25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

歌謡曲ベスト5

2018年12月18日 | 音楽
 ちょっと言っておきたいことがある。それは昭和時代の歌のことである。
 もちろん、個人による好き嫌いはある。昭和の歌でどの歌が一番良いと思うか。ネットで検索してくれればわかるだろうから、ぼくはここで言いたい。

 1位  優しい雨 園まり
 2位  何も言わないで  園まり

 とぼくの場合、園まりが続く。バック音楽もとてもよい。
 3位  Woman W の悲劇(薬師丸ひろ子)
 4位  一青窈の「ジェラシー」
 がドドーンと来る。園まりの「何も言わないで」は知っていたが、「優しい雨」は最近知った。こんんなしゃれた名曲があるんだ、と感心していたら、作曲は「ウナセラディ東京」の宮川泰だった。宮川泰は数々の名曲を生んでいるがなにやら女性が歌うによい名曲ばかりである。

5位以下になってくると昭和も平成もあやしい。サザンオールスターズの曲や矢沢永吉、陽水やらいろいろ入ってくる。ぼくは「我らパープー仲間」も好きだし、「ヤーレン シャッフル」も好きでたまらない。ただ、なぜか知らないが、演歌は好まない。不倫ものの演歌は特に好まない。
 まだ遊び心のあるムード歌謡のようなものなら歌うし、歌手の選り好みで歌う場合もある。例えば、美空ひばりの「裏窓」は好きだし、都はるみの「大阪しぐれ」は大好きである。
 さすがに舟木一夫や橋幸夫の歌となってくると恥ずかしくなる。
 今度、舟木一夫が「その人は昔」というアルバムを出したが、やはり懐かしいものの恥ずかしい。

 これは今のところのベスト5であって、また来年は違っているのかもしれない。 

 今年の紅白は見ずにおこうかな、と思っていたら、サザンオールスターズが出る、トリのまた次の最終で出るというニュースを聞いて、歌心が甦ってきたのであった。いっそこのまま、山口百恵、ちあきなおみ、西田佐知子にも出てほしい、と思う。
 歌は良い。未来もあって反対の懐かしさもある。流行歌手。時代が跳ね返ってくる。岡田さんの歌「少年時代」も良いし、「背中まで45分」も良い。岡田さんというのは友人である。ときどき、一緒に歌いに行く。それは気持ちがよい。
 歌には不思議な魅力がある。カラオケは上手ではないがカラオケがなかったら生きていけそうもない気がする。岡田さんは今日不調で、忘年会をお休みした。

 
   

頭が良いって

2018年12月17日 | テレビ
 「記憶力が良い」=「頭が良い」ではない。実はこういうことは普通に生きている人なら誰でも知っている。わかりきったことなのに、テレビクイズ番組だのワイドショーなどで、東大生や京大生は「頭が良い」と宣伝しているようなものだ。大学入試もペーパーで行うものだから、記憶力テストになってしまう。記憶力を駆使し、記憶力による知識で物事を考える方向への試験模索もやはり記憶力を元にしている。記憶力とその知識の組み合わせ思考ならAIで上等ではないか。記憶力が頭の良さ、だとするのはどうも気にいらない。
 それでは自分が思う頭のよい人とはどんな人か。すぐに浮かぶのは「雨ニモマケズ」の詩のような人である。
  ・・・・・・・・
  丈夫ナカラダヲモチ 慾ハナク 決シテオゴズ イツモシヅカニワラッテイル 
  一日ニ玄米四合と味噌ト少シノ野菜ヲタベ
  アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズ
  ヨクミキキシワカリ
  

 と全部紹介はしないが、「頭の良い人」とはこういう人なのだろうと想像する。学歴や肩書を名誉と思い、そんなプライドで生きている人を見ると気持ちも沈む。「私は頭がいいのよ」「オレは東大だぞ」と自分は言わなくてもテレビ局だの雑誌社だのが言ってくれる。このマスコミも困ったものだと思う。一体いつになったら、人間を表すのに、学歴を書くのが終わるのだろうか。サンデー毎日、週刊朝日が 高校別の大学進学ランキングを毎年行っている。いつ終わるのだろうか。「人」を表す規格が変わっていかなければならない。マスコミが共同幻想の多くを作っていることが自覚されなければならない。
 たぶん変わってくるのだと思う。次の産業革命はそんなものまでも巻き込んでいくことだろう。 
   

ファーウェイの副会長逮捕事件

2018年12月17日 | 社会・経済・政治
ファーウェイの副会長逮捕は深刻な様相を帯びているように思える。カナダは条約があるばっかりに逮捕をさせられ、身柄をアメリカに送ることの代わりにカナダ製品の排除にかけられている。
 ファーウェイは100%民間会社で急速にしたら成長したらしいが、日本の企業に敬意を表しており、ファーウェイの機器の部品の半分ほどは日本企業のものらしい。その部品輸出で今年は6800億円になり、すぐに1兆円を突破するだろうと予測されている。

 ぼくらがアメリカのグーグルやアマゾン、アップル社やマイクロソフトのものを使うように、ファーウェイの機器や交換機を使うとなぜいけないのか。アメリカのものが正しいのか、ファーウェイのものが一党独裁の国の企業だからいけないのか、ちっともわからない。

 安全保障上の問題があると言っても、それはあまりにも難癖をつけるようなもので、それだったら車も電話そのものも、科学技術そのものから日常使う衣類や文具でさえ、戦争になれば使うものである。人間の叡知は戦争を二度と起こさない、という理想に向かうことにある。

 個人の自由、人権、平等を重んじ、標榜するアメリカ。かたや14億の人口をかかえ、一党による指導、支配の下、自由、人権、平等は党に逆らわない限りにおいて認めるという中国。トランプ大統領は習近平のようになりたいのではないかと思ってしまう。議会の片方をとられ、物事が遅々として進まなくなってくると、民主主義政治がよいのか、一党独裁の専制政治がよいのかわかりにくくなってくる。

 ヨーロッパは難民、移民問題でナショナリズムが台頭してきている。不気味なことであるが、一国主義でやれるはずもなく、互いに補い合い、やっているのが現在の世界である。ヨーロッパもどうなっていくのか。

 ただ、科学は進展していくので、技術の革新を止めることはでえきない。AIもIoTも情報処理能力やスピードもより機能を増していく。我々個人のデータなど本当言えば、もう何もかもおわかりではないか。
 日本はとうに早くからアマゾンにやられている。グーグルにやられている。しかし、アマゾンもグーグルも便利である。仕掛けも楽しい。5Gの携帯が入ってきて何が悪いか。皆競争すればいいではないか。それを政治で排除するというのはおかしなことだ。日本の部品メーカーも注視していることだろう。企業の存続に関わってくる。

 よくマスコミが中国人の振る舞いを報道番組で笑うかのように報じるが、中国はそんな国だとえらそうに(過去にやってきた日本人の振る舞い方も忘れ)見ていると見間違えると思う。
 14億の消費者に売り込める環境を作るのは外交の仕事であるが、民間はどんどんと偏見を越えていくことだろう。

  


世知辛い

2018年12月16日 | 社会・経済・政治
 医学部の入試得点操作をしたとぞろぞろと発表している。「赤信号みんなで渡れば恐くない」というのと同じ発想だ。日本医科大学で発覚したあと、他の大学はいつ発表するか、機会を見ていた。あるいは談合して同時発表とした。インテリがまだ古い皮質に包まれて生きている。腹立たしい。受験生は平等であるから受験も成り立つはずなのに、不正入学をさせている。これらの大学をこれまで受けた学生はたまったものではない。じんせいが変わってしまった人もいるかもしれない。大学側は過去の調査もして、本当のことを公表するのがよいと思う。

 今年の漢字を発表するのはなぜ清水寺の僧主なのか知らないが、それは兎も角、「災」が今年の漢字である。灼熱、水害、地震。気候の変動をさらに思わせた。僕が暮らす尾鷲は逆に台風コースや水害コースから近年外れているので、もうひとつピンと来ない漢字ではある。

 自分の場合はどうか。今年は書いておかなければならないことはほぼ書いた。そのために放って
おいた宿題に今年の後半から取りかかった。今年はまた、聖書を読み、聖書関連本、美術、映画、古代文明、中東、ヨーロッパの歴史などに関心を寄せたのだった。人類は宗教の組織化を克服できるだろうか。
 今年の漢字を言えば、「準」である。目当てに従うことを言う。目当てになる基準のことも言う。まだ挑戦への準備段階である。挑戦者としてはまだ準挑戦者である。

 今年の最後に内蒙古経済文化協会の会長と会える手はずになっている。たぶんここから本格的に砂漠化への対処方法が始まるが、こっちのほうの実験も「綿屑」が参入して、あらたに混和剤と綿くず、セメント、砂などの配合などに頭がゴチャゴチャになっている。縁あって、籏山氏がぼくに預けた簡易な砂漠緑化方法の解明に頭を費やした。

 年の瀬とは借金つけ払いを済ませることを川の瀬に喩えられている。そう言えば、九鬼では盆と暮れの二回払いだったと聞いたことがある。
 どうしたらそんな資金やりくりができるのだろう。
 紅白歌合戦はなんの興味もわかなかったが、サザンオールスターズが出るというので、観る気になった。
 人間は電車の中でも、喫茶店でも、歩きながらでも、手のひらに乗せたスマホを見ているようになった。ぼんやりと遠くを見たり、なにもしないことがいかにも不安かのようにスマホ画面にとり憑かれるようになった。いずれ世界の人間がイゾラド以外そうなる。なんだか世知辛い。
 
 
  



かぐや姫

2018年12月15日 | 社会・経済・政治
 尾鷲市に九鬼という浦村がある。九鬼湾に入り込んだ海の色は山に囲まれているのと狭いのとで色が暗い。平地が1本の道沿いにしかなく、他はいりくんだ路地沿いに家が密集して建っている。昔はブリ敷で豊かな村だった。今もブリは獲れていうが昔ほどではない。若者は外へ移住し、現在では400人ほどの集落になっている。限界集落である。
 そこに週末の金曜、土曜、日曜だけ開く古本屋を都会からやってきた若い女性が開いた。典型的貴種流離譚である。いわば「かぐや姫」であり、「桃太郎」である。よそから高貴そうな人がやってくる。村人は素性のしれない旅人のような人だとらえ、なにかと親切にする。
 人口が一人だった須野村にも若い夫婦がやって来て家を借り、雑貨屋を開いた。一時、地方紙や地方テレビ局が話題として紹介する。この雑貨屋は今は存在しない。

 人口が減り、高齢者が多い町になってくると、町の中心地に近いところに老人が集まってくるのがよいと思う。例えば尾鷲駅前なら津波の心配もなく、そこに市営の高層ビルでも建てて、貸しマンションか売りマンションでもいいから、とにかく集まった法学よいと思う。
 浦村の人口具合によれば水道を維持するのも、社会インフラを維持するのもたいへんなことになる。
 昔、人口が34.000人だったのが今17.000人である。なおも月20~30人減っている。尾鷲市民の税収だけでやっていけるはずもなく、多くの市町村は夕張市のようになりたくないだろう。夕張市は水道代も日本一である。
 衰退していく町を元気づけようと、都会のものが田舎暮らしがしたいとそのとき思ってやってみても、限界集落となれば維持がマイナスに働いていくのである。人がいる限りは道の舗装も、村の夜間灯も、水道も供給しなければならないのだ。だから、今コンパクトシティが言われるのだ。九鬼、早田は漁業だけの産業村。人は住まない。人は尾鷲の中心地あたりに住む。

 九鬼の古本屋さんはなぜに九鬼で古本屋開業なのかテレビの紹介では「風景がいいから」くらいしか紹介しなかったが、九鬼がそれほど風景がよいとも思わず、そんなセンスかよ、と思ってもしまった。この方も「かぐや姫」なのだろうか。いい思いは一年。それからが本番だよ、とイジりたい。
 本当言うと、ぼくには「古本屋を開くのがわからない」のだ。

 
 

すっきりがよい 

2018年12月14日 | 社会・経済・政治
 韓国については慰安婦、徴用工問題について、先の戦争行為を深く頭をさげて謝り、最終的解決をする。北方領土、尖閣諸島は共同統治とする。竹島も共同統治をする。沖縄の米軍基地は撤退してもらう。日米同盟を廃棄し、どの国とも安全保障上の同盟は締結しない。巻き込まれる戦争も、侵略の戦争はぜったいしない。日本は多元外交で自主独立する。
 外交として言えば、上記のことが解決されればすっきりとするというものだ。議論沸騰になるだろうが、どこかで解決しなければならず、さっさとやってもらいたいと思う。
 中国とも韓国ともアメリカとも対等の関係で仲良く付き合いをするのが理想的である。中国、韓国との関係のギクシャクは先の戦争の侵略者であった日本の謝罪意識の濃淡を感じるからだろう。
 
 50年前に光ファイバーだ、なんだと言っていたのが実現し、この頃はIotだ、AIだ、ビッグバンデータ、それに5Gなどという言葉も現れた。ちょっと脇道にそれるがスフトバンクはPayPayで買い物をすると、100億円分ある期間に渡って客に還元するという。100億円プレゼントしてでも儲かるなにかがあるのだ。

 ドイツの学生2人と社会人1人の三人で、空飛ぶバスタブを作り上げ、バスタブに乗って空を飛び、二つ合わせて潜水艦を作り、他にもいろいろな乗り物を作っていた。テレビ報道で見ていて、これなら空飛ぶ乗り物はもう時間の問題だな、と思ったのだった。
 世界はさらに技術的には一体化していくようである。これは科学が地球全体に行き渡っていくということである。

 世界の国々には歴史的段階論は確かにあるが、各国にとっては科学技術の発展段階などすっ飛ばして先端まで行ってしまう。電話もあまりなかったバリ島で、あっという間にノキアの携帯電話が入ってきた。通信用の電柱と線は必要なくなったのを目の当たりにした。
 確かに日本の方が科学技術が進んでいた時代があったが、バブルがはじけてから、あれよあれよという間に、中国に追い抜かれてしまった。

 難民やグローバル化の弊害だとでも言うようにナショナリズムが台頭している。排除をしても人は侵入してくる。スマホのSNSなどが排除にしろ、侵入にしろ土台にある。ネットワークである。
 科学は国の垣根をスッと越えてしまうように思えるが、もしかしたら、現在のアメリカと中国との確執が示すように安全保障上の問題になっていきそうである。
 癌の特効薬が国によって遮断されるなら、それはないだろうということになる。同じことだと思うが、5Gが使えないというのも妙な話だ。アメリカからのお達しを受けて、政府も民間企業を自粛させるのだから、本当のところどうなっているの、と訊きたいものだ。
 なんでもスッキリしておいた方がいいのである。グチャグチャとしているところに、5Gみたいなことが起こってくる。

16歳

2018年12月13日 | 文学 思想
16歳。将棋。フィギュアスケート。卓球。今年の漢字が「災」であれば、特別な数字は16だと思う。ぼくの時代の16歳の頃の社会は整っていなくて、あらゆる面で情報が万遍に行きわたらず、粗雑で、潔癖症的なこともなく、緩慢に世が動いていたような気がする。寛容であったような気もする。16歳の男子・女子が活躍するということはなかった。16歳と言えば「猿」みたいなもので、ぼくももちろん「猿」であったが、空を見ればぼんやりと薄い膜がかかったようにその向こうにある青い空は見えず、頭は朦朧としていた。ただ身体だけはだんだんと大人に近い骨格になっていく風で、声も変り、人相も変って、まだ勉強せなならんのかよ、と嫌々ながら学校に行き、クラブに逃げ込んでいた。今テレビに映る16歳の男子女子の受け答えもしっかりしているようで、おもわず、へえ、と唸ってしまうことがある。
 今は、自分は何をしたいかを決めれば、どうすればその目的に達することができるか、というマニュアルやらの情報がある。出来得る限り親も応援してくれる。親が子供につき徹底的に指導者として振る舞い、励まし、叱り、助言し、時には星飛雄馬の父のような鬼になってもやる、という姿も現実にあるものだとテレビでも知る。
 ピアン、バイオリン、バレエetc.、物になるかどうかはわからないものに、幼少期をかけ、ほんの少数が天才ぶりを発揮し、有名になる。
 フィギュアなどは切ない競技である。成長期の真っ只中の頃が一番体が動く。競技中であっても背が伸びている感じがする。
 今の自分と一年後の自分が全く別物であるという感覚はフィギュアをやっている人達は実感的によくわかることだろう。
 普通の人は普通に背が伸びていくだけで、それが障壁になるとか、そのことに神経質になるということはない。
 100歳まで生きるとして、20年ほどを徹底的にあるひとつのことに集中する。それが終わったあとの人生は4倍もある。

 「千年の愉楽」の「天狗の松」での主人公文彦は胸板の厚い筋肉質の若者だった。山の飯場暮らしで土方をして、お金を得ては新宮の路地に帰ってくる。ある日、巫女たちの修行の場に出会う。巫女になる修練者たちは女郎もする。文彦は色白で肌理の細かい女に取り憑いてしまう。女も取り憑いて、文彦と一緒に路地に来て暮らすのである。接合だけが仕事のようにいるのだが、ある日、女の求めるままに交わっていると殺してしまうことになった。天狗の松の下に埋めた。
 また飯場暮らしを始めるが、突然、醒めたように、こんなつまらん命など要らん、と思って、首を括って死んでしまう。
 文彦と16歳の男子女子を一緒にするわけではないが、ぼくのように過激で過剰な集中をしたことがない人間からは彼らは異人に見える。こころの有り様が全く違い、ぼくには理解不能のこよだろう。

Paypay

2018年12月12日 | 社会・経済・政治
ソフトバンクが行う「Paypay」 のあらましをテレビのモーニングショーでやっていた。ソフトバンクだから必ずYahoo と連動している。ぼくはほとんどYahoo を使わないので、昔勝手がわからないまま、ID登録をした。今はIDは一本化しているが、Yahoo だけが違っている。認証の仕方など指紋にした覚えはないのだが、「指紋で認証が必要」と出てくる。
 こういうときに「ITトラブルサービス」があればよいのにと思う。ぼくはこれまでのIDとパスワードをやめ、指紋認証をやめて、新たに登録したい。

 中国では電子マニーが急速に都市部で普及してきて、ホームレスでさえ、キャッシュレスかーどなり、スマホのアプリなどに登録しないとやっていけないという。
 ぼくはこれから中国に行くことが多くなるかもしれないので、ちょっと気がかりになったが、考えてみればプリペイドカードが空港かどこかにあるだろうと思い、また中国の空港でかスマホに登録してチャージするサービスくらいはやっていることだろうと思う。常識的にはそうなる。でないと中国は観光客やビジネス客を排除することになる。

 普通、仮に百五銀行の通帳から他の銀行の口座に振り込みをしたとすると、取引はいかにも百五から他の銀行にお金が渡ったかのような印象を受けるが、それな日銀内での数字の移動があるだけである。日銀にお金がたまりすぎると世にお金が回らないので、マイナス金利を導入してでも、日銀にお金を置いておくと金利を逆にもらうよ、と日銀側は言うようになった。だがそうなっても銀行に資金の使い道はなく、特に地方の銀行は青息吐息である。

 スーパーのイオンに行っても、キャッシュレスを勧めている。イオンカードで支払えばポイントが多くつく日があったり、特別なサービスがある時もある。ワオンカードというのもある。これは現金をチャージするものだ。客を囲い込むのによい方法でもある。現実に老人がサイフを出し始めて支払いをしているのを待っていると、カードなら三倍、四倍速いだろうとは思う。ここでチャージされたお金も日銀に行く、決してイオンの金庫に行くわけではない。日銀に集まったお金は国債を買って、利息で還元したり、自社で様々な金融商品を買う。すると、お金のやりくりのしかたで儲けるというわけだ。労せずして儲けるとまでは言わないが、金融商品を買うということや為替差益で儲けるということは「労せず」に値するとぼくは思っている。物体である現金のやりとりをなるべくなくしていき、数字のやりとりだけにする。これがキャッシュレス社会である。

 労働する者がいて、経営する者がいる。経営する者は銀行までも作って(自由化したから)、金融商品で儲ける。イオンはスーパーの業績よりも今やイオン銀行の業績の方がいいのだが、二つは密接につながっている。資本主義が最も高度なところまできている。これは高度というよりはすでに限界にまで来ていると言っていいのかもしれない。
 日本では株価が下がると政権が不人気になるので、日銀や年金機構が民間の株を株式市場で買い、暴落するのを防いでいる。ユニクロの大株主は日銀である。
 マルクスが理論で示した資本主義の社会の次の段階は社会主義であり、共産主義はその次の段階であると言ったことが現実化している。
 富めるものは労せずしてさらに富み、貧するものは給料が上がらない。
 ロシアのようなまだ農奴制が強かった時代の国に社会主義革命が起こったのは「機が熟していないままの無理ある革命」であったとぼくは思う。共産主義という言葉も汚名がついてしまっている。
 社会は静かに社会主義化していくのか、騒がしく変革していくのかわからないが、日本だけは昔から社会主義国だったのに、自分たちは自由主義国だと言っている民族も珍しいと言えば珍しい。フランスではて貧する者がデモをして立ち上がり、一部が暴徒化している。アメリカでは若者の間で社会民主主義的な政策を求める者が多かった先の選挙では多かった。 

「千年の愉楽」がテーマ

2018年12月11日 | 文学 思想
「よもやま話」の読書会では次回はぼくの担当であり、ぼくは中上健次の「千年の愉楽」をテーマとすることに決めた。それで三度め、この本を取り出して読んだ。一回めは1982年、この本が発行されたときに読んだ。ぼくは32歳だった。次に読んだのは中上の「熊野集」を読んだあとで、それに触発されてまた読んだのだった。それが確かではないが50歳くらいのときである。
 今度は自分だけで楽しむものではなく、この小説について意見も言わなければならず、よかった、面白くなかっただけでは話にならないので、じっくりと「よもやま話」を意識して読んだのだった。

 まずこの小説を読むにはエネルギーが要る。なぜエネルギーがいるかと言えば、面白くもない荒くれた色情狂のような若ものたちの死の話で、彼らを取り上げたオリュウノオバが語るのと作者がオリュウのオバが人伝えに聞いたり、実際に見ていないところは作者の想像性が入って語るという二重構造になっている文体である。また語り言葉というのは実際に文字にしてみればわかりにくくかったり語法を間違えていたりとするものであるが、その語りを意識しているせいか、、(点)が少なく、。(マル)までが長くて読みづらい。こちらの体力的な問題もあるのかもしれない。
 六篇からなる連作であるが、それぞれの主人公は意味不明の「中本の一統」若衆である。半蔵、三好、文彦、オリンエトの康、新一郎朗、達也の短い生と死をオリュウノオバの話を聞いて作者がオリュウノオバを借りて想像をたくましくして「どうでもよいような荒くれの若者」を物語化しているのである。物語は各篇の最後に現れる。

例えば、第二篇の「六道の辻」では、

 オリュウノオバはため息をついて、三好の背に彫ってあった龍がいま手足を動かしてゆっくりと這い上がって三好の背から頭をつき出して抜け出るのを思い描いた。これが背の中に収まっていた龍かというほど大きくふくれ上り梢にぶらさがった三好の体を二重に胴で巻きつけて、人が近寄ってくる気配がないかとうかがうような眼をむけてからそろりそろりと時間をかけいぶした銀の固まりのようなうろこが付いた太い蛇腹を見せて抜け出しつづけ、すっかり現れた時は三好の体は頭から足の先まで十重にも巻きついた龍の蛇腹におおわれてかくれていた。(中略)龍が急に顔を空に上げ、空にむかって次々と巻いた縄をほどくようにとぐろを解きながら上り一瞬に夫空に舞い上がって地と天を裂くように一直線に飛ぶと、稲妻が起り、雲の上に来て一回ぐるりと周囲を廻ってみて吠えると、音は雲にはね返って雷になる。

 このように何か昔の奇譚のようである。
 また各主人公の心理描写が少なく、主人公たちに行動、行為を描写することで、知性のない男には言葉もないように、乾いたセックス描写と、知性がないゆえの感覚、心情をオリュウノオバの思想を介して作者は描いている。

 小説の作り方としては優れた芸術的な手法を発見したのだと思う。ところがやはり読みづらい。100年後の人は読むのかどうかと言えば、ほんの少人数のマニアックなファンがいるのかもしれない。

 この小説は皮肉って言えば、各篇の最後の2ページほどを読むだけでもいいのではないかと思える。
 路地の物語に弱いインテリがいる。都市で生きる人間ではなく紀州の路地、まるで異界のようなところで芳香な汗をかいて、男振りのよい、肌理の細かい色白の若衆に弱いインテリがいるものだと、中上健次に一筆を寄せるインテリ多くいた。
 ぼくはちょっとそういうインテリを馬鹿にしている。

 もうひとつ。この小説によって文学的には「被差別問題」は終わった。これだけ美しく若者を昇華させたのだから、もう言うことはあるまい。 

姉妹都市のこと

2018年12月10日 | 社会・経済・政治
 1984年にカナダの姉妹都市プリンスルパート市を訪問したことがある。交換留学事業の提案に行ったのだった。市長が替わって、新しい市長は交流事業に積極的だったため、何度か社会人や学生が行ったり来たりした。僕の家でもホームステイを引き受けたことがある、プリンスルパートからの家族の夫婦を雇ったこともあった。
 プリンスルパート市との姉妹都市提携が50周年だということで、有志の方々が記念イベントをするのだそうである。そこで何かスピーチしてほしいという依頼があった。記憶もぼんやりsびている。アルバムを探したのだが出てこない。
 バンクーバーまで行き、そこから海岸線上のをアラスカの方に飛行機で飛ぶこと2時間ばかりである。バンクーバーではマグロの買い付けの商社マンをやっている友人と会い、翌日はビクトリアという島に渡って観光をした。この島にはびっくりした。ブッチャードガーデンを中心とでぃたような街つくりがされていて、街中が色とりどりの花で飾られている。カフェにハイッテモ天井までも花である。この美しさには感動した。テーマパークのようなものではないのだ。それにビクトリア市が全部一体化しているのである。カナダでは老後をビクトリアで、と希望する人も多いということだ。
 プリンスルパートでは市長を表敬訪問して提案事項を伝えた。ヨットハーバーがあった。日系人もいた。海洋性気候で暖かいプリンスルパートは尾鷲とよく似て、虹の町とも呼ばれる。だから気 BBQといえばサーモンである。ぼくらは二人だけの客であり、ものものしいものでもなかったので、市民公園有志も気楽に接してくれた。ストリップまで案内してくれたのをおぼえている。
 シアトル、バンクーバー、ビクトリア、プリンスルパートのコースでりっぱな観光コースができる。観光コースつくりを一度手伝ったことがあるが、それは添乗員のやりたがる仕事である。 新商品が新コースであり、そのコースのホテル、レストラン、トランスポートを交渉し、案内を作るのである。商品名として、だれでも、いつでもプ市から尾鷲の観光スケジュールが組めれば、事業として残ることになる。そんなことでも提案してみようと思う。

考える材料

2018年12月09日 | 日記
 保水性をもつ塊をつくるのに、セメントと綿くずを混ぜる混和剤が要る。これには何度もトライして難儀した。綿くずと接着しなければならない。全体を多孔質にしなければならない。塊りのものが土と同様の成分、環境でなければならない。化学をやるのは初めてのことなので失敗し経験しながら実験の要領というものがわかってくる。最後の仕上げにph7にするのが難しい。ペンタイプPH計で最後は測る。
 綿くずも到着した。
 さて、いよいよ本格的と言わないまでも、必要材料は揃った。保水率は50%。一回の雨を想定して、一回水をやる。
 コメリに行って、どんなものを植えて実験しようかと、見て回る。砂漠の緑化を想像して、葡萄はどうか、と思う。葡萄ができるのなら、ワイン製造もできるようになる。牧草地を作れば羊、羊毛ができる。沙棘(サジー、sea berry)の種もまだ残っているので、これも蒔いてみようと思う。
 黄土高原では砂防堤には沙棘がよく、確実で、根は深くまで伸び、実がなってジュースもできる。山の斜面はスイッチグラスがよいと思う。ほぼ妄想の世界になっているが、4年前に実際砂漠のすごさを見ている。飛行機で種を蒔いてもほとんどが無駄骨に終わる。水の都合がつくところしか再開発できない。黄河に沿って農地はあった。しかし黄河から500メートルも離れればもう砂漠である。甘草の栽培を見た。ビニールハウスもあり、いろいろな苗を育てていた。といっても、このくらいの規模のハウスで対応できる緑化など知れたものだ。砂漠は広大過ぎる。一気にやるなら大土木工事だ。農村単位で土木工事を行う。個人単位ならコツコツとだ。

 あれこれと考えながらいるのだが、考えるには考えるだけの知識が要る。ぼくの粗雑で、少ない知識量ではまだ幾つもの壁が出てくるのだろう。

 そうそう、糠漬け作りも続いている。まだ大根菜は三宅商店にある。蓮台寺柿はもう店先にあるのだけで終わりだそうな。蜜柑の季節だ。旬のものと言えば、渡利の殻付き牡蛎。台風で湖の底も荒たらしく、今年は順調に出荷されている。この前食べたらぷっくりとして美味しかった。旬のものを食べると、必要な酵素がとれるということで、酵素を作り出し、使ってしまうだけの酵素を使い減らしたくないためには酵素を効率良く取る必要があるらしい。そういったことを考えなくても旬の時期に食べる食べ物は自然と旨い。



  


そだねー、日本

2018年12月07日 | 社会・経済・政治
 ああ、貴ノ岩、やってしまった。マスコミの餌食である。貴景勝が優勝し、元師匠の貴乃花の株も上がったと喜んだが、一転急直下である。千賀ノ浦親方もジェットコースター並みである。
 スポーツ界の不祥事が続き、あおり運転だ、殺人事件だ、と楽しいニュースなどがない昨今んで、ノーベル賞受賞のオブジーボと光免疫療法というすご技を発見した京都大学出身でアメリカで研究する学者のニュースくらいだ。癌細胞もあと5年以内で脅威でなくなる。iPS細胞の発展応用研究も進んでいる。身体の部分、部分の入れ替わりができることになる。

 そんな事件の陰を這うよな麻生財務大臣のご愛人バーのお金のことにはマスコミは殺到せず、水道のことも、外国人労働者のことも、貴乃花を追いかけまわすほどに熱心ではないマスコミのアホらしさにはいつも参ったと思い、その記者たちを尊敬できなくなりそうだ。
 もう、紀平梨花しかいないんじゃないの、明るさというのは。いやいやまだある。ぼくは見ていないけど(見せてくれないとも言えるが)、桑田佳祐が一人紅白歌合戦を開き、55曲を歌いまくった、というからすごい。サザンオールスターズが今日まで生き残ったのは、昭和の味も、歌謡曲の味もどこかに残したからである。ぼくはそう思う。サザンの曲には、ザ-ピーナツも、前川清、藤圭子、園まり、弘田三枝子など昭和のオマージュが込められているではないか。

 もう一年も貴ノ岩や貴乃花が話題になり続け、結局、貴乃花はすべてを失い、貴ノ岩も引退となった。日馬富士が起こした事件だった。日馬富士はすでに引退時期で、デンモクという武器を使ってのリンチであった。それなのに、引退披露の断髪式までしてお金を集めた。
 無念、無念である。もううんざりしたのだろう。
 燃料値上がりで、デモ、暴動と国民が怒るフランス。怒りのうねりが起こらない日本。借金生活のせいで、水道工事もできない日本。金融緩和策で物価上昇2%をめざしたのに、低賃金に拍車をかける外国人雇用法案。将来への責任はどなたがもつのか。「そだねー」と言っている場合か。




 

   
 
 
 

綿屑入手

2018年12月06日 | 日記
 どうにかして「綿屑」が入手できないものか、検索方法を考えて試してみた。以前綿花栽培をしている方に電話したところ、「今は綿屑も取引されていますよ」ということで、中国の大量の綿くずも取引される産業廃棄物になっているのだろうか、と心配した。
 ぼくにとってみれば綿屑は大地に戻した方がよいと思っているので、その電話での綿花農家の回答はショックだった。
 早くしないと綿屑が入手できなくなる。この貴重なものが入手できなければ、ぼくの計画が台無しになる。
 今日は気を取り直して、検索を試みた。すると布団を作っている業者の方のブログにたどり着いた。このゴミを再利用しようという人があらわれる、と書いてある。そして無料で差し上げるので、連絡ください、と書いてある。早速メールをした。するとすぐ返事が来た。10キロもないかもしれないが、取りに来てくれるなら無料で、送る場合は手間代と輸送費で、という返事だった。
綿屑を使った保水性コンクリートの成果がでたら、お知らせします、と感謝の連絡をした。すぐに送料と手間代を振込み、早速返事があり15キロあるという。それをすぐに送ってくれた。
 夕方にたどり着いて、翌朝の午前中には綿屑の入手が済んでいた。フン、とあざ笑うかのような態度の人と無料で提供しますよ、と言ってくれる人。度量が違うなあ、とか、理解力があるんなあ、とか、それに物事の進め方が早いし、きっちりしていると感心しまくったのだった。
 明日には届くので、綿屑で実験をやりたい。春になれば、鉢やもっと大きいもので、保水力をもち、地球のあらゆるミネラルをもつ混和剤を少々のセメントで綿屑を接着させる。また混和剤と綿屑と砂(シルト状の砂)を混ぜて、人口土にする。

 さて、こういったものに市場性があるかという問題がある。もしかしたら、すでのより簡便で、より安く緑地化できる方法がすでにあるのかもしれない。そう思っていたら、日本内蒙古経済文化協会の会長からメールがあり、今日から砂漠の都市フフホトに行くのだという。市場調査をお願いした。緑地化をどんな方法でやっているのか。ぼくが知り得るだけの範囲でやっているのか、新しい優れた方法が出て来たのか。自治政府は内蒙古の砂漠に道を通し、砂防提を作り、農地、牧草地、森林など、全部緑化してしまう壮大な意志をもっているか。その辺を知りたい。三国志時代の魏のふぃうっかツ

 やる気になれば、人は繋がってくる。

 第三回目の素人実験動画
 https://youtu.be/wI5jPHu-oSc
 

あおり運転と言葉

2018年12月06日 | 社会・経済・政治
あおり運転をされ二人の夫婦が高速で止められ、外に出され、後続のトラックにはねられて死んだ。この裁判が連日ニュースで扱われる。
 あおり運転をしていた男は高速のPAの通路に車を止めてタバコを吸っていた。通路に停めるのは非常識でマナー違反である。被害者は「邪魔だ、ボケ!」と言ったらしい。加害者はプッツンした。こいつには勝てるだろうと思ったのだろう。被害者のこの言葉がアダとなった。別の言葉はなかったのか、と悔やまれる。言葉は暴力以上の暴力にもなることは誰もがわかっていることだ。物理的、肉体的暴力はダメだ、と警鐘するが、言葉も暴力になったり、暴力を引き起こしたりすることもあるのだ、とこの裁判はわかりやすく示している。
 言葉においては被害者もいけないことを言った。ボケ!は余分だった。しかしマナー
違反しているのは加害者の方で、追いかけて、あおって、高速道路上の追い越し車線で止めて、外に引きだし、「殺したろか」「海に沈めたろか」と怒鳴り散らし、威嚇するほどのものでもない。ボケはボケなのだから。

 あおり運転がよくニュースになる。そのたびにドライブレコーダーが売れるのだろう。風が吹けば桶屋が儲かるってやつだ。
 一瞬に両親を失った子供らは、死刑にでもしてもらいたいものだろう。

 言葉のやりとり。6人を殺して自殺した男も妻との言葉のやりとりで鬱屈していたようだ。
 関取貴ノ岩が付人の言い訳にプッツンし、手のひらと拳で数発頬を殴った。一番やってはいけない人がやってしまう。
 ぼくもこの前スナックで老人のご注意にプッツンしたばかりだ。ぼくらは言葉によって生きているし、言葉の扱い方が文化でもあるので、加害者にならないようにしたいものだ。
 「時計仕掛けのオレンジ」を思い出す。ベートーベンと暴力を好んだ少年は脳の手術をさせられ、ベートーベンを聞けば吐き気がし、プッツンしない男に戻る。すると過去にやられた少年たちからいじめられ、暴力を、受けるという近未来の話だった。ぼくが映画をみたのは1972年だから、スタンリーキューブリックという映画監督も大変な想像力だった。

スーパーニッカは旨い

2018年12月05日 | 日記
 マッサンの「スーパーニッカ」の旨さに、今更ながら驚き、これまでのウィスキーの試飲旅は何だったのかと言いたくなる。
 サントリーの「オールド」というウィスキーが50年前から15年ほどの間スナックのどこに行ってもあった。スナック=オールド だった。ニッカは当時競争相手ではあったものの圧倒的にサントリーがスナックバー業界を寡占化していた。スーパーニッカはオールドに対抗するためか、リザーブに対抗するためか知らないが、リザーブより旨いものだから、これはオールドも馬鹿にできないとも思い、オールドを見るたびに買ってみようかと思う。だが買っていない。20代の頃の
無理して飲んだ飲み物であり、味もなにもわからなかったものだからである。旨かったという印象がない。もしかしたら旨いのかもしれない。
 サントリーのヤマザキが香港で2500万円だったか、そのくらいの値がついてあきれたのだが、それは50年ものだった。50年物なんておいしくないだろうと思うが、ヤマサキの一番安いピュアモルトでさえ、値上げが続き、いよいよ1万円に近づきつつある。
 スーパーニッカは他のニッカやサントリーの「カク」や「オールド」「リザーブ」「ロイヤル」のようには置いてないのだ。尾鷲ではまずイオンにも、他のスーパーにも酒屋にもないのだ。ニッカ「余市」や「竹鶴」「宮城挟」よりも旨いと思うのだ。確かに「余市」は3年前までは旨かった。しかし、若返った「余市」は「スーパーニッカ」にかなわないだろうと思う。
 このウィスキーは「響」「ヤマサキ」を超えるように思うのだが。まあ好みの問題である。がマッサンの心髄がこもっているように思える。3日、4日間で飲んでしまうなんて、そんなウィスキーはヤバイと思う。
 ウィスキーは命を縮める飲み物だと思うので、(と思うと裕次郎とか美空ひばりを思い浮かべる)、用心、用心と思いながらも、ついついもう一杯と飲んでしまっている。かつてどんなスコッチを飲んでも、そうなることはなかった。それで驚いたのだ。
 γGTPが高めになっており、医者からアルコールと食事の量を減らすよう、言われた矢先のスーパーニッカ発見であった。
 この頃のウィスキー人気で、原酒がなくなる事態が各社続いており、新製造会社もいくつか誕生している。イノベーションが苦手な日本で、なぜウィスキーが世界一位をとり、世界でニンキガあるのだろう。サントリーとニッカがよほどに優れた企業なのだろうか。