→前の記事の続きです。
東学の歴史を叙述した林権澤監督の大作「開闢」を観て、私ヌルボが認識を新たにした点&考察等を列挙します。
(1) 東学の歴史は、甲午農民戦争の30年以上も前に始まりました。この映画で描かれる東学の歴史は、崔済愚が刑死した1864年前後から第2代教主となった海月・崔時亨(ヘウォル.チェ・シヒョン.해월・최시형)の刑死(1898年)まで、30年余りに及んでいます。(その後も歴史もいろいろあったのですが・・・。)
明治時代後期(1994年)の日清戦争の契機となった甲午農民戦争(東学党の乱)のはるか以前、日本史でいえば幕末(1860年)に東学が創始されたとは知りませんでした。
(2) 映画の主人公は第2代教主崔時亨です。全琫準ではなく、孫秉熙や崔済愚でもありません。彼の生地は崔済愚と同じ慶州。崔済愚の刑死後の長い間、政府による弾圧の中で、半島各地を転々としながらも布教活動を続け、教線を拡大していきました。
つまり、1890年代にあれほどまでに成長した東学の中心にいた人物が崔時亨だったということです。
(3) 「開闢」という言葉は、東学の中心思想の「後天開闢」(世直し)によるものです。
※1920年創刊の朝鮮の雑誌「開闢」は東学から改称した天道教の機関誌的雑誌。多くの作家・詩人が作品を発表し、文学史的にも重要。
※統一教会も「後天開闢」という用語を使っている、ということを今日知りました。
(4) 東学の特色は人間中心主義と平等思想。「人乃天」(人すなわち天)という言葉に示されるように人間はすべて神様だと考え、特に長い間さげすまれていた女、子供、庶子などを、天のように貴い存在として、完全な万民平等を唱えました。
※崔時亨は「子供を叩くなかれ、なぜなら子供は神様だからだ」と言いました。
また彼は、当時の身分制社会の中で、身分と関係なく向かい合って礼をすることを説きました。
(5) 上記のような教義は、もしかしたら日本の幕末~明治初期に創始されたいくつもの新興宗教と共通する点があるのかな、と思いました。(事実のほどは不明。)
(6) 東学の拡大の背景には、怪疾(괴질.ケジル)とよばれたコレラが蔓延する中、「東学の徒は怪疾に罹らない」という噂が広がったこともあるようです。映画では、崔時亨が「食べ物や手をよく洗って食べるように・・・」と説いたりしている場面がありますが・・・。
(7) 朝鮮の政府は、開国後天主教(カトリック)や改新教(プロテスタント)は認めるようになりましたが、東学は認めませんでした。それだけ脅威と感じていた、ということでしょうか? あるいは万民平等という教義の問題?
(8) 1893年忠清北道の報恩(ポウン)には2万人もの東学教徒があつまり、「輔国安民」「斥洋斥倭」の旗を掲げて汚職官吏の懲罰、生活難の打開等を叫んで気勢をあげました。
この時、指導者間で方針をめぐって対立が生じました。決起を促す強硬派に対し、崔時亨は請願のための集会であるとして自制を求めます。
その後全琫準等は白山で蜂起し、全州に進撃します。
崔時亨は「これ以上信徒を犬死させずに降伏しろ!」と叫びますが、状況に逆らえずついには決起を命じます。
しかし公州牛金峙(ウグムチ.우금치)の戦闘で、東学軍は日本軍の近代兵器の前に敗れ、壊滅状態になってしまいます。
(9) 以上は映画を観て知ったこと、考えたことですが、これはネットで関連記事を見た中から。
上記のような東学内での対立の存在、とくに教主崔時亨の基本姿勢についてはこれまで知りませんでした。
「宗教的なものから政治的なものへ変質または転換した」というこの時期の東学については歴史的評価の分かれるところのようです。
無抵抗主義を貫こうとした民族宗教として評価するか、「消極的」「敗北主義的」であったとみるか・・・。
「人物 朝鮮の歴史」(明石書店)は明らかに全琫準を高く評価し、崔時亨については、誠実さや人道主義等を評価する一方で、「実践行動でいつも躊躇したのは、彼の性格の弱さと歴史意識の不足を示すものである」と厳しく批判しています。
(10) これに関連するかどうか、<忘暮楼日記>というサイトに韓国紙「忠清日報」連載の「東学農民革命の現場を訪ねて」の翻訳がありました。その中の次のような記述に目がとまりました。
「東学革命史に対する歴史研究や評価は、日帝強占期と軍部独裁政権の影響下から長い歳月の間制限されてきた。なぜなら彼らは歴史が民衆闘争史的視角で把握されることを警戒したからだ。
このような環境で進められてきた東学革命史研究は、官記録に依存して、一般的で観念的な歴史研究にとどまってしまった。すなわち、東学革命史が全羅道の地域の全琫準を中心として起きた事件という制限されたカテゴリーに閉じ込められるようになったことである。このような制限で結局、忠清道の東学革命史が私達のすぐ近くに生きている歴史として理解されることを妨げる要素となった。」
・・・なになに? 全羅道、全琫準を中心とした限定的な東学のイメージは軍部独裁政権の姿勢と関係がある?
とすると、林権澤監督が1991年という時点で、崔時亨を中心に、決起以前の長い弾圧と布教の時代、そして教義自体に重点を置いた作品を作ったことも軍政の終わりと関係があるのですか?
調べるほどに生まれる疑問の数々ですね。毎度のことですが・・・。
★長々と書きましたが、ウィキで東学の項目を見ると、なかなか要領よくまとめられていると思いました。
★この記事を書いている途中、一昨年(2008年8月)に全州に行った時に、東学革命記念館に行ったことを思い出しました。夕方の閉館間際で、ただ写真を数枚撮ってきただけですが、今改めて見てみると、館内に置かれていた座像が崔時亨のものでした。
今度全州に行ったら、ちゃんと時間をとって見学しようと思います。他にも、東学関係の見学ポイントはいろいろあるようです。
【写真を撮った時には「全琫準じゃないのか」くらいにしか思わなかったのですが・・・。】
【今プレートを確認すると崔時亨でした。】
【この記念館は、「東学革命100周年」を期して1995年に建てられたとのことです。】
東学の歴史を叙述した林権澤監督の大作「開闢」を観て、私ヌルボが認識を新たにした点&考察等を列挙します。
(1) 東学の歴史は、甲午農民戦争の30年以上も前に始まりました。この映画で描かれる東学の歴史は、崔済愚が刑死した1864年前後から第2代教主となった海月・崔時亨(ヘウォル.チェ・シヒョン.해월・최시형)の刑死(1898年)まで、30年余りに及んでいます。(その後も歴史もいろいろあったのですが・・・。)
明治時代後期(1994年)の日清戦争の契機となった甲午農民戦争(東学党の乱)のはるか以前、日本史でいえば幕末(1860年)に東学が創始されたとは知りませんでした。
(2) 映画の主人公は第2代教主崔時亨です。全琫準ではなく、孫秉熙や崔済愚でもありません。彼の生地は崔済愚と同じ慶州。崔済愚の刑死後の長い間、政府による弾圧の中で、半島各地を転々としながらも布教活動を続け、教線を拡大していきました。
つまり、1890年代にあれほどまでに成長した東学の中心にいた人物が崔時亨だったということです。
(3) 「開闢」という言葉は、東学の中心思想の「後天開闢」(世直し)によるものです。
※1920年創刊の朝鮮の雑誌「開闢」は東学から改称した天道教の機関誌的雑誌。多くの作家・詩人が作品を発表し、文学史的にも重要。
※統一教会も「後天開闢」という用語を使っている、ということを今日知りました。
(4) 東学の特色は人間中心主義と平等思想。「人乃天」(人すなわち天)という言葉に示されるように人間はすべて神様だと考え、特に長い間さげすまれていた女、子供、庶子などを、天のように貴い存在として、完全な万民平等を唱えました。
※崔時亨は「子供を叩くなかれ、なぜなら子供は神様だからだ」と言いました。
また彼は、当時の身分制社会の中で、身分と関係なく向かい合って礼をすることを説きました。
(5) 上記のような教義は、もしかしたら日本の幕末~明治初期に創始されたいくつもの新興宗教と共通する点があるのかな、と思いました。(事実のほどは不明。)
(6) 東学の拡大の背景には、怪疾(괴질.ケジル)とよばれたコレラが蔓延する中、「東学の徒は怪疾に罹らない」という噂が広がったこともあるようです。映画では、崔時亨が「食べ物や手をよく洗って食べるように・・・」と説いたりしている場面がありますが・・・。
(7) 朝鮮の政府は、開国後天主教(カトリック)や改新教(プロテスタント)は認めるようになりましたが、東学は認めませんでした。それだけ脅威と感じていた、ということでしょうか? あるいは万民平等という教義の問題?
(8) 1893年忠清北道の報恩(ポウン)には2万人もの東学教徒があつまり、「輔国安民」「斥洋斥倭」の旗を掲げて汚職官吏の懲罰、生活難の打開等を叫んで気勢をあげました。
この時、指導者間で方針をめぐって対立が生じました。決起を促す強硬派に対し、崔時亨は請願のための集会であるとして自制を求めます。
その後全琫準等は白山で蜂起し、全州に進撃します。
崔時亨は「これ以上信徒を犬死させずに降伏しろ!」と叫びますが、状況に逆らえずついには決起を命じます。
しかし公州牛金峙(ウグムチ.우금치)の戦闘で、東学軍は日本軍の近代兵器の前に敗れ、壊滅状態になってしまいます。
(9) 以上は映画を観て知ったこと、考えたことですが、これはネットで関連記事を見た中から。
上記のような東学内での対立の存在、とくに教主崔時亨の基本姿勢についてはこれまで知りませんでした。
「宗教的なものから政治的なものへ変質または転換した」というこの時期の東学については歴史的評価の分かれるところのようです。
無抵抗主義を貫こうとした民族宗教として評価するか、「消極的」「敗北主義的」であったとみるか・・・。
「人物 朝鮮の歴史」(明石書店)は明らかに全琫準を高く評価し、崔時亨については、誠実さや人道主義等を評価する一方で、「実践行動でいつも躊躇したのは、彼の性格の弱さと歴史意識の不足を示すものである」と厳しく批判しています。
(10) これに関連するかどうか、<忘暮楼日記>というサイトに韓国紙「忠清日報」連載の「東学農民革命の現場を訪ねて」の翻訳がありました。その中の次のような記述に目がとまりました。
「東学革命史に対する歴史研究や評価は、日帝強占期と軍部独裁政権の影響下から長い歳月の間制限されてきた。なぜなら彼らは歴史が民衆闘争史的視角で把握されることを警戒したからだ。
このような環境で進められてきた東学革命史研究は、官記録に依存して、一般的で観念的な歴史研究にとどまってしまった。すなわち、東学革命史が全羅道の地域の全琫準を中心として起きた事件という制限されたカテゴリーに閉じ込められるようになったことである。このような制限で結局、忠清道の東学革命史が私達のすぐ近くに生きている歴史として理解されることを妨げる要素となった。」
・・・なになに? 全羅道、全琫準を中心とした限定的な東学のイメージは軍部独裁政権の姿勢と関係がある?
とすると、林権澤監督が1991年という時点で、崔時亨を中心に、決起以前の長い弾圧と布教の時代、そして教義自体に重点を置いた作品を作ったことも軍政の終わりと関係があるのですか?
調べるほどに生まれる疑問の数々ですね。毎度のことですが・・・。
★長々と書きましたが、ウィキで東学の項目を見ると、なかなか要領よくまとめられていると思いました。
★この記事を書いている途中、一昨年(2008年8月)に全州に行った時に、東学革命記念館に行ったことを思い出しました。夕方の閉館間際で、ただ写真を数枚撮ってきただけですが、今改めて見てみると、館内に置かれていた座像が崔時亨のものでした。
今度全州に行ったら、ちゃんと時間をとって見学しようと思います。他にも、東学関係の見学ポイントはいろいろあるようです。
【写真を撮った時には「全琫準じゃないのか」くらいにしか思わなかったのですが・・・。】
【今プレートを確認すると崔時亨でした。】
【この記念館は、「東学革命100周年」を期して1995年に建てられたとのことです。】