エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

しっとりとした雨の日

2010年05月23日 | 日記
一日中、雨が降り続いている。
けれどザッと降るのでなく、しっとりとした降り方で心が休まるのである。
植え込みの樹木や花々が、やはりしっとりとしている。



葉脈が浮き出ているようで美しい。
葉のリンクの上を滑っている雨滴が、まるで甘いきみの涙のように見えてくるのである。



モミジの葉の繊毛のようなきれぎれが雨に打たれている。



赤いセイジの花は多いけれど、白いセイジも仄明(ほのあか)るく見栄えがする。



シランの花は雨に打たれて、俯(うつむ)きかげんである。
けれど、花の色は雨に濡れて一層鮮やかになっている。

今日の雨は、きっと燕の黒い羽も濡らしているのだろう。
軽快な飛翔に差し障りはないだろうか?

燕のことが少し心配になってきた。



雨に打たれる花は・・・うたれ強い花であってほしいものである。

とまれ・・・今日の雨はしっとりしている。






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                     荒野人

時間について考える

2010年05月23日 | 日記
時間について考えてみたいのである。



川の流れは時間である。
その水の量が、質を決めるのである。

翻って、質が川の価値を決めることもある。
水質とも言う。
四万十川がその典型である。

清浄な水が、滞ることなく流れ行く。
ただ余りに清すぎてもいけない。

「水浄ければ魚住まず」であるのだ。



人の器は「清濁合わせ飲む」器量であると言われて久しい。

さて、時間は常に平坦になど流れていない。
時間の流れは、緩急と密度が変わるのである。



新緑の重なりは、次元を積み重ねているように見える。
重層的・多角的な重なりは奥深さを感じさせるのである。
その流れを感知できるかどうかである。
感知し、いかに行動するのかで人の器は決まるのである。

そして、ことの正否を分けるのである。



ひらめきや感動に敏感であることが、その人の分水嶺の高さと質を決めるのだとニーチェは言っているのである。

ここぞという時のないまま今に至ったぼくではあるけれど千載一偶のチャンスが来た!
と思える感性を磨いておこうと思っているのである。



矢車草が宙に浮いて咲いていた。
この花は、いつも思うのだけれど「時間をうっちゃっている!」

見事である。






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                     荒野人

ファースト・F・ルネッサンス・・・薔薇の名称です!

2010年05月23日 | 日記
ファースト・F・ルネッサンス・・・格調高い名称である。



ルネサンス・・・ぼくたちは文芸復興と教えられた。

ルネサンス(仏: Renaissance 直訳すると「再生」)とは、一義的には、14世紀 - 16世紀にイタリアを中心に西欧で興った古典古代の文化を復興しようとする歴史的文化革命あるいは運動を指す言葉である。

代表的人物は、レオナルド・ダ・ヴィンチである。




レオナルド・ダ・ヴィンチによるウィトルウィウス的人体図である。

それにしても直訳すると「最初の再生」となる。
この薔薇はどんな運命を背負っているのだろうか?
とも思う。



ルネサンスという言い方であるけれど、時代(14世紀 - 16世紀)を指すこともある。
いまや普遍的に使われるのである。

ぼくたちは「文芸復興」と教えていただいたけれど、いまでは「ルネサンス」と時代を表現する。
再生であることは論を待たないのである。



最近の薔薇は、花の種類が多くなってきた。
バイオ技術の発展による至福である。
農業あるいは園芸が、これからの社会のキーワードになってくるであろう。

それは、先進的技術の踊り場であるからに他ならない。
この薔薇は1982年米国で産声を上げたのであった。



踊り場は必ずクリアされる運命にある。
不断の先進性こそが人類発展の要諦である。

ファースト・F・ルネッサンス。
それにしても格調高い名称である。




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