今回は、「色絵 鯉文 小皿」の紹介です。
表面
側面
裏面
生 産 地: 肥前 鍋島藩窯
製作年代: 江戸時末期~明治初
サ イ ズ ; 口径;15.5cm 高さ;3.7cm 底径;8.1cm
なお、この「色絵 鯉文 小皿」につきましては、かつての拙ホームページの「古伊万里への誘い」の中で既に紹介しているところです。
つきましては、その際の紹介文を次に再度掲載することをもちまして、この「色絵 鯉文 小皿」の紹介とさせていただきます。
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<古伊万里への誘い>
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*古伊万里ギャラリー172 鍋島様式色絵鯉文小皿 (平成24年7月1日登載)
鯉は、生命力の強い魚で、海から離れた地域では、古くから貴重な動物性蛋源として日常的に利用され、また、祝いの席などでも利用されてきている。
中国には、鯉が滝を登りきると龍になるという「竜門」の言い伝えがあり、その「竜門」の言い伝えから、人の立身出世の関門のことを「登竜門」と言うようになったとのこと。
かように、鯉は、中国では古来より尊ばれてきたわけであるが、その概念が日本にも伝わり、江戸時代には、武家ではその子弟の立身出世を願うために、庭先に、端午の節句には、鯉を模した「こいのぼり」を飾ったという。 また、鯉は、立身出世のシンボルとして、武士の元服の際の祝いの膳にも供されたとか。
このように、鯉は、中国文化の影響もあってか、昔、中国から移入されたと言われたこともあったが、今では、国内で鯉の化石が発見されたこともあって、やはり、古来より日本にも自然に分布していたとされるようになっている。
余談ではあるが、上記のように、鯉は滝を登るとよく言われるが、実際はジャンプが下手で、滝を登ることはないそうである。
それはさておき、鯉は、中国文化圏では、立身出世を表す吉祥文としてよく登場するのではあるが、それは、普通、鯉の滝登り図とか荒磯文として表現されて登場してくることが多い。
しかし、この小皿のように、滝や波濤が描かれず、鯉単体だけで登場するのは珍しい。
そこで、この小皿を皿立てに飾る時は、どの様な向きで飾ったらいいのか、また食器として使用する時にはどちら向きにしたらいいのかについて悩むのである。
鯉の滝登り図の場合は、滝が描いてあるので、滝を登っているように飾ったり使用すればいいわけだし、荒磯文の場合は、波濤から頭を出しているような感じで飾ったり使用すればいいわけだが、この小皿のように、滝も波濤も描いてないとなると、はて、どうしたものかなと、悩んでしまうわけである。
現代なら、普通に横向きに泳いでいる感じで飾ったりするのだろうか?
この小皿が作られたと思われる、幕末~明治初の頃の感覚で飾ったりするとすれば、やはり、古来よりの吉祥文ということで、頭を上にすべきだろうか?
皆さんは、どのようにされるのだろうか?
ところで、この小皿、私は、一応、「後期鍋島」とみたい。ただ、作られた時代は、江戸時代もギリギリ終りの頃、場合によっては明治に入ってからではないかと思っている。
幕末~明治初 口径:15.5cm 高台径:8.1cm
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*古伊万里随想43 「後期鍋島」の終焉 (平成24年7月1日登載) (平成24年6月筆)
以前は、「鍋島」というと、「盛期鍋島」のみを「鍋島」と言っていたので、非常に数も少なく、正に「希少品」であった。
しかし、最近では研究が進み、「後期鍋島」というジャンルが認められるようになって、一気に「鍋島」に属する器物が増加した。もっとも、それは、あくまでも、「後期鍋島」に属するものが増加しただけであって、「盛期鍋島」に属する器物が増加したものではなく、今でも、「盛期鍋島」に属する器物が「希少品」であることに変わりはない。
以前ならば、明治になって作られたものと考えられてきたものや、最近作られたものと考えられてきたものの一部が「後期鍋島」に分類されるようになったからである。果ては、これまでは平戸焼といわれてきたものの一部までが「後期鍋島」に移籍されて分類されるようになったからである。
ただ、そうなると、あまりにも、「後期鍋島」と言われるようになった器物が多くなり、果して、それらの全てが「後期鍋島」と言えるのかどうかの疑問も生じてくるし、また、「後期鍋島」というものは何時頃までに作られたものまでを言うのかの疑問も生じてくる。
そこで、その件について、ちょっと、文献で調べてみることにした。
参考とした文献は、「肥前陶磁史考」(中島浩氣著 青潮社 昭和11年9月1日発行)(昭和60年8月1日復刻発行)である。
ここで、最近の考古学の技法を取り入れた発掘を中心とした最新の研究成果を参考とするのではなく、敢えて、古い文献を参考とした理由は、「肥前陶磁史考」復刻版発行に際し、同時に、「肥前陶磁史考索引」なるものも発行されているが、その中の「『肥前陶磁史考』解説」(前山 博氏解説)というものの中に、
「・・・・・明治期から最後の昭和7年までは、中島にとっては現代史であり、当然ながら詳細な表現がなされている。近代の史料が失われつつある今日では、中島の残した記録は貴重である。・・・・・」
(P.9~10)
とあるのを発見したからである。
つまり、この「肥前陶磁史考」の中には、幕末から明治初年の頃の真実に近い記録が残されているものと考えたからである。
以下に、「肥前陶磁史考」の中の、「後期鍋島」の考察に関連すると思われる部分を抜粋し、紹介したい。
「御細工屋廃場 斯くて藩主の威光と、支給の豊潤とにより、さしも繁栄を極めし御細工屋も、維新(慶応3年12月9日なるも大川内藩窯の解散は明治4年位であらう)の大改革に依って、俄に廃場することとなり、31人の職工には、金禄公債証書を与えて、全部士族に編入されしが、従来余りに恵まれし大川内山が、如何に大打撃でありしかは想像に余りある。
之は大川内山のみならず各山重なる製陶地は、皆其領主や邑主が直営もしくは其保護厚き懐の内にて経営せるもの多く、従って、地方資本家の投資事業に属するものは甚だ稀であった。故に一朝此維新の大改革に遭遇せし、是等の窯焼と工人の悲惨は、木から落ちた猿の状態と同様なりしは無理もなかった。
大川内崩れ 此惨憺たる運命に遭うて四散せる大川内崩れの職人達は、有田皿山の外三河内其他諸国の陶山に転住した。中にも三河内へ移住せし者の少からざりしことは、其後此地の製品が如猿時代の古雅を棄て、一種の瀟洒なる鍋島風を加味せしことによって知らるる如く、確に此影響であるといはれてゐる。」
(P.405~406)
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
維新の改革に依って、御細工屋が廃場せらるるや、目附林甚平は、命ぜられて残留せる既製の生造り物や、素焼物を焼上げて之を整理せしが、それがいつ頃までに完了せしかは詳でない。
精巧社設立 茲に於いて鍋島焼の名が彌々断絶せんことを惜める光武彦七は、明治10年原次右エ門(藩窯工人丈左エ門の子)立石寛兵衛(藩窯工人寛六の子)と糾合して復興に尽膵し、宗藩内庫所の補助を仰いで精巧社を設立した。そして彦七が其社長たりしが、後年打絶へんとせる頃に、柴田善平、福岡六助相協力せしも、又々経営難に陥ったのである。」
(P.407)
以上のことから、鍋島風の焼物は、明治に入っても、まだ残っていた藩窯用の半製品を仕上げて完成品とされたものもあり、大川内山から四散した大川内崩れの職人達に依って作られたものもあり、はたまた、鍋島宗藩の補助を得て設立された「精巧社」なる会社で作られものもありで、相当数が作られ続けていたことがわかるのである。
このことから、時代が「江戸」から「明治」に変わった時点で、突然に「鍋島焼」がなくなったとすることは出来ないであろう。鍋島風のものは明治に入っても依然として作られ続けていたのだから、、、、、。
もっとも、「鍋島焼」は、あくまでも「鍋島藩窯」で作られたからこそ「鍋島焼」なんだとする立場からは、「藩」が消滅してしまった後に作られたものまでも「鍋島焼」と認めるこの見解は、到底支持されるものではないであろう。
しかし、私は、古伊万里を「様式」で分類する立場をとるので、そのように考えるものである。
従って、明治の初め頃に作られた鍋島風のものも「後期鍋島」に分類することを認める立場からは、「後期鍋島」に属する数は相当の数量にのぼることを認めざるを得ないのである。
ただ、それらの鍋島風のものが何時頃まで作られていたのか、つまり、「後期鍋島」が何時頃まで作られていたのか、「後期鍋島」の終焉の時期は何時だったのかについては明らかではない。
なお、肥前磁器を、窯別で区分する立場からは、明治に入ってから三河内へ移住した大川内崩れの陶工が作った鍋島風の製品は「平戸焼」とするのであろうが、その場合、或る器物について、具体的に、その器物を「平戸焼」とするのか「後期鍋島」とするのかの判定は困難を伴うことと思われる。 なぜなら、同じ様な文様が描かれたものは、三河内内で大川内崩れの陶工以外の者によっても作られていただろうし、それ以外の地でも同時に作られていたであろうことが予想されるからである。
もっとも、私の場合は、肥前地域一帯で焼かれた磁器を「伊万里焼」とし、窯別では区分しないところであるし、更に、それらを「様式」で区分するので、何ら痛痒を感じていないところではあるけれども、、、、、。
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