Dr.K の日記

日々の出来事を中心に、時々、好きな古伊万里について語ります。

青磁 七寸皿

2021年09月02日 16時35分01秒 | 古伊万里

 今回は、「青磁 七寸皿」の紹介です。

 

表面

 

 

縁部分の拡大

 

 

側面

 

 

底面

 

生 産 地 : 肥前 鍋島藩窯

製作年代: 江戸時代中期

サ イ ズ : 口径;19.5cm 高さ;5.2cm 底径;9.7cm

 

 

 なお、この「青磁 七寸皿」につきましては、かつての拙ホームページの「古伊万里への誘い」の中で既に紹介をしているところです。

 そこで、その際の紹介文を次に再度掲載することをもちまして、この「青磁 七寸皿」の紹介とさせていただきます。

 

 

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        <古伊万里への誘い>

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*古伊万里ギャラリー127  鍋島様式青磁七寸皿          (平成20年11月1日登載)

 

 青磁釉が分厚く掛けられている。

 もっとも、鍋島の場合は、青磁釉を1回だけ分厚く掛けるのではなく、「鍋島の十度掛け」と言われるぐらいに、青磁釉を何度も何度も掛けて作られる。

 それだけに、鍋島青磁の場合は深みを増し、えもいわれぬ味わいを醸し出すのである。

 ただ、青磁は、青磁釉の中の鉄分等の含有量、還元焼のタイミング等で微妙に色合いが異なり、千差万別である。

 この青磁七寸皿は、少々緑がかってしまっていて、抜けるような青空にみられるような明るさには欠けるが、それでも、格調の高さを有し、鍋島青磁の矜持を保っている。

 

江戸時代中期   口径:19.5cm  高さ:5.2cm

 

 

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*古伊随想随想40  「将軍と鍋島・柿右衛門」(平成20年11月1日登載)(平成20年10月筆)    

 

1 概要

 先日、暫くぶりに本屋さんに立ち寄ったら、「将軍と鍋島・柿右衛門」(大橋康二著 雄山閣 平成19年9月刊)という本が目に留った。内容的には、たぶん、私が昨年福島県立美術館で行われていた「将軍家への献上 鍋島」展を見に行った(当ホームページの過去の「古伊万里日々雑感」平成19年4月25日の条参照)際に購入してきた図録「将軍家への献上 鍋島 ――日本磁器の最高峰――」と同じようなものなのかな~とは思ったが、一応購入して読んでみることにした。

 

 

 読んでみて、案の定というか、内容的には、図録「将軍家への献上 鍋島 ――日本磁器の最高峰――」とあまり変わらないものではあったが、それでも、図録よりは詳しい説明で、より体系的であり、学問的であった。しかし、写真については、さすが、図録だけのことはあって、図録の方が大きく鮮明であり、わかりやすいものであった。「将軍と鍋島・柿右衛門」という著書と図録「将軍家への献上 鍋島 ――日本磁器の最高峰――」との二冊を併読すると、より理解が高まるものと思われる。

 ところで、この「将軍と鍋島・柿右衛門」という著書(以下、単に「本書」という。)は、江戸時代の絶対権力者である徳川将軍家の動きとの関係からとりまとめられたものである。

 中国では、古来より「陶をもって政を知る」と言われているが、本書の著者は、その逆も真なりとの発想で、「政をもって陶を知る」ことが出来るのではないかと考えたようである。その発想は、特に鍋島焼についてはよく当てはまるようで、今まで不明なことが多かった鍋島焼について、その創始から展開、衰退の過程がかなり明らかになったように思われる。

 その結果、従来は、鍋島焼は鍋島藩の主導で作られ、将軍家、大名等への贈答用に使用されたと考えられてきていたが、その考えは誤りであるとの結論に至ったようである。鍋島焼は決して鍋島藩の主導で作られたものではなく、将軍家への献上を主目的に作られたもので、そのサイズ、数量、文様から高台の高さに至るまで、すべて将軍家の内覧を受け、将軍家からの細かい指示のもとに作られたものが主なものであるとするのである。

 「・・・・・大名の存亡の鍵を握っていた絶対権力者徳川将軍家の動きに諸大名は敏感に対応し、将軍家が御成や茶事を将軍権力確立過程の重要な方策とした時代には、国焼をもつ大名は茶陶生産や献上にふさわしい陶磁器生産に力を入れたと考えられる。」(本書69ページ)ことから、鍋島焼もこうした時代の流れの中で生まれたとするのである。

 鍋島焼については、史・資料が少なく、その実体をとらえづらかったわけであるが、このような観点から考察すると、「徳川実紀」などの史料から裏付けることが出来るので、鍋島焼の実体がかなり明らかになったように思われる。ただ、本書は、「徳川実紀」などの史料の引用が多いため、従来の陶芸美術書とは趣きが異なり、さながら歴史書を読むような感があるので、陶芸美術書に親しんでいる我々にとっては、ちょっと読みづらい感があることは否めない。

 でも、本書の「おわりに」に、「江戸時代の陶磁器を研究し始めて27年になる。・・・・・とても手に負えないと思っていた近世陶磁器が、手の届くものになってきた。・・・・・周りから攻めていってようやく本丸にたどり着いた感じである。もちろん、枝葉でわからないことは山ほど残っている。少なくとも骨組みがわかったことは、それぞれの陶磁器を歴史の中に容易に組み込みやすくなったし、逆に歴史の証拠として、一層活用しやすくなったといえる。「陶磁器学」が「歴史学」の一分野として、より明確に認知されることを願ってやまない。」とあるように、「陶磁器学」も「歴史学」の一分野であることを思うと、陶磁器を学ぶには歴史をも学ぶ必要があるわけであり、それもまたやむを得ぬことなのであろう。

 

2 赤絵について

 私は、赤絵の始まりやその後の変遷について興味があり、赤絵に関する記述があると、ついつい注意して見てしまうくせがあるが、本書の赤絵に関する記述のうちで、私が特に興味を抱いた部分を少し書き出してみたい。

 赤絵が始められた当初は、「・・・最先端の技術である色絵の最高級のものを作り出した山辺田窯の陶工が、鍋島焼開発に抜擢されたのは極めて当然のことであった。その結果、山辺田窯から優れた色絵素地が消え、普通の粗放な素地を濃い色絵具で塗り埋める青手が考え出されたものと推測される。赤絵町ができる前の、この時期には山辺田窯など各窯の細工場(工房)周辺で色絵がつけられ焼かれていた。」(本書81ページ)とあるように、各窯場で赤絵は作られていたわけである。

 その後、「1659年オランダによる本格的輸出が始まり、鍋島藩はもっとも付加価値の高い磁器、色絵の技術者を集めた赤絵町を寛文(1661~73)頃に設けるなど磁器生産の管理を強めた。赤絵町の成立は伝承から寛文頃といわれてきたが、調査からは50年代に遡る可能性も指摘されている。少なくとも寛文頃といっても、その初めの1661年頃の可能性が高く、そうした生産区域に手を入れたのも1659年からの本格的輸出への対応を考えてのことかもしれない。」(本書109ページ)とあるとおり、赤絵は赤絵町成立後は赤絵町で行われるようになった。したがって、この時点では、赤絵は、鍋島藩窯と赤絵町で行われるようになったわけである。

 ところが、八代将軍吉宗の時代になると、逼迫した幕府財政の立て直しのために次々と倹約令が出され、華麗が禁じられるようになり、享保11年4月には鍋島藩に対しても、老中より、献上陶器について指示が出されるようになる。

 「例年献上の陶器について老中松平伊賀守中周より指示があり、種類が多い色絵具で飾ったものは制限するが、青磁はこれまで通りとし、以後の献上品に注文が付いたのも、この華麗を禁じた一環と考えられ、盛期鍋島の終わりの時期と推測できる。以後の幕末までの伝世品の内容をみても、三色使ったいわゆる色鍋島が消える。時折みられる色絵は赤一色を付けたり、緑一色であったり、稀に二色程度もあるが、極端に華やかな色鍋島は消えたのである。当然、将軍家から必要なしとされ、華美なものとして禁じられれば、作れなくなる。よって色絵を作った赤絵職人も大川内鍋島藩窯からは居なくなったと想像される。以後は必要に応じて有田の御用赤絵屋が注文を受けて色絵を付けたのであろう。」(本書156~160ページ)とあるので、この頃からは、赤絵は、赤絵町のみで行われるようになったのであろう。

 以上のように、赤絵を巡っての鍋島藩窯と赤絵町との関係がわかってきたのだが、私にはまだ解けない疑問が残る。本当に、赤絵は赤絵町の御用赤絵屋以外では一切出来なかったのだろうかと・・・・・。

 従来、「鍋島藩窯でさえ、赤絵については、その秘密保持のため、長持に入れて大川内藩窯から赤絵町の御用赤絵屋に運び、出来上がったものを再び長持に入れて御用赤絵屋から大川内藩窯に運んだのだから、柿右衛門窯などで赤絵をやれるわけがない。」旨のことが言われてきている。確かに、このことは、前記のように、享保11年以後の状況からは言えそうである。しかし、わざわざそのような面倒なことをしたのは、これまた前記のように、「・・・色絵を作った赤絵職人も大川内鍋島藩窯から居なくなった・・・」からであり、また、御用赤絵屋に注文を出す数も少なかったからであって、決して、赤絵の秘密保持のためになされたものではなさそうである。

 一方、「・・・特殊なケースとしては、大名などから注文を受け、柿右衛門家の窯などで作り、納めることがあった(『柿右衛門家文書』)。図71(注:色絵姫皿の図)は将軍家の一族、もしくは近親の大名からの注文の可能性が高い有田の超高級磁器である。鍋島家から将軍家に献上するものであれば大川内鍋島藩窯で作られたが、それとは異なり、他家からの将軍家献上の可能性が高いものである。」(本書176ページ)とある。このように、「・・・大名などから注文を受け、柿右衛門家の窯などで作り、納めることがあった・・・」わけであるが、その際も、赤絵の部分は赤絵町の御用赤絵屋に注文して赤絵を付けてもらったのであろうか?

 本書には、そこまでの記述はないので、私の疑問の全てが氷解したわけではないが、鍋島藩窯と赤絵町との関係がわかっただけでも、ずいぶんとスッキリした気分である。

 

3 青磁について

 本書によって鍋島焼はかなり解明されたとはいえ、やはり、鍋島焼については史・資料が少なく、依然として謎が多い。鍋島青磁もそのうちの一つであろう。

 特に、罅焼青磁については、

 「伊万里の大川内には、「罅焼青磁(七官手)」についての言い伝えがある。
 緯萬里やき=伊万里やきとは、鎌倉時代の元寇(弘安の役)のときに北部九州に渡来した南宋の陶磁器製造技術者らによって始められたやきものであり、大川内に伝わる罅青磁は、宋から伝来した皇帝の食器である。
 毒を見分ける、毒を消す食器、としての皇帝の食器である。これは、たとえば、西欧の毒を感知する銀の食器に対応するものである。この皇帝の食器の製造技術を守るために、鍋島藩は別の陶器製造技術を秘法として陶磁器製造の秘密を作り出し、その技術を職人たちに守らせたのである。それが有田の赤絵である。」(「古伊万里と社会」(大矢野栄次著 同文館 平成6年刊)51ページ)

とある。つまり、鍋島藩は、有田の赤絵の技術を秘密にすることにして、言い換えれば、赤絵の技術を囮として、本来の罅青磁の秘密を守ったのだという。 

 このような説の真偽のほどはともかく、地元にそのような言い伝えがあるということは、全く根も葉もないことではないのであろう。

 それにしても、ここでも赤絵の秘法ということが出てくる。どうやら、鍋島焼の更なる解明のためには、赤絵についての更なる解明が待たれるようである。

 私は、あまり青磁が好きではないので、青磁はほとんど所有していないが、それでも、鍋島青磁を1点だけ所有している。青磁の話が出たついでにそれを紹介したい(もっとも、その紹介をしたいがために、故意に、「3 青磁について」の項目を設けたのでもあるが(汗))。

鍋島青磁7寸皿
  

(この鍋島青磁7寸皿の入手経緯については、当ホームページの過去の「古伊万里日々雑感」の平成15年10月26日の条参照)この入手経緯につきましては、 に転載いたします。

 

 

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*古伊万里日々雑感(平成15年10月26日:日) 徳島の思い出

 この「古伊万里日々雑感」も、前回アップしてからもう相当な日々が経過していることに気付く。20日近くも経過しているのだ。
 まあ、日記ではないから、まっ、いいか。
 ともかく、外交辞令ではあろうが、猫の蔵さん、いにしえびとさん、ヒミコさんから徳島についてのアップを期待されているので、いつもよりは少し奮発し、定例更新くらいの内容にしてアップしよう。

 17日~21日までの4泊5日の行程で徳島に行ってきた。17日から20日までの4日間は大変に良い天気であったが、最終日の21日は、徳島への未練を残しての涙雨であった。

 17日、絶好の天気に恵まれ、生まれて初めて明石海峡大橋を渡る。絶景かな、絶景かな、、、、、
 あまりの美しさに見惚れ、写真を撮るのを忘れる。帰りには必ず撮ることを肝に銘じ、撮るには撮ったが、天気が悪くては感動が伝わらない。シャッターチャンスは重要であることが身にしみる。画像(注:この画像は省略)は、あまり良いものではないが、雨の日の明石海峡大橋を撮ったものである。ここを渡ったという証拠に載せることにした。

 徳島といえば蜂須賀家であろう。朝、ちょっと時間があったので、ぶらぶら散歩していたら、偶然、「蜂須賀家墓所」なる所に出くわした。
 19歳で亡くなった藩主もいるようである。
 そんな時には、跡目争いも起きたんだろうなー、そして、それを探ろうとする幕府隠密と藩との争いも生じたんだろうなーなど、「鳴門秘帳」が頭をよぎる。ちょっぴり歴史小説家にでもなった気分に浸る。
 画像(注:この画像は省略)は、「蜂須賀家墓所」の一部である。

 ところで、このページにとって一番重要なのは茎田美術商さんへの訪問であろう。    

 茎田美術商さんのことはtaimeiさんのHPで徳島県内にあることを知っっていたので、せっかく徳島に行くのだから、せめて1軒くらいは古美術店に寄ろうということで訪問におよんだものである。

 しかし、所在地を調べてみたら、なんと、「鴨島町」という「町」にある。「徳島市内」ではない! 田舎町ではないか! これでは良い古伊万里の購入などは期待できないと覚悟する。
 でも、これも良い思い出になるのではないだろうかということで訪問を実行した。

 だが、これは予想を全く裏切った。こんな予想のハズレなら嬉しい。
 田舎町の中にあって実にレベルが高いのである。
 古美術店はその所在地で判断してはいけないことを悟る。
 そこでさっそく古伊万里を2点購入する。
 1点は、鍋島様式(私は、肥前磁器一般を古伊万里としているので、鍋島も肥前磁器の一部に違いないから、古伊万里の一様式と分類している。)の青磁7寸皿(江戸時代中期)である。高台は高く作られ、毅然とした格調高い鍋島の特長をよく示している。
 

口径:19.5cm 高さ:5.2cm 
    

 もう1点は、古九谷様式の瑠璃釉染付山水文小皿(江戸時代前期)である。口縁の瑠璃釉が全体を引き締め、画面を引き立てる。正に一服の絵を見るようだが、一瞬、小皿を見ていることを忘れさせる。

       (この「瑠璃釉染付山水文小皿」につきましては、明日、令和3年(2021)9月3日

          に紹介する予定ですので、ここでの紹介は省略します。)

 

注: 私は、時代区分を「江戸時代前期」、「江戸時代中期」、「江戸時代後期」の三つにしか区分していない。
 最近は、草創期のものは10年単位で明らかにされてきているようであるが、後期のものは、50年、100年単位で区分されているにすぎない。
 それでは後期のものが可哀想である。不公平である。
 そういう意味で、後期のものも平等に扱いたいので、私は、あえて三つの区分にこだわっている。
 もっとも、そうすると、どこからどこまでが前期で、どこからどこまでが中期で、どこからどこまでが後期なのかとのお叱りを受けるわけであるが、私は、何となくの気分で決めている。それでも、鑑賞にはさして支障がないと思っている。美術館によっては、「江戸時代」としか表示していないところもあるくらいだから。
 もう少し、中期、後期の研究が進んできて、もっと細かく区分できるようになったらそれに従うつもりでいる。

 

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6 コメント

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こんばんは (つや姫日記)
2021-09-02 18:54:54
青磁の皿
美しいと思います。

今年の3月 本間美術館で求めた小さい雛人形がこの色 青磁だったとおもいます。
なかなか気に入っています。♪
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Dr.kさんへ (遅生)
2021-09-02 19:24:44
やはり、青磁でも鍋島は別格ですね。

青磁釉を100回も掛けるとは、話半分としても、相当の高級品です。これだけ青磁釉を掛けると、出来上がりの器体がダレてしまうのですが、さすがに鍋島、凛とした品格が保たれています。
Drの力も入るはずです。テンション高々(^.^)

徳島では優品がゲットできましたね。
品物が人を呼ぶのは、本当だったのですね(^.^)
瑠璃小皿にも期待が高まります。
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つや姫日記さんへ (Dr.K)
2021-09-02 20:35:47
青磁は綺麗ですよね。
ところが、私は、あまり好きではないんです(~_~;)
多分、青磁はあちこちで作られていますので、その産地の特定が難しいので、なんとなく敬遠しているからかもしれません(~_~;)
それに、青磁の良い物は値段も高いものですから、鑑定を誤ると大火傷を負いますので、なかなか手を出せないからなのかもしれません(~_~;)

本間美術館で求めた小さい雛人形は青磁でしたか。
気に入られて良かったですね(^_^)
青磁を好きな人は多いです。それを見た方も好きになると思います(^-^*)
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遅生さんへ (Dr.K)
2021-09-02 20:47:19
青磁といえば、日本の場合は鍋島青磁ですものね。
古伊万里コレクターとしては、鍋島青磁の1点くらいは持ってなければ、ということで買ったものです。

あの~、100回ではなく、10回なようです。話半分としても5回は掛けるのかもしれませんね。
それでも器体がダレないんですから、さすがに、鍋島は凄いですよね。

徳島に行く直前、茎田美術商さんのホームページを見て、この青磁皿が売りに出されていることを知りました。
もし、行った際に、まだ売れ残っていたら是非買って帰ろうと思ってお金を用意して出かけました。
幸い、売れ残っていましたのでゲットできたわけです(^-^*)
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Dr.Kさんへ(弐) (遅生)
2021-09-03 06:24:08
あはは、「鍋島の十度掛け」でした。
年々思い込みが激しくなって、いつか大きな過ちをしでかすのではないかと、外野がうるさいです😭‼️
青磁は鉄分濃度が高いと発色がうまくいかないので、薄い釉薬をぶ厚く掛けねばなりません。そのためには、ボディを極限までうすくしないといけないし、厚衣に負けない凛とした器形も欠かせません。それができたのは、日本では鍋島だけですね。白磁はもっと厳しく器自体の質がさらされます。ですから、陶磁器生産の力量、技術水準が問われます。
Dr の鍋島青磁、白磁を見て、つくずく鍋島の底力を感じます😅
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遅生さんへ(その2) (Dr.K)
2021-09-03 10:11:25
再度のコメントをありがとうございます。

青磁作りは難しいのですね。
↑ の「古伊万里と社会」(大矢野栄次著 同文館 平成6年刊)の中に、

「鍋島藩は、有田の赤絵の技術を秘密にすることにして、言い換えれば、赤絵の技術を囮として、本来の罅青磁の秘密を守ったのだという」

という記述がありますし、地元にもそのような言い伝えがあるということですから、鍋島藩は、本来の青磁作りをマスターし、その製法を秘密にしたのかもしれませんね。
鍋島には、単なる工芸品を超えた、底力のようなものも備えているのかもしれませんね。
そんなところに、皆が憧れ、羨望の眼差しを向けるのかもしれませんね(^_^)
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