「隠れキリシタン」や「潜伏キリシタン」という用語は、江戸時代から明治初めにかけての日本のキリスト教史に固有の特殊な用語という理解が一般的ですが、キリシタンとはポルトガル語でキリスト者を意味するのですから、決して特殊な言葉ではありません。
そこで、原始キリスト教から始まるキリスト教史全体を考慮した上で、さらに「現代日本に生きている私達の直面している問題」との関わりを大切にするという観点をわすれずに、この講演ではもっと普遍的な「隠れたるキリスト者」の系譜の中にいわゆる「潜伏キリシタン」ないし「隠れキリシタン」を位置づける試みをしたいと思います。
まず「隠れたるキリスト者」の系譜として、三つの意味を区別しつつ歴史的な順序にしたがいつつ、それらを関係づけてみましょう。
〇隠れたるキリスト者-A (Hidden Christian -A)
-迫害の中で隠れた所におられる神に祈る-
(マタイ福音書の初代キリスト者の祈り)
マタイの生きていた時代のキリスト者は、ステパノのように公然と信仰告白をすれば殉教するかもしれない迫害を「正統派」のユダヤ教徒から受けていた。街道や街角に立って自分の善行を人に見せびらかすユダヤ教の「正統派」の祈りではなく、「言葉数が多ければ神に聞き入れられると思う異邦人の祈り」でもなく、「まことのキリスト者の祈り」は、どのようなものであるのかについて、マタイ福音書の伝えるイエスは「主の祈り」を教える前に、次のように云います。
「あなたは祈るときは、奥の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた行いをご覧になるあなたの父が報いてくださる」(6-6)
〇隠れたるキリスト者-B (Hidden Christian-B)
-非キリスト教のなかに隠れているキリスト者ー
(使徒行伝、アテネでのパウロのアレオパゴス説教)
「アテネの人々よ、私はあらゆる点で、あなた方を宗教心に富んでいる方々だと見ております。実は、私は、あなた方の拝む様々なものを、つらつら眺めながら歩いていると「知られざる神に」と刻まれた祭壇さえあるのを見つけました…….神はすべての人に命と霊と万物を与えてくださった方です。一人の人から、あらゆる民族を興し、地上にあまねく住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境をお定めになりました。これは人に神を求めさせるためであり、もし人が探し求めさえすれば、神を見いだすでしょう。事実、神は私たち一人一人から遠く離れてはおられません。『私たちは神のうちに生き、動き、存在する』のです。」
「死者の復活のことを聞くと、(ギリシャ人の)あるものたちは嘲笑い、あるものたちは「そのことは、いずれまた聞こう」といった。しかし、パウロに従って信仰に入ったものも、幾人かいた。そのなかには、アレオパゴス(アテネの貴族院)の一員だったディオニシオスや、ダマリスという婦人、その他の人がいた。」(使徒行伝17:22-34)
フランシスコ・ザビエル、バリニャーノ、マテオリッチなど日本と中国ーヘレニズム時代の希臘よりも古い伝統をもつ仏教と儒教の文化をもつ国ーに伝道活動をしたイエズス会士達の「順応主義」の宣教のお手本は、異邦人への使徒パウロのアレオパゴス説教でした。
〇隠れたるキリスト者-C (Hidden Christian-C)
-時の権力者の言論統制によってその信仰と生死が隠蔽されてしまった個々のキリスト者(隠されたキリスト者)ー
細川ガラシアがキリスト者であったことは、江戸時代には隠されており、ホイベルズ神父ほか多くの人の努力によってそのキリスト者としての生と死が解明されたことは前に述べました。
ペトロ岐部にしても、たとえば姉崎正治博士の「切支丹宗門の迫害と潜伏」のような開拓者的著述でさえも、不正確な固有名詞と共に数行言及されているのみで、彼がいかなる人物であったかは書かれていません。1973年にオリエンス宗教研究所から出版された A History of the Catholic Church in Japan にも、残念ながらペトロ岐部の名前は見当たりません。
彼が難民として日本から逃れた後で、日本人としてはじめて陸路を通ってエルサレムに巡礼し、ローマで司祭となり、それからリスボンから艱難辛苦の旅を経て、帰国し、日本全国の隠されたキリスト者を励ましつつ、遂に江戸で殉教したなどということは、チースリック神父の長年にわたる古文書の研究調査のすえに漸く明らかになりました。
そのほかにも、天草崩れ、浦上崩れのように江戸時代の夥しい数の殉教者の一人一人の名前は歴史から抹殺されました。
良心の自由などと云う観念のひとかけらももたぬ権力者達のプロパガンダによって、処刑の残虐非道なやりくちにもかかわらず、キリシタンの「殲滅」が徳川幕府の国策であるとして正当化されました。(万人は神の前に平等であり、良心の自由は例え国王といえどもおかすことはできないというキリスト教倫理の根本が、まさに幕府の保守的体制を覆す危険思想でもあったことを忘れるべきで無いでしょう)
しかし、キリシタンは殲滅されたわけでは決して無く、生き延びていた。大浦天主堂で「私たちはあなたとおなじ心です」と潜伏キリシタンの勇気ある一女性が、フランス人司祭に語った言葉は、「主は皆さんと共に(Dominus vobiscum)」という司祭の言葉に応ずる「あなたの心と共に(Et cum spiritu tuo)」でもあった。「潜伏キリシタン」として信仰を守り通した人の信仰告白は「信徒発見」であると同時に「司祭発見」の邂逅でもありました。
また、父祖以来の信仰を護り続け、ローマ教会に入らなかった「隠れキリシタン」の信仰も、日本の大切な文化遺産であることはいうまでもありません。生月島のオラショで歌われる「ぐるりよざ」が、十六世紀のスペイン・ポルトガルで歌われていたマリア讃歌であるということを発見された皆川達夫氏の次の言葉に私は全く同意します。
「オラショのなかには、日本人の生活と信仰、外来文化の摂取と日本化、伝統と現代、音楽のはかなさと強さ、祈りと歌、集団と個人、弾圧と自由、抵抗と順応、掟と罪、人間の強さと弱さ―要するに一人の音楽史研究者としてこの現代日本に生きている私のあらゆる問題がある。隠れキリシタンは今や私にとって、私の生き方そのものを問いただす存在となって、私に対峙している。」
(皆川達夫著「オラショ紀行-対談と随想」(日本キリスト教団出版局 1981)