「毎日新聞」は、<忘れ得ぬ人々:日韓併合100年>と題した企画記事を2月12日から始め、不定期に掲載してきました。
そしてこの8月6~8日はその第4部として、韓国南部・慶尚南道の陜川(ハプチョン)にある陜川原爆被害者福祉会館で暮らす韓国人被爆者を取材してします。
私ヌルボ、陜川については、以前観た「学生府君神位」の舞台ということくらいしか知りませんでした。
今少し調べてみると、1930~60年代の建物が並ぶ陜川映像テーマパークというのがあって、いろんな映画・ドラマの撮影場所になってるようです。<京城蒼月倶楽部>のtorakoさんは2007年5月に行ってきたということで<陜川映像テーマパーク紀行>を記しています。
全斗煥元大統領も陜川郡出身だそうです。
あ、それから八万大蔵経の海印寺も陜川郡にあるんですねー。
※陜川郡について、さらに詳しくは →陜川郡のHP。 →同日本語
さて、この陜川に韓国人被爆者約100人が暮らす陜川原爆被害者福祉会館が建てられたのは、そのサイトによれば1996年。1990年に日本政府が在韓原爆被害者福祉事業として40億円を支援することで日韓両国政府が合意したのが起点となったようです。
<半島浪人レポ>というサイトによれば、「韓国原爆被害者協会に登録している人の約4分の1は、陜川支部の会員」で、「陜川以外の土地に帰国した人も含めると、在韓被爆者の半分から3分の2が陜川出身といわれている」とのこと。陜川が<韓国のヒロシマ>とよばれるのもうなずけます。
同サイトには、さらに「広島は軍都で、肉体労働ができる多くの職場があった。戦地へ行った日本人の男たちの代わりに、朝鮮人たちが工場で使われた」、「「広島で成功した同郷者や親戚を頼って広島へ向かう人々が自然と増えたのだろう」、「当時の広島では、道端で朝鮮人を見かけても、何道出身ですか?と聞く必要はなく、(陜川の)何面出身ですか?と聞けばいいほど、陜川出身者であふれていたという」との記述もあります。
さて、例によって長~い前書きでした。以下本論。
<忘れ得ぬ人々:日韓併合100年・第4部>の本文は以下のリンクをご覧ください。
(上) ヒロシマで生き別れ、韓国の施設で再会
(中) 原爆から5年後、朝鮮戦争
(下) 肉親失い一人、手紙で交流
(上)は、この施設で昨年、廃墟の広島で行き別れた2人の女性が偶然64年ぶりに再開を果たしたという内容です。
当時女学生だった厳粉連(オム・プンヨン)さん(82)は8月6日爆心地から約1.7キロの学徒動員先で被爆、避難途中に羅戌連(ナ・ムヨン)さん(72)と出会ったがそれきりになった。それが昨年入居した戌連さんに「かすかな面影を感じ」て声をかけ、いろいろ話をして間違いないことを確認しあったということです。(71歳の女性の顔から、8歳の頃の面影を感じるとは!)
しかし、「被爆の証人がおらず、日本政府の被爆者健康手帳を取得できなかった」戌連さんが、粉連さんを証人としてようやく手帳交付の申請をしたそうです。1965年の日韓国交正常化以後「広島から調査団が来て・・・(粉連さんの)やけどの原因となった爆弾は原爆だと知った」とあります。それでも遅いのに、今手帳交付の申請とは・・・。
(中)の記事での証言者鄭正五(チョン・チョンオ)さん(83)は、戦後密航船で帰国しソウルで働いていたが、朝鮮戦争では南進してきた北朝鮮軍に迫られて入隊、その後韓国軍の捕虜となり収容所生活、そこから解放されたら今度は韓国軍に徴兵され、と時代に翻弄され続けた人です。
(下)で紹介されている被爆者金壬先(キム・イムソン)さん(87)は、原爆で父母や1歳の娘、弟一家など身内のほとんどを原爆で失います。夫も身体を病んだまま被爆17年後に世を去って、「考えたら、悲しいばっかし。・・・」。
そんな壬先さんが「この手紙だけが、本当に楽しみですよ」と取り出した封書の主は磯部フミエさん(82)という人で、「十数年前、治療などでたびたび訪れた広島で知り合った。5年ほど前から、お互いに脚が悪くなり、手紙と電話だけのやり取りを続けている」とのことです。
担当の樋口岳大記者は次のように記事を結んでいます。
「最愛の肉親を失った広島から届く手紙に生きる希望を見いだす壬先さん。1910年の日韓併合からの100年間に積み重ねられた歴史は、怒りや悲しみといった単純な言葉で表現できない交流を生んだ。」
国と国の関係等よりも、個人に焦点をあてた企画方針が十分に発揮されている良い記事だと思います。(被爆者に対する対応の致命的ともいえる遅れには嘆息するばかり・・・ではいけないのでしょうが・・・)
なお、被爆者の死亡が増えている中で、被爆2世関連のニュースがいくつかTVで流されていました。もちろん韓国でも同様です。
<OhmyNews>のサイト中に、今年3月1日、被爆者2世のための陜川平和の家が設立されたという記事がありました。要約は以下の通りです。
陜川に住む被爆者2・3世の疾病率はとくに高いという調査結果があるにもかかわらず、国内唯一の福祉施設である陜川原爆被害者福祉会館さえも1世だけの療養施設で、父母の介護なしには自活不可能な視覚障碍者や知的障碍者もいる2世のための施設は今までどこにもなかったとのことです。そこで2世たち自身が組織を作り、実態調査と、検診医療生計支援の拡大を要請する活動を続けているそうです。そして国際救護団体の支援も得て、この陜川平和の家が開かれたということです。
「毎日新聞」の記事と、それに関連していろんなことを初めて知りました。そして、40年以上前に国交が成立した韓国との間でさえもまだまだ課題が多く残されていると思いました。
2つ前の記事で北朝鮮に住む被爆者について記しましたが、彼らの場合、韓国に比べるとほとんど放置に近い状態といえるかもしれません。
そしてこの8月6~8日はその第4部として、韓国南部・慶尚南道の陜川(ハプチョン)にある陜川原爆被害者福祉会館で暮らす韓国人被爆者を取材してします。
私ヌルボ、陜川については、以前観た「学生府君神位」の舞台ということくらいしか知りませんでした。
今少し調べてみると、1930~60年代の建物が並ぶ陜川映像テーマパークというのがあって、いろんな映画・ドラマの撮影場所になってるようです。<京城蒼月倶楽部>のtorakoさんは2007年5月に行ってきたということで<陜川映像テーマパーク紀行>を記しています。
全斗煥元大統領も陜川郡出身だそうです。
あ、それから八万大蔵経の海印寺も陜川郡にあるんですねー。
※陜川郡について、さらに詳しくは →陜川郡のHP。 →同日本語
さて、この陜川に韓国人被爆者約100人が暮らす陜川原爆被害者福祉会館が建てられたのは、そのサイトによれば1996年。1990年に日本政府が在韓原爆被害者福祉事業として40億円を支援することで日韓両国政府が合意したのが起点となったようです。
<半島浪人レポ>というサイトによれば、「韓国原爆被害者協会に登録している人の約4分の1は、陜川支部の会員」で、「陜川以外の土地に帰国した人も含めると、在韓被爆者の半分から3分の2が陜川出身といわれている」とのこと。陜川が<韓国のヒロシマ>とよばれるのもうなずけます。
同サイトには、さらに「広島は軍都で、肉体労働ができる多くの職場があった。戦地へ行った日本人の男たちの代わりに、朝鮮人たちが工場で使われた」、「「広島で成功した同郷者や親戚を頼って広島へ向かう人々が自然と増えたのだろう」、「当時の広島では、道端で朝鮮人を見かけても、何道出身ですか?と聞く必要はなく、(陜川の)何面出身ですか?と聞けばいいほど、陜川出身者であふれていたという」との記述もあります。
さて、例によって長~い前書きでした。以下本論。
<忘れ得ぬ人々:日韓併合100年・第4部>の本文は以下のリンクをご覧ください。
(上) ヒロシマで生き別れ、韓国の施設で再会
(中) 原爆から5年後、朝鮮戦争
(下) 肉親失い一人、手紙で交流
(上)は、この施設で昨年、廃墟の広島で行き別れた2人の女性が偶然64年ぶりに再開を果たしたという内容です。
当時女学生だった厳粉連(オム・プンヨン)さん(82)は8月6日爆心地から約1.7キロの学徒動員先で被爆、避難途中に羅戌連(ナ・ムヨン)さん(72)と出会ったがそれきりになった。それが昨年入居した戌連さんに「かすかな面影を感じ」て声をかけ、いろいろ話をして間違いないことを確認しあったということです。(71歳の女性の顔から、8歳の頃の面影を感じるとは!)
しかし、「被爆の証人がおらず、日本政府の被爆者健康手帳を取得できなかった」戌連さんが、粉連さんを証人としてようやく手帳交付の申請をしたそうです。1965年の日韓国交正常化以後「広島から調査団が来て・・・(粉連さんの)やけどの原因となった爆弾は原爆だと知った」とあります。それでも遅いのに、今手帳交付の申請とは・・・。
(中)の記事での証言者鄭正五(チョン・チョンオ)さん(83)は、戦後密航船で帰国しソウルで働いていたが、朝鮮戦争では南進してきた北朝鮮軍に迫られて入隊、その後韓国軍の捕虜となり収容所生活、そこから解放されたら今度は韓国軍に徴兵され、と時代に翻弄され続けた人です。
(下)で紹介されている被爆者金壬先(キム・イムソン)さん(87)は、原爆で父母や1歳の娘、弟一家など身内のほとんどを原爆で失います。夫も身体を病んだまま被爆17年後に世を去って、「考えたら、悲しいばっかし。・・・」。
そんな壬先さんが「この手紙だけが、本当に楽しみですよ」と取り出した封書の主は磯部フミエさん(82)という人で、「十数年前、治療などでたびたび訪れた広島で知り合った。5年ほど前から、お互いに脚が悪くなり、手紙と電話だけのやり取りを続けている」とのことです。
担当の樋口岳大記者は次のように記事を結んでいます。
「最愛の肉親を失った広島から届く手紙に生きる希望を見いだす壬先さん。1910年の日韓併合からの100年間に積み重ねられた歴史は、怒りや悲しみといった単純な言葉で表現できない交流を生んだ。」
国と国の関係等よりも、個人に焦点をあてた企画方針が十分に発揮されている良い記事だと思います。(被爆者に対する対応の致命的ともいえる遅れには嘆息するばかり・・・ではいけないのでしょうが・・・)
なお、被爆者の死亡が増えている中で、被爆2世関連のニュースがいくつかTVで流されていました。もちろん韓国でも同様です。
<OhmyNews>のサイト中に、今年3月1日、被爆者2世のための陜川平和の家が設立されたという記事がありました。要約は以下の通りです。
陜川に住む被爆者2・3世の疾病率はとくに高いという調査結果があるにもかかわらず、国内唯一の福祉施設である陜川原爆被害者福祉会館さえも1世だけの療養施設で、父母の介護なしには自活不可能な視覚障碍者や知的障碍者もいる2世のための施設は今までどこにもなかったとのことです。そこで2世たち自身が組織を作り、実態調査と、検診医療生計支援の拡大を要請する活動を続けているそうです。そして国際救護団体の支援も得て、この陜川平和の家が開かれたということです。
「毎日新聞」の記事と、それに関連していろんなことを初めて知りました。そして、40年以上前に国交が成立した韓国との間でさえもまだまだ課題が多く残されていると思いました。
2つ前の記事で北朝鮮に住む被爆者について記しましたが、彼らの場合、韓国に比べるとほとんど放置に近い状態といえるかもしれません。