歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

勝鬘経義疏と聖徳太子ー菩薩の大いなる願い

2018-06-08 |  宗教 Religion
勝鬘経義疏と聖徳太子ー菩薩の大いなる願い
 
 古書店で花山信勝校訳の勝鬘経義疏を入手。聖徳太子千三百六十年御忌、花山聖徳堂建立二十周年記念の栞があり、著者の自筆の献本署名が入っていた。はしがきに「終戦の詔勅によって、明治以来の武の日本が崩壊した。新しい日本の基盤は文でなければならぬと考える。そこで終戦の翌日から、わたくしはわが国最初の著書である勝鬘経義疏の校訳に微力を傾倒し始めた」とあった。
 吉川弘文館から昭和52年に刊行された花山先生の校訳本の優れたところは、敦煌本『勝鬘経義疏本義』慧遠撰『勝鬘経義記』、吉藏撰『勝鬘宝崫』などの当時の大陸の釈義との綿密な比較作業を経たのちに、上宮王、聖徳太子の自筆と推定される文章を選び出しているところにある。和訳は、現代語訳ではなく、漢文を大和言葉に読み換える伝統に沿った独特の書き下し文で非常に格調の高いものであった。勝鬘経義疏の素晴らしさは、日本書記や古事記よりも前の著作だという古さだけにあるのではなく、時代を超えて現在の我々の状況を照明する古典であることによる。
 内戦と海外出兵に起因する万民の苦しみ、百済の滅亡に伴う大量の難民の渡来、大国の隋と唐による帝国支配に抗して如何に自主的な対等外交を展開すべきかーこういう課題は太子の時代と現在に共通するのではないか。四天王寺に設置された悲田院を始めとする太子の社会福祉の理念は叡尊や忍性によって受け継がれた。仏教的な社会奉仕の原点は菩薩行であるが、そこにも「自分行」と「他分行」がある。菩薩の十の段階のうち八番目以上の段階は、自力でできるものではないので、仏の行としての慈悲行と即ち他分行と位置付けられている。浄土真宗の絶対的な本願他力の思想はまだないとはいえ、エゴイズムの克服を目指す菩薩行が、自然な人間の本性を超えるものから来るという思想は既に現れていると思った。17条憲法の精神も勝鬘経の十大受章、三大願章を抜きにしては十分に理解できないのではないだろうか。
 勝鬘経は、女人成仏を明確に説いている点で、大乗経典の平等思想を男女差別を超えて徹底させた経典として読むことができる。勝鬘夫人は将来、仏となって全ての人を救済する仏国土を建立するだろうということが釈尊によって保証される。仏教用語で受記とよばれるこの保証は、法華経でも重要な意味を持つ思想であるが、全ての衆生を仏としたいと言う心底からの願いが根底にあるに相違ない。これを本覚思想とか如来蔵思想などと言う後世の註釈家の用語でまとめる前に、テキストそれ自身をよく読む必要があるだろう。勝鬘経で「物」と言う語は「衆生」を意味していることに注意したい。したがって万人を救済することは万物を救済することにつながるのである。そこには、被造物の全てを救済しようとする新約聖書と東方キリスト教の教えに通底する救済観がある。如来が胎児のように我々のうちにあるという教えは、わたしには受胎告知と同じく、男性優位の社会で成立した宗教では奇跡としか言いようがない福音だったのではないだろうか。世俗の煩悩にまみれた身体の中の種子のごとき如来が、泥池の白い蓮のように花を咲かせ身を結ぶと言う教えは、世俗の只中に福音を見る教えでなくてなんであったのだろうか。
 勝鬘経の「一体三宝論」は、仏法僧の三宝のどれにも他の二つが内在するが故に一つのものであるという論であって、それはキリスト教の初代教父たちの論じた三位一体論に照応する仏教的な三一論として、非常に興味ふかい議論であった。
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