7月2日の記事で<日韓を分ける24年差の歴史>について書きました。
近代以降の日本と朝鮮・韓国との歴史を比べると、日本とほぼ同じ内容の出来事が、朝鮮・韓国では20数年遅れで起こっている、ということです。
表にすると、次のようになります。
[日 本] [朝鮮・韓国] [年差]
1853年 ペリー来航 1875年 江華島事件 20年
1858年 日米修好通商条約 1882年 朝米修好通商条約 24年
1860年 新見正興らの使節団派米 1883年 政府使節団を派米 23年
1871年 断髪令 1895年 断髪令 24年
1872年 新橋~横浜間の鉄道開通 1900年 京仁鉄道 開業 28年
1882年 「新体詩抄」 1908年 崔南善が新体詩発表 26年
1885年 坪内逍遥「当世書生気質」 1917年 李光洙「無情」 32年
1964年 東京五輪 1988年 ソウル五輪 24年
1964年 海外旅行の自由化 1989年 海外旅行の自由化 25年
1960年代 学生運動の高揚 1980年代 学生運動の高揚 20年
1970年代~ 脱伝統・脱政治の都会文化 1990年代~ (同左) 20年
(村上春樹等)
現在の日本のGDP 現在の韓国のGDP 25年
7月2日の記事では、「この20数年の差はなぜ生じたのか?」という点にはふれませんでした。というより、よくわかりませんでした。
おそらくは、明治維新を生みだした江戸末期の時点での商業の発展のレベル、幕藩体制の危機に対する危機意識と体制変革への取り組み、外圧に対する危機意識、・・・・こういった点で李氏朝鮮では同時期の日本に遅れをとっていたのでは、と推察はしてみたのですが・・・。
その後、李氏朝鮮の歴史について若干調べてみたところ、この事件あたりがひとつのターニングポイントだったのかな、とおもわれるのが1801年の辛酉教難です。
ドラマ「イサン」を見た人はよく知っていると思いますが、18世紀後期の正祖(在位1776~1800)の時代は国王自身が学問好きで、実学派が登用され、商業が発達し、清や西洋の進んだ学問にも関心が向けられます。そして幅広い階層の文化が開花し、朝鮮のルネサンスともいわれるそうです。(いいことばっかりですね。「頭脳明晰で歴代国王たちの中で最も開明的で公明正大な君主であった」という評も見ました。)
また正祖は目立ち始めた天主教(カトリック)信者に対しても比較的柔軟に対応していました。
ところが1800年49歳で正祖が世を去り(毒殺?)、11歳の純宗が即位すると、正祖と対立していた貞純王后(血のつながらない祖母)が政局をリード。上記の辛酉教難というのは、清国人宜教師の周文謨をはじめ300余名を処刑したた天主教弾圧事件です。
姜在彦先生は「歴史物語 朝鮮半島」(朝日選書)で「彼(正祖)が推進してきた改革の大部分は無に帰した」と記しています。「以後80年間西洋研究は欠落したままだった」とも。その間日本では蘭学の研究が進み、(弾圧もあったが)幕府の蘭学(→洋学)研究施設も設けられます。日本の場合、西洋への窓口が新教国のオランダだったという点もラッキーだったですね。
※前野良沢・杉田玄白による「解体新書」は1774年刊行。
辛酉教難以降の朝鮮の政治は外戚の勢力が王権を圧倒する勢道政治の弊が長く続き、高宗(在位1863~1907)になっても「洋賊と和する主和論は禽獣の道」と説く儒者李恒老の指針を容れたりして、結局<反洋夷>→開国した日本も洋夷同様とみて批判=<倭洋一体論>へと続きます。
その延長線上に反日運動がある、ということは、少なくとも日清戦争頃までの反日運動には、日本で言うところの<攘夷運動>の要素があるということですね。
朝鮮は丙寅洋擾(1866年)でフランスを撃退し、辛未洋擾(1871年)でもアメリカを撤退させてしまいましたが、それも大局的にみてその後の朝鮮にプラスとなったといえるのかどうか・・・。
歴史の大きな流れが、辛酉教難のようなひとつの出来事だけで決定づけられるというものでもないでしょうが、大きく影響してしまったことは否定できないでしょう。
昨年の「ハンギョレ」の記事中にも「改革君主正祖の急逝は朝鮮を正常国家にしようとした最後の王の死でもあった」という一文がありました。
近代以降の日本と朝鮮・韓国との歴史を比べると、日本とほぼ同じ内容の出来事が、朝鮮・韓国では20数年遅れで起こっている、ということです。
表にすると、次のようになります。
[日 本] [朝鮮・韓国] [年差]
1853年 ペリー来航 1875年 江華島事件 20年
1858年 日米修好通商条約 1882年 朝米修好通商条約 24年
1860年 新見正興らの使節団派米 1883年 政府使節団を派米 23年
1871年 断髪令 1895年 断髪令 24年
1872年 新橋~横浜間の鉄道開通 1900年 京仁鉄道 開業 28年
1882年 「新体詩抄」 1908年 崔南善が新体詩発表 26年
1885年 坪内逍遥「当世書生気質」 1917年 李光洙「無情」 32年
1964年 東京五輪 1988年 ソウル五輪 24年
1964年 海外旅行の自由化 1989年 海外旅行の自由化 25年
1960年代 学生運動の高揚 1980年代 学生運動の高揚 20年
1970年代~ 脱伝統・脱政治の都会文化 1990年代~ (同左) 20年
(村上春樹等)
現在の日本のGDP 現在の韓国のGDP 25年
7月2日の記事では、「この20数年の差はなぜ生じたのか?」という点にはふれませんでした。というより、よくわかりませんでした。
おそらくは、明治維新を生みだした江戸末期の時点での商業の発展のレベル、幕藩体制の危機に対する危機意識と体制変革への取り組み、外圧に対する危機意識、・・・・こういった点で李氏朝鮮では同時期の日本に遅れをとっていたのでは、と推察はしてみたのですが・・・。
その後、李氏朝鮮の歴史について若干調べてみたところ、この事件あたりがひとつのターニングポイントだったのかな、とおもわれるのが1801年の辛酉教難です。
ドラマ「イサン」を見た人はよく知っていると思いますが、18世紀後期の正祖(在位1776~1800)の時代は国王自身が学問好きで、実学派が登用され、商業が発達し、清や西洋の進んだ学問にも関心が向けられます。そして幅広い階層の文化が開花し、朝鮮のルネサンスともいわれるそうです。(いいことばっかりですね。「頭脳明晰で歴代国王たちの中で最も開明的で公明正大な君主であった」という評も見ました。)
また正祖は目立ち始めた天主教(カトリック)信者に対しても比較的柔軟に対応していました。
ところが1800年49歳で正祖が世を去り(毒殺?)、11歳の純宗が即位すると、正祖と対立していた貞純王后(血のつながらない祖母)が政局をリード。上記の辛酉教難というのは、清国人宜教師の周文謨をはじめ300余名を処刑したた天主教弾圧事件です。
姜在彦先生は「歴史物語 朝鮮半島」(朝日選書)で「彼(正祖)が推進してきた改革の大部分は無に帰した」と記しています。「以後80年間西洋研究は欠落したままだった」とも。その間日本では蘭学の研究が進み、(弾圧もあったが)幕府の蘭学(→洋学)研究施設も設けられます。日本の場合、西洋への窓口が新教国のオランダだったという点もラッキーだったですね。
※前野良沢・杉田玄白による「解体新書」は1774年刊行。
辛酉教難以降の朝鮮の政治は外戚の勢力が王権を圧倒する勢道政治の弊が長く続き、高宗(在位1863~1907)になっても「洋賊と和する主和論は禽獣の道」と説く儒者李恒老の指針を容れたりして、結局<反洋夷>→開国した日本も洋夷同様とみて批判=<倭洋一体論>へと続きます。
その延長線上に反日運動がある、ということは、少なくとも日清戦争頃までの反日運動には、日本で言うところの<攘夷運動>の要素があるということですね。
朝鮮は丙寅洋擾(1866年)でフランスを撃退し、辛未洋擾(1871年)でもアメリカを撤退させてしまいましたが、それも大局的にみてその後の朝鮮にプラスとなったといえるのかどうか・・・。
歴史の大きな流れが、辛酉教難のようなひとつの出来事だけで決定づけられるというものでもないでしょうが、大きく影響してしまったことは否定できないでしょう。
昨年の「ハンギョレ」の記事中にも「改革君主正祖の急逝は朝鮮を正常国家にしようとした最後の王の死でもあった」という一文がありました。