちはだかる壁は、予想以上に高かった」のです。
ナレーションは次の通りです。
「2007年11月、日本政府は「手帳」取得のための桂先さんの入国を受け入れると表明。ところが、付き添い人の日本への入国は認めなかった。隊長の良くない桂先さんが、一人で来日することは不可能であるため、この話は実現しなかった。厳しい日朝関係が、母と娘の願いを打ち砕いたのである」。・・・この辺の具体的説明はありません。<付き添い人>って、マズい言動をとらないよう見張る監視人のことじゃないの?という疑問は北朝鮮を知る人ならふつうに考えることでしょう。この親子のような事情があろうがなかろうが、日本に里帰りすることは認めてないし・・・。
また伊藤監督がこの映画を撮るにあたって、北朝鮮の対外文化連絡協会との間にはややこしいやりとりが当然あったことと思います。
しかし、それも表に出せるわけないしねー・・・。
たぶん第3者の立場からはいろんな感想・意見があると思います。北朝鮮政府が悪いのであって、日本政府を一方的に責めるのは間違い、とか・・・。
ヌルボは、どっちの政府が何割とはいいませんが、どちらも責任はあると思います。
娘を一人だけ北に送った親に対しても、判断ミスを責める向きもあるでしょうが、やはり国と国の間で翻弄されてきた、ということでしょう。
たとえば「日本政府への要求」という公式的(?)な言葉の底に、もっと大きな声で叫びたい、しかし叫ぶことのできない本音がたくさんあるように感じられた映画でした。
※昨年8月28日の記事でドキュメンタリー映画「ディア・ピョンヤン」を紹介しましたが、北朝鮮政府を批判した言辞はなくても、いろんなことを自然に撮り、語った結果、梁英姫監督は入国禁止になってしまってます。