矢部川の氾濫話に続き、治水のことを書きたいと思います。
矢部川の治水と言えば、田尻惣助・惣馬親子なくして
語ることはできないでしょう。
元禄八年(1695)、柳川藩では普請奉行の田尻惣助に命じて
北田村(立花町北山)の曲松から山下にかけて
千三百間(2300m)の土居(堤防)を強化することにしました。
目の上のタンコブのような久留米藩から
抗議するスキを与えられないよう、
工事は短期間にしろとの厳命です。
惣助は北田村の農民を総動員して、昼夜の突貫工事を行います。
あまりにも苦しく激しい労働だったので、
今でも語り草になって残っているのだとか。
これが現在「千間土居公園」と呼ばれる憩いの森(上画像)です。
当時はまだ楠は植えていませんでしたが、
宝永六年(1709)、惣助の次男である惣馬が父親の後を継ぎ
普請奉行に就任し、より堤防を強化するために楠や竹を植えたり、
ハネ(水の勢いを和らげ、流れを変える堤防の形)を築きました。
現在、北山千間土居から船小屋まで続く川沿いに
大きな楠が生えているのは、惣馬によるものだそうです。
この堤防によって培われた土木技術を生かし
蒲池山ため池修理や黒崎開きの干拓地修築工事が行われました。
田尻惣助・惣馬親子は、まさに筑後の土木業界の大スター。
鍋島藩の成富兵庫助、肥後藩の堀平左衛門と共に、
九州土木の三傑とまで称されています。
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矢部川の治水と言えば、田尻惣助・惣馬親子なくして
語ることはできないでしょう。
元禄八年(1695)、柳川藩では普請奉行の田尻惣助に命じて
北田村(立花町北山)の曲松から山下にかけて
千三百間(2300m)の土居(堤防)を強化することにしました。
目の上のタンコブのような久留米藩から
抗議するスキを与えられないよう、
工事は短期間にしろとの厳命です。
惣助は北田村の農民を総動員して、昼夜の突貫工事を行います。
あまりにも苦しく激しい労働だったので、
今でも語り草になって残っているのだとか。
これが現在「千間土居公園」と呼ばれる憩いの森(上画像)です。
当時はまだ楠は植えていませんでしたが、
宝永六年(1709)、惣助の次男である惣馬が父親の後を継ぎ
普請奉行に就任し、より堤防を強化するために楠や竹を植えたり、
ハネ(水の勢いを和らげ、流れを変える堤防の形)を築きました。
現在、北山千間土居から船小屋まで続く川沿いに
大きな楠が生えているのは、惣馬によるものだそうです。
この堤防によって培われた土木技術を生かし
蒲池山ため池修理や黒崎開きの干拓地修築工事が行われました。
田尻惣助・惣馬親子は、まさに筑後の土木業界の大スター。
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