25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

愚者は経験から学ぶ?

2018年12月28日 | 文学 思想
「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ「という格言があるらしくドッキリした。文藝春秋「2019年の論点。その中の「愛国から極左まで急接近する政治とエンタメ」を書いた辻田真佐憲の文の一番最後にあった。政治的エンタメの危うさを彼は心配している。かつて日本国民が陥った風潮である。
 あれ、ぼくは「愚者」なんだ、と首を傾げたのだった。言わせていただくが、この格言は正鵠を得ているとは言いがたい。ただ、歴史というのはカメラのレンズによる、ズームの具合のようにしか思えない。ぼくは経験からしか学んでない。歴史から学ぼうともしているが歴史は心もとない。歴史を大局から、客観的に、俯瞰して、と捉えるならば、その眼の持ち方をしようとしているが、これがなかなか難しい。客観の基準がよくわからないのだ。起こったことの本当の原因とて分かりにくいものだ。ぼくはいっぱい失敗してきた。その経験がなかったことで損したものはあとでかならず、とりもどして帳尻を合わせることを信条としている。

 すでにぼくらは「未知の世界」を歩いている。歴史にない段階の世界だ。ファーウェイを排除しようとすると、日本国内の優秀な部品製作会社にも打撃を与えるという、経済取引がすすんでしまっている。こういうことも歴史にない段階の話である。
 話を変える。歴史の話だが。青谷上寺地論遺跡で発掘された弥生人の骨が130体ほど発掘された。そのうちの30体のDNA遺伝子解析をした。驚くことに縄文人の遺伝子をもつものは1人のみであった。残る29体は大陸から朝鮮半島に集結してきた人々であった。どうやら弥生時代の1300年の間んい稲作を持った渡来人たちがどんぢんやってきたのだろう。青谷上寺地遺跡の住人は直接に大陸から鳥取の青谷に入り込んだと思われる。弥生人と縄文人が徐々に混合していったという説はもっと吟味されなければならない。

 中国嫌い、韓国嫌い、北朝鮮嫌いの人はどう考えるのだろう。政治体制が好きでないから国が嫌い。領土を取ろうとしているから嫌い。すぐに先の戦争のことを持ち出してくるから嫌い。歴史から学ぶならば日本人の8割と韓国人は限りなく同じ遺伝子で、その遺伝子には中国北方の人も、中国南方の人も、中国のあらゆる地域からの人が朝鮮半島には集まっており、九州や島根、鳥取などは当時の交易地だったように思える。青谷上寺地遺跡からは勾玉もガラスも、木の彩色器も、当時の中国のみの、シルクロードを通ってきたと思われるものも残っていた。2世紀頃には大量に大陸から入ってきたのだろう。また古代国家が誕生して大化の改新のころにも渡来人を多く受け入れただろう。天皇家の初代は神話の中にあるが、いずれは系統的に分かるようになるのだろう。

 すると「日本人のアイデンティティーは何?」ということになってくる。
 科学的に調べた歴史というものもある。遺伝子は嘘をつかないように思われるが、西郷隆盛はどんな思想を持っていて、海外まで留学した村田新八はなぜサイゴウニ従ったのかはわからない。後世の人の想像力を掻き立てるだけである。

 愚者は経験に学び、か。よくわからない言葉だ。一体誰が言った言葉なのだろう。

カメノテ~ナザレ

2018年12月28日 | 日記
 紀伊長島で「港市」をやっている様子がテレビの地方ニュースで流れた
、ギョギョギョ、カメノテがある。岩場の割れ目に植物のように、根を張るように群生しているあのカメノテである。この辺ではタカノツメとも言う。しかもリスボンのレストランで食べたのと同じくらいのサイズである。早速、紀伊長島に住む姉にカメノテ購入の電話依頼をした。姉は生ガキにあたって入院してからというもの、貝類は食べない。姉の夫はカメノテを食べると吐くのだそうだ。
 翌日、朝、購入したと電話があり、1500円だったという。1500円なら相当量あると思った。
 紀伊長島も久しぶりである。旧商店街は一人も人と出会わなかった。人が歩いていないのである。海岸線の長いこの町も南海トラフで滅びるのだろうか。人口は減っているのだから、わざわざ海の近くに住まなくてもいいのである。
 カメノテは1キロほどあるのだろうか。個数を勘定しなかったが、20コはありそうである。これでは大変な貴重品である。
 カメノテは塩ゆでをして食べる。不思議なことに、アルコールはなんでも合う、ワインでも、日本酒でも。
 明日息子たち家族がやってくるので、半分残しておこう、息子はこれをすきだったかどうか忘れてしまった。
 カメノテは幼い時からの磯の思い出であり、大人になってから、イガミを釣るために船から磯に飛び移ったときに、エサのホンダワラを船内に忘れてしまった。釣りにならないので、何かエサになるものはないかと磯を見渡しら、カメノテがあったので、ナイフで取り、これをエサにしていがみを釣った時は嬉しかった。
 もうひとつ大人になってからの思い出はリスボンから列車にのりフェニキア人の海辺の町ナザレに行ったときだ。ここではイワシもアジも尾鷲の人と同じような食べ方をする。干物である。ナザレの砂浜にはいわしやアジを干している。
 ナザレでは両替をするところが銀行しかなくすでに閉まっていたので、現金が残り少なかった。夕食のため、レウトラン内を外から覗いていると、大きなカメノテが大皿に盛られている。それに惹かれて、不安気に入った。カメノテの料金がわからない。ええい、ままよ、と手でつかみ取りして、夕食の酒のつまみにした、美味しかった。そして夕食代は持ち合わせの現金で済んだのだった。小高い丘の斜面にレンガ色の屋根と白壁、その窓やドアが色とりどりの家が立ち並んでいた。夫をなくした女性は毎日黒色の服を着て、日向ぼっこをしていた。
 このナザレの浜でアマリア・ロドリゲスがファドを歌った映画があった。ポルトガル映画で他しか「白い町」という題だった。白黒映画だったと記憶する。
 アマリアは老い、若いファド歌手が出てきたころだった。リスボンに住んでいるという女性と出会い、彼女にその若いファド歌手の名を知ったのだった。翌日その歌手のCDを持ってきてくれた。ぼくはその方の名前と住所
連絡先を聞いておくべきだったと後になって後悔した。今頃どうしているのだろう。あれから23年になる。