25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

マタイ受難曲

2018年12月24日 | 音楽
 クリスマスイブで世間はお祭りのようだ。宗教は「集団を持つな」「一人で祈れ」と言いたいぼくは宗教は人を救うこともするのだが、人を殺すこともするものだ、ということを心してかからないと間違えるよ、と言いたい気持ちが年々強くなる。
 ああ、世界の観光地の名所旧跡と言えば教会や寺院。美術といえば宗教絵画、仏教美術。辟易するにだが、人間は神まで作り上げて全知全能とし、神の教えに従うというようなことに救いを求めたのだろうから、人類の歴史の中で神も仏も要らぬほど豊かになったのは日本の歴史で言えば、まだ60年ほどのことだ。そのうちの30年も怪しいもので、貧困、過剰労働、親の虐待はまだ克服できていない。
 NHKの地方局は必ず年に一度か二度、伝統的な慣習や習わしを伝えている。ぼくは毎度、すばらしいことだとは思わず、なんと愚かしいことか、なぜ疑わないのか、と腹立たしく、迷信じみた言い伝えを「フン」と言いながら見ている。
 
 原始キリスト教の頃、イエスキリストが生きていた頃、力もつものが同じ人間を奴隷とし、税を課し、飢えるものは救われることなく死んでいった。この頃に人々が神の世を作りたかったこころや脳はよくわかる。その気持ちをバッハが音楽で1700年代になって表したのだと理解することにする。
 イエス・キリストは宗教間で争うことなどしたくなかったはずだ(いや、戦闘精神が旺盛だったかもしれぬ)。イエスと面識もなかったローマ語が話せ、理解できた聖パウロがキリスト教の布教に努めた。もちろんイエスの12弟子もユダを除いて、布教に努め、ヨハネをのぞき、全員無惨な迫害で殉死殺している。殺され方も悲惨である。
 パウロがすべてを引き受けたかのようにキリスト教教を、ローマ他各地に布教した。
 
 キリスト教とよく似たところのある浄土真宗も、親鸞の死後、親鸞の意に反するように蓮如が宗教集団化した。親鸞は宗教を解体したはずであった。だれが本願寺ができると思っていたか。親鸞は墓さえも否定していた。

 疑わず、それが正しいことだと思い、延々と維持し、疑う者があれば反抗し、寄り添ってくれる者あれば感激するという有り様は大衆としての人間のあり方として普通である。

 親鸞もイエス・キリストもそんなことはわかっている。ただわからなかったのが、三人以上が集団を作ったときに起こる人間の化学反応である。いや、わかっていたのかも知れない。その幻想への対抗方策、対抗論理が凡人にはわからなかったのかもしれない。
 

 
 

コンポ、CD、SD、宇多田ヒカルなどなど

2018年12月24日 | 音楽
 買ったコンポにはびっくりした。25Wの小さなスピーカーが二つあるだけである。ところが、クラシックではクリアに「これはスゴイ!」と思わなかったものの、桑田佳祐の「GARAKUTA」と宇多田ヒカルの「Fantome」を聞くと、2メートル先に、桑田佳祐や宇多田ヒカルがまさにいるようだった。のどの擦れる震えみたいな音も聞こえるようだった。これはおそらくコンポの技術も録音の技術も十年前よりは良くなっているのだろうと思う。別にハイレゾであるわけではない。いずれはハイレゾで聴くのだろうがたぶんぼくの場合はこのコンポが壊れる十年後くらい先のことだ。
 テレビも4Kさらには8Kとなっている。
 思えばテレビの基本機能も、ラジオ、カメラ、音楽プレイヤーも、ICレコーダーも、時計、財布も、特化された天気予報も、著作権の切れた小説も、天文台も、アルバムも、辞書、百科事典、ビデオ、映画、メモ帳も、検索やメールなどもスマホに入るものはおおよそすべて入っている。冷蔵庫、洗濯機、炊飯器、掃除機、電子レンジ、オーブントースターがスマホにないくらいだ。アップルというのはすごいものを開発したものだ。
 
 ひとつの間違いも許されないスタジオでの録音。パーカッションもよくよく吟味されて打ち込まれている。そんな音づくりの緊張感までも感じられる。

 それで早速、宇多田ヒカルの「初恋」を借りに行った。パソコンに取り込んで、CDやSDに書き込む。宇多田ヒカルの作品つくりは自己表現を主としているので、例えば、死んだ母親が思い出されたり、死んだ母親に向かって歌ったり、自分が生きて経験してきたことを表現するので、やっぱり重たくなって、もっと遊び心があってもいいのに、とか思ってしまう。わがコンポはそんな切なさも十分に、心臓の音がわかるほど伝えてくれた。

 最近買ったもので、広告に騙されたと思ったのは百円玉を吸い込む手軽なハンドタイプの掃除機だった。とにかく「吸い」が悪い。

 エディオンやK’sデンキの店内を見ていると、SDカードももはや250ギガバイトなどというのもある。1ギガでもすごいと思っていたものが、250ギガバイトまであの小さなものにデータを入れることができる。二十年でそうなった。250ギガもあれば音楽などは何万曲と入ることだろう。するとその250ギガバイトをどう使うのか、その構造の問題が出て来る。えんえんと曲が次から次へと流れるのか、ジャンルが作れるか、歌手別にできるのか、という問題だ。そのことについては知らないからなんとも言えない。ぼくは21年前に74分のCDを16時間使えるようなCDを作った。なんてことはない、今は何千時間の話だ。それするためにはフォーマット作り、原盤からCDにコピーする機器ソフトさえなくそれさえも開発しなければならない時代だった。

 しかし語学学習で言えば、最高なのは、ひとつの文を繰り返し何度でも聴けて、一文一文を前後に進められて、一文のスロー読みが聴ける。またその一文のわかりにくいちところの単語解説などが入っている。テープのように全文通しでも聴ける。ぼくらはそんなテキスト・CDを50種ほどを作ったことがある。今でなら世界中に広がるものであろうと今でも思う。おそらく語学学習機で理想である。今もそんな便利な語学学習機はない。あのとき、その技術を売る、という発想はなかった。会社を売るという発想もとれなかった。この点は悔やまれる。

 コンポからそんなことを思い出した。1995年から1997年のことだ。