エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

「からまつ」との出会い

2013年04月20日 | ポエム
ぼくは60歳を過ぎて、俳句と出合った。
その俳句修行は、俳句結社「からまつ」という場である。

「からまつ」との出会いは、幸せであった。
由利主宰との出会いこそが、ぼくの俳句道への導きであり、気づきであった。
長い間、詩を紡いできた。
言葉の魔力も知っている筈であった。

けれども、俳句の言葉は次元を異にしていた。
言葉に魔力を求める必要もなく、ただ素直に言葉を紡げばよいと知らされた。
それが、ぼくにとって新鮮だったのである。



落葉松の芽吹きである。

落葉松林は、秋・・・鮮やかな黄葉を見せる。
その鮮やかなまでの黄葉こそが神髄である。



いま、俳句結社「からまつ」には優れた俳人が密集している。
あたかも群像である。
由利主宰の努力の賜物であろうか・・・。






「ひたすらの学びに気付く春嵐」




ぼくは、からまつと出会い、俳句に目覚めたのである。



     荒 野人

団子花・・・手毬の花

2013年04月19日 | ポエム
団子花、手鞠の花である。
小手鞠から大手鞠まで花開く。

白い見栄えのする花である。







「団子花粗と咲き密と咲けるかな」







団子花では寂しい。
「花より団子」は楽しいイメージだけれど、花団子では少しショボイ!



手に載った毬。
小さな白い、それでいて妖しげな魅力を持った手。

その指は、プラチナのように輝く。



今日の手毬は「大手毬」である。
不思議なのだけれど、小手毬が、ハラハラと散ってから大手毬が花開く・・・そんな印象があるのだ。

実は同時期なのかもしれないが、どうしても、そのタイムラグが小脳に介在する。
その時差が、花の鑑賞にとって必要なのかもしれない。



春先からこの頃まで、花は色白さんが多い。



新緑のアワアワとした景色が、そうさせるのかもしれないのである。



       荒 野人

紫花菜あるいは紫大根

2013年04月18日 | ポエム
嫋に風に揺れるチューリップの添え物であったり、ハナニラの引き立て役であったり、或いは桜の借景であったりするけれど・・・。
よくよく見れば、まことに美しい。



千鳥ヶ淵の皇居の斜面に一面に咲くさまは、何とも華美に見えるのである。
ぼくは、彼女を「ムラサキハナナ・紫花菜」と呼ぶのを常としている。







「敷きつめる紫花菜目に清く」







紫花菜は、単体でも爽やかだけれど群舞の様が良い。
集合体になると俄かに華やかになるのだ。

昨日、いつもの散歩道で役所仕事の沿道整備が行われていた。
無慈悲に下草刈りが行われ、例えば姫踊子草だとか、ホトケノザ、姫女園、ヒナゲシなどが刈られてしまった。
見た目は綺麗だけれど、草花は雑草として処理されてしまっている。

寂しい。



桜が散り、その赤き蕊が散って春が深まっていく。
季語の数で言えば、春は圧倒的に多い。

多いけれど、感動の日々にあって俳句が詠めない。
感嘆詞の羅列に終わり、且つ季重ねになってしまう。
春の句は難しい。

「初心者殺すにゃ刃物は要らぬ、春が続けばそれで良い」

春の季語と初夏の季語が綯い交ぜになっている。
野人の近況である。



       荒 野人

立てば芍薬

2013年04月17日 | ポエム
立てば芍薬・・・美人の代名詞である。
立ち姿の、ナヨッとしつつも芯の通った風情であろうか。
座れば牡丹、歩く姿はユリの花である。

芍薬のエロチックな花は大輪である。
蕊の妖しげな風情が、悩ましくもある。

今日はヤマシャクヤクを紹介しよう。
実に清楚な、清廉な姿である。

芍薬は、初夏の季語である。
今日は正に初夏の気候であるけれど、立夏はまだである。
立夏は5月5日である。



今日お見せする芍薬は、とある「植物公園」で撮影した。
芍薬葉、満開であったし、ヤマシャクヤクは見頃である。

牡丹が「花王」と呼ばれるのに対し、芍薬は花の宰相、「花相」と呼ばれる。
ボタンが樹木であるのに対して、シャクヤクは草本である。



いつも思うのだけれど、芍薬はもう少し慎みを欲しいのである。
蕊があまりにも煽情的であり、挑戦的であるからだ。



秘すれば花・・・と言うではないか。



世阿弥の「風姿花伝」である。
最初の能楽の理論書である。



「秘する花を知る事。秘すれば花なり、秘せずば花なるべからずとなり。この分け目を知る事、肝要の花なり。そもそも、一切の事、諸道芸において、その家々に秘事と申すは、秘するによりて大用あるが故なり。しかれば、秘事と言ふ事を現はせば、させる事にても無きものなり。」

とある。

「先づ、この花の口伝におきても、ただ、珍しき、花ぞと、皆人知るならば、さては、珍しき事あるべしと、思ひ設けたらん見物衆の前にては、たとひ珍しき事をするとも、見手の心に珍しき感はあるべからず。見る人のため、花ぞとも知らでこそ、仕手の花にはなるべけれ。」

原文を紹介した。
秘する事でこそ、花となる。
上花の神髄である。







「山シャクヤク全き白や誘う蕊」







これが「ヤマシャクヤク」である。
山にあっても悩ましい。
だがしかし、透き通るような色白美人である。

因みに、花言葉は・・・。
「内気」「はじらい」「はにかみ」「恥ずかしさ」とある。

シャクヤクの根は、消炎・鎮痛・抗菌・止血・抗けいれん作用の生薬である。
漢方では外せない生薬である。


       荒 野人

花筏

2013年04月16日 | ポエム
今日の花筏は花卉である。



この花筏では無いのである。
この花筏は、桜の花びらが川などの水の流れに落ちて「イカダ」のように流れ下る様を言う。
この景色も風情がある。



今日の花筏である。







「花いかだ葉の上一輪とてもなく」







花言葉は「移り気」とある。



花が実生になる頃は、季節は晩夏から初秋にかけてである。
このように、黒く丸い実を葉の上に載せる。
決して移り気ではないのである。



艶のある小さな丸い玉である。
この場合、「丸い」は「まろい」と読んで欲しい。
カラタチの金の玉が「まろい」のと同じ感覚である。







「一葉のしとねにまろぶ花いかだ」







お目にかかるのは、かなり困難である。
かつては、山を歩いていると必ずお目にかかった。

花が地味だから、気づかないのかも知れない。
そうだとするなら・・・寂しい。



      荒 野人