松山櫨(はぜ)復活奮闘日記

失われてしまった松山櫨の景観を復活させようと奮闘していく日々の記録。

卑弥呼の火祭り その4

2008-01-29 19:40:32 | 復活奮闘日記
矢部川の氾濫話に続き、治水のことを書きたいと思います。

矢部川の治水と言えば、田尻惣助・惣馬親子なくして
語ることはできないでしょう。

元禄八年(1695)、柳川藩では普請奉行の田尻惣助に命じて
北田村(立花町北山)の曲松から山下にかけて
千三百間(2300m)の土居(堤防)を強化することにしました。

目の上のタンコブのような久留米藩から
抗議するスキを与えられないよう、
工事は短期間にしろとの厳命です。
惣助は北田村の農民を総動員して、昼夜の突貫工事を行います。
あまりにも苦しく激しい労働だったので、
今でも語り草になって残っているのだとか。
これが現在「千間土居公園」と呼ばれる憩いの森(上画像)です。

当時はまだ楠は植えていませんでしたが、
宝永六年(1709)、惣助の次男である惣馬が父親の後を継ぎ
普請奉行に就任し、より堤防を強化するために楠や竹を植えたり、
ハネ(水の勢いを和らげ、流れを変える堤防の形)を築きました。

現在、北山千間土居から船小屋まで続く川沿いに
大きな楠が生えているのは、惣馬によるものだそうです。
この堤防によって培われた土木技術を生かし
蒲池山ため池修理や黒崎開きの干拓地修築工事が行われました。



田尻惣助・惣馬親子は、まさに筑後の土木業界の大スター。
鍋島藩の成富兵庫助、肥後藩の堀平左衛門と共に、
九州土木の三傑とまで称されています。

↓押してくださると励みになります。

人気blogランキングへ