愛する犬と暮らす

この子たちに出逢えてよかった。

「安楽死」という思いもよらなかった決断をするまで

2012-02-09 23:28:16 | 残されて

2010年11月12日の山中湖にて

☆こんないい子なのだから
 苦しむようなら「安楽死」という方法もある――癌の発見から腎不全に陥り、シェラの命も風前の灯火と覚悟したぼくたちに、お世話になっている動物病院の先生は、今後の見通しの最後に安楽死の選択もあると静かに、しかし、凛然と教えてくれた。去年12月18日のことである。

 お話はうかがったが、ぼくはシェラの最期は自然死しか頭になかった。どんなに手がかかろうと、最期のときまで面倒をみてやるつもりだった。病状が進むなかで、「決して見捨てないからね」と何度も声にだしてシェラに約束した。

 ぼくたちはこれまでわが家の子として迎え、ともに生活した何匹かの動物たちの死に立ち会った。巻き毛のモルモット、ハムスター、そして、三匹の猫たち、犬はむぎといったかわいい子たちの旅立ちを見守ってきた。そのたびに悲しく、辛い想いを経験したが、交通事故で不慮の死をとげた若いオス猫のチョビ太をのぞいてほかの子たちはすべて天寿をまっとうし、静かに去っていった。
 
 わが家のみならず、身近の知りあいの家のわんこやにゃんこたちも、「最期は苦しまずに眠るように亡くなりました」という話ばかりを聞いてきた。だからシェラが苦しむ姿を想像することができなかった。
 こんないい子なんだから、きっと、眠るように逝けるにちがいないと信じて疑わなかった。実際、あの夜までは。


4日(土)のシェラ

☆家人がシェラの安楽死を決意した日
 先月31日の昼間に下痢で苦しんだシェラをぼくは自分の目で見ていない。知っているのは家人だけである。幸いせがれがクルマに乗せてシェラと家人を病院へ連れていってくれたので、ぼくが帰ったころにはシェラもすっかり落ち着いていた。
 
 だが、この日のことを家人はいまも平静に語れないでいる。
 お腹が痛いと苦悶し、不自由な足にもかかわらずみずからクレートに飛び込み、家人が押して外へ急ぐあいだも断末魔のような悲鳴をあげ、まわりの人びとが何が起こったのかと驚くほどの修羅場を演じている。しかも、短いあいだで都合4回である。
 このとき、家人はシェラの安楽死を決意したという。むろん、このまま苦しみつづけるならばという前提だったが。

 だが、このときを例外として、ぼくと家人が留守にして、シェラがルイのケージの横へ移動していた夜までのシェラからは痛みや苦痛を訴える様子が希薄だった。すでに、歩けない辛さや、ご飯が食べられない、水が飲めなくなっているという症状ははじまっていたので、いまにして思えば、シェラががまんしていただけだったのかもしれない。こんなとき、犬は、さとられまいとして痛みを隠そうとするという。

 すでに口からのにおいはかなりひどくなっていた。きついにおいを放つオシッコの中に塩酸を垂らしたような、尿毒症という呼び名がぴったりの悪臭である。口の周りの汚れを拭いてやると、それまでの黄色い汚れに変わって血の赤い色が布ににじんだ。シェラの身体が腎不全から多臓器不全へと移っている証に思えた。
 
 まだ、差し迫った危篤状態には見えないものの、むろん、去年7月のむぎのときのように、突然、絶命してしまうことだってあるだろうし、それも仕方ないと臍(ほぞ)をかためていた。


これが最後と覚悟の散歩(5日朝)

☆死に目にあえなくてもしかたない
 病院で予告されていた痙攣がシェラを見舞ったのは、シェラがルイのケージの横にいったあとだった。シェラがいたいところに置いてやろうと思い、ケージの脇に置き去りにしてぼくは自分の部屋へ入っていた。まもなく、家人の悲鳴でぼくは飛び上がった。

 リビングへ戻るとシェラが痙攣し、苦しそうに嘔吐している。家人はシェラを抱き上げ、ぼくを突き飛ばす勢いで廊下をシェラのベッドまで運んでいった。まさに火事場のクソ力である。

 痙攣はほどなくおさまったが、明らかに家人は動揺していた。恐れていた発作がとうとう起こったのである。それは、末期に起るかもしれないが、起こらない子もいると聞いていた症状である。音に敏感に反応して怯えたように身体をふるわせる子もいるという。
 いずれにしても、くるべきときがきてしまった事実からをぼくたちは目を背けることができなくなった。つまり、死期が近づいたのである。

 午前2時近くなってせがれがやってきた。たぶん、家人がケータイで呼んだのだろう。ぼくはふたりにいった。
 「もう、覚悟しているのだから落ち着こう。みんなが寝ている間にシェラが息を引き取っていても、それはそれで仕方ない。死に目に会えないとか、最期を看取ってやれなかったなんてたいした問題じゃない」

 ふたりともぼくに同意し、うなずいていたが、結局、朝までシェラを見守っていたらしい。シェラは何度か痙攣の発作を起こしては嘔吐し、むろん、家人とせがれが始末し、シェラを励ました。シェラはというと、発作のあとに落ち着き、かと思うと呼吸が細くなって苦しげに身体をふるわせたという。


最後の散歩はまずお気に入りの場所へ

☆これが最後の散歩になるだろう
 それにもかかわらず、日曜日(5日)の朝のシェラは、ぼくが起きていくと散歩へいきたいとばかりよろけながら玄関へ向かった。本当にいきたいのか、それとも習慣性の惰性ゆえの行動なのか判然としないまま、ぼくは急いでシェラを連れ出した。きっと、これが最期の散歩になるだろうと予感しつつ。
 何よりも、この朝、生きて目の前にいてくれるだけでぼくはうれしかった。
 「シェラ、もうちょっと、もうちょっとだけがんばろうな……」
 カートを押しながら、ぼくは心の中でシェラに語りかけた。

 はたしてシェラが歩けるかどうかわからないまま外へ出たぼくは、まずシェラがなじんだ場所までカートで運んで下ろしてみた。二歩、三歩とけんめいに歩を進めるシェラを見て、これが最後の散歩になるだろうとの予感は次第に確信に変わった。
 だが、ぼくのポケットのカメラには、この日にかぎってSDカードが入っていなかった。最後の散歩の姿をぼくはケータイのカメラに収めた。

 家に戻ろうとして、もう一か所、大切な場所を忘れていることに気づいた。それは去年までシェラとむぎが毎朝通った公園である。あそこの芝生を歩かせてやりたい。不意にそれが今朝のシェラの希望のような気がした。
 週末まで生き抜いてくれたシェラに「ありがとう」と感謝しつつ、いまだむぎのビジョンも色濃い公園へ向かった。


本当にいきたかったのはむぎと通ったこの公園だのかもしれない

☆やっぱりもうなすすべはないらしい
 シェラの散歩を終え、つづいてルイの長めの散歩から戻ったぼくに家人がシェラを病院へ連れていきたいと告げた。
 「連れていっても、もはや、なすすべががないだろうから先生たちだって困るだろう」というぼくに、「もう、吐き気止めの薬がないの。それだけでももらいたいから」と家人は強引だった。

 連れていく前に病院へ電話をした家人は大きく失望することになる。吐き気止めの薬はもうむだであり、最期を迎えるにあたってこれからシェラがどんな苦痛に直面する可能性があるかをていねいに教わったという。安楽死についても、むろん、最終決断は飼い主のわれわれにゆだねられているが、再度説明をうけたそうである。

 かくして日曜日から月曜日にいたる長く、ひたすら重い一日がはじまった。