町田市・薬師池公園でのまだ元気だったころのシェラとむぎ(2010年1月10日)
☆家に帰る何が喜びだったのかを知る
神田でのミーティングを終えて帰路につくとき、定刻ながらいつもより早い時間に帰れると心が弾んだ。こんなとき、いつも真っ先に目に浮かぶのが、大喜びで迎えてくれるシェラの顔である。むぎが元気だったころはそこにむぎの顔もあった。
シェラは17年間、いつもそうだった。病を得て、身体の自由がきかなくってからも先週の金曜日まで動けないなりに笑顔で待っていてくれた。
だが、もうシェラはいない。
そう思った瞬間、足から力が抜けて重くなった。ルイが待っていて、やっぱり喜んでくれるとはいえ、まだシェラやむぎの足下にも及ばない。存在感が違うのだ。
シェラが消えてしまったいまになって、これまでぼくは毎日何を楽しみにして家路をたどってきたのかようやく気づいた。
午後5時30分過ぎ、神保町の交差点から靖国通りを、うつむくまいと顔を上げてはいるものの憂愁を隠せないで九段方面いく老いた男がいた。きっと気づいた人はだれもいないだろう。
途中、20年来の親友とすれ違ったが、彼さえもぼくに気づいてくれなかった。彼は去年、愛妻を癌で亡くしていた。颯爽と去りゆく彼に今日のぼくは恥ずかしくて声をかけることができなかった。
☆あの情景を決して忘れない
家で迎えてくれるシェラの笑顔にはもう会えないが、彼女のいない寂しさを感じたとき、必ず想い出していくであろう光景がある。それは、シェラの永眠の瞬間である。
身体にゆっくりと麻酔薬が注入され、やがてスーッと眠りについた瞬間のシェラの顔である。その顔を包んでいた家人の手がそっとシェラのまぶたを閉じてやった。
ほどなく、聴診器で鼓動を聞いていた院長先生が「いま亡くなりました」と静かに教えてくれた。ぼくたちに悲しみは微塵もなかった。穏やかな、安息に満ちたシェラの顔が悲しみを忘れさせてくれた。痛みや苦しみから解放された静謐がシェラに満ちていた。
「ありがとうございました」
ぼくたちは心からの謝辞を院長先生へ述べた。
奥の部屋であとの処置をしてもらうために再びシェラを預けて待合室に戻った。ぼくは家族から離れ、外へ出た。彼らから見えない位置でぼくはつかの間、噎(むせ)んでいた。
もうシェラがいないという喪失感がこみ上げてきたからだけではない。むろん、それもあったが、最期を迎えたシェラの安らかな姿に「よかった!」との切実な想いが胸に迫っての嗚咽だった。
まともに歩けない足でシェラはルイの脇まできていた(2月4日)
☆留守番のシェラはどこへ……?
前々日の土曜日の夜、ぼくと家人はシェラとルイを置いてしばし留守にした。家人の店へどうしても取りにいかなくてはならない品物があったからである。ほんの30分あまりのつもりで、「すぐに帰るからね」と何度も言い聞かせて玄関前の部屋で寝ているシェラを置いて出かけた。
もうほとんど動けないシェラだから、かえって心配ないだろうと思っていた。うしろ足が機能せず、立っているのがやっとだった。とりわけ左足は足先が萎えてちゃんと歩けない。歩こうとしても、足先が反り返ってしまうのである。
30分あまりのつもりが、結局、小一時間経ってぼくたちは帰宅した。玄関のドアを開けると、目に真っ先に飛び込んでくるはずのシェラがいない。シェラのベッドが空になっていた。ぼくはシェラの名を呼びながらあわてて家に飛び込んだ。北側の部屋、寝室、洗面所、そして、シェラの水が置いてあるキッチン……。いるだろうと想像した場所のどこにもいない。
リビングを見回して、ぼくは意外な光景を目にして息を呑んだ。なんとルイのケージの横にシェラがうずくまっているではないか。ぼくは目を疑った。
「どうしたんだ、シェラ。……おまえ、よくここまで歩いてこれたな」
シェラもルイも何事もなかっかかのようにぼくの顔を見上げていた。
☆ルイ、ぼくはそんなに悪いお父さんか?
いったいなぜ……?
身体に不安のあるシェラだけに、留守番が怖くなってルイのそばにやってきたのか、それともこんな身体になってもなおルイを守ろうとしているのか? 安易に断定はできないが、シェラとの長いつきあいの中でのぼくの解釈は、こんな身体になってしまったからなおさらルイの近くにきてルイを守ろうとしたシェラの意志を濃密に感じていた。
「シェラ、もういいんだよ。自分のことだけ考えていれば……」
ぼくはシェラに語りかけた。
また稿をあらためて記すつもりだが、このときの情景が、シェラとの最後の夜に見せたルイのリアクションの激しさに結びついてしまう。
苦しみ、悶え、ぼくの腕の中で「お父さん、痛いよぉ。助けて……」といわんばかりに訴えるシェラの悲痛な泣き声のたびに、リビングのケージの中にいるルイが火がついたように吠えていた。
わが家の子となって以来の短い時間ではあったが、ルイはシェラを追い、やがてシェラはルイを仲間として受け容れた。間近に迫ったシェラとの永別の意味の深さをよもやルイが感じ取っているとは思えなかったが、異常を感知していたのはたしかだった。
シェラがいなくなってからのルイは、ぼくに対してなんとも冷ややかな態度である。今日も早めに帰宅したぼくをルイは冷めた目で見つめるだけで喜んで迎えてはくれなかった。