25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

16歳

2018年12月13日 | 文学 思想
16歳。将棋。フィギュアスケート。卓球。今年の漢字が「災」であれば、特別な数字は16だと思う。ぼくの時代の16歳の頃の社会は整っていなくて、あらゆる面で情報が万遍に行きわたらず、粗雑で、潔癖症的なこともなく、緩慢に世が動いていたような気がする。寛容であったような気もする。16歳の男子・女子が活躍するということはなかった。16歳と言えば「猿」みたいなもので、ぼくももちろん「猿」であったが、空を見ればぼんやりと薄い膜がかかったようにその向こうにある青い空は見えず、頭は朦朧としていた。ただ身体だけはだんだんと大人に近い骨格になっていく風で、声も変り、人相も変って、まだ勉強せなならんのかよ、と嫌々ながら学校に行き、クラブに逃げ込んでいた。今テレビに映る16歳の男子女子の受け答えもしっかりしているようで、おもわず、へえ、と唸ってしまうことがある。
 今は、自分は何をしたいかを決めれば、どうすればその目的に達することができるか、というマニュアルやらの情報がある。出来得る限り親も応援してくれる。親が子供につき徹底的に指導者として振る舞い、励まし、叱り、助言し、時には星飛雄馬の父のような鬼になってもやる、という姿も現実にあるものだとテレビでも知る。
 ピアン、バイオリン、バレエetc.、物になるかどうかはわからないものに、幼少期をかけ、ほんの少数が天才ぶりを発揮し、有名になる。
 フィギュアなどは切ない競技である。成長期の真っ只中の頃が一番体が動く。競技中であっても背が伸びている感じがする。
 今の自分と一年後の自分が全く別物であるという感覚はフィギュアをやっている人達は実感的によくわかることだろう。
 普通の人は普通に背が伸びていくだけで、それが障壁になるとか、そのことに神経質になるということはない。
 100歳まで生きるとして、20年ほどを徹底的にあるひとつのことに集中する。それが終わったあとの人生は4倍もある。

 「千年の愉楽」の「天狗の松」での主人公文彦は胸板の厚い筋肉質の若者だった。山の飯場暮らしで土方をして、お金を得ては新宮の路地に帰ってくる。ある日、巫女たちの修行の場に出会う。巫女になる修練者たちは女郎もする。文彦は色白で肌理の細かい女に取り憑いてしまう。女も取り憑いて、文彦と一緒に路地に来て暮らすのである。接合だけが仕事のようにいるのだが、ある日、女の求めるままに交わっていると殺してしまうことになった。天狗の松の下に埋めた。
 また飯場暮らしを始めるが、突然、醒めたように、こんなつまらん命など要らん、と思って、首を括って死んでしまう。
 文彦と16歳の男子女子を一緒にするわけではないが、ぼくのように過激で過剰な集中をしたことがない人間からは彼らは異人に見える。こころの有り様が全く違い、ぼくには理解不能のこよだろう。