25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

舟木一夫 高原のお嬢さん

2017年11月12日 | 音楽 ポップス

 コメント氏から「アクセスが跳ね上がったのはシシドカフカを取りあげたからではなく、舟木一夫を取り上げ、それが掲示板で紹介されたからではないか、というコメントをいただいた。そうか、そういうことか、と合点した。シシドカフカで読んだ人もいるだろうが、熱い舟木ファンなら、この上昇もあり得るはずだ。

 舟木一夫は、学園ソングがまだ当時なく、また若いアイドルが股旅物を歌っているときにはにかみながら現れた。突然現れて、次々と歌を出して行った。中学校の音楽教師が「嗚呼、青春の胸の血は」を唄えたら通信簿5と言い、セリにかけたので、ぼくはそれを唄って通信簿5をもらったことがある。このときあたりまでが学園ソングで、次くらいから青春ソングになっていったと思う。その後

「高原のお嬢さん」が出てきて、この歌は名曲だと思い、歌を覚え、ロマン座で映画も見た。和泉雅子との共演だった。指人形で語り合う場面があった。「東京の空のどこか あの人は住んでいる-------」と聞くと、紀伊半島の果ての果てから、東京の町を想像した。「東京は恋する」は「北国の街」によく似ていたが、クラリネットのリズムある伴奏に、鼻歌のように歌った。

僕が東京よりも近い名古屋や大阪、京都の大学を選ばず、また大学は当然東京だと思っていたのは、歌の影響が胸のうちに入っていたのかもしれない。ビートルズが東京にきたからという東京ではなかった。歌謡曲のような世界が東京ではじまるかもしれない、という憧憬もあったに違いない。

 カラオケが流行りはじめて、舟木の「高原のお嬢さん」がないのに、不満があった。歌いたかったのである。ところが台湾にいき、夜のバーに行ったら、そこに「高原のお嬢さん」があった。これには感動した。ぼくは舟木一夫になりきって歌ったのだった。台湾の人から多くの拍手をもらった。すっかりこの台湾旅行が楽しくなった。その頃の台湾では車はオンボロで、タクシーのドアは壊れ、ドアを客が持って走るという時代だった。

  その後数年経って、日本にも「高原のお嬢さん」がカラオケにも登場した。この歌がぼくの青春ソングである。まだカラオケがなかった頃‥知り合いがこの歌のカラオケを作ってくれた。全くレコードと同じ伴奏だったのには驚いた。ぼくは昼休みに、社員の前で、歌ったのを覚えている。若い社員たちは知らない唄で、ポカンとしていた。知り合いはこの頃テレビにも出て、アコーディオンで昭和の歌の出張流しをしていると自慢気に話していた。次に彼に頼みたい舟木の歌では亡き姉を想う「若き旅情」を作ってもらいたいと思っている。