自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

★2025能登レジリエンス元年~②

2025年01月03日 | ⇒トピック往来

  それにしても不気味な逮捕劇だ。元日の1日午後、石破総理らが出席した能登半島地震と奥能登豪雨の追悼式会場の近くで果物ナイフやカッターナイフなど5本の刃物を所持していた兵庫県西宮市の大学生が銃刀法違反の疑いで逮捕された。逮捕の場所は式典会場の日本航空学園能登空港キャンパスに隣接する能登空港の駐車場。警備に当たっていた警察が、柱に姿を隠すような不審な動きをする容疑者に職務質問して発覚した。容疑者は「観光に来た」などと供述しているという(地元メディア各社の報道)。

     輪島・千枚田の歴史といまを支える「困難を乗り越える力」

  話は変わる。シリーズタイトルに使っている「レジリエンス(resilience)」という言葉を初めて耳にしたのは14年前だった。2011年6月に国連食糧農業機関(FAO)から能登半島の「能登の里山里海」が世界農業遺(GIAHS)に認定され、当時のGIAHS事務局長パルビス・クーハフカン氏が認定セレモニーのために能登を訪れた。そのとき、輪島市の棚田「千枚田」を見学した。案内役の輪島市長、梶文秋氏(当時)が千枚田の歴史について説明した。

  千枚田では1684年に大きな地滑り(深層崩壊)があり、山ごと崩れた。深層崩壊が起きた理由の一つが山からの地下水が地盤を軟弱化させたことだった。地域では棚田を再生するあたって、その地下水を田んぼに流し込み、その水がすべての田ぼに回るように水路設計が施された。つまり、用水からの分岐ではなく、田から田へ水が流れるような仕組みにした。この知恵と工夫で災害地を生産地として回復させた。この説明を受けたパルビス氏は「すばらしい景観と同時に農業への知恵と執念を感じる。千枚田は持続可能な水田開発の歴史的遺産、まさにレジリエンス(困難を乗り越える力)のシンボルだ」と感想を述べた。(※写真は、能登地震で多くの田んぼに亀裂が入ったものの、120枚が耕作され稲刈りを終えた輪島の千枚田=去年9月撮影)

  このときパルビス氏が語った「レジリエンス」はその後のFAOの公式サイトでも活かされている。「能登の里山里海」について以下のように紹介している。The communities of Noto are working together to sustainably maintain the satoyama and satoumi landscapes and the traditions that have sustained generations for centuries, aiming at building resilience to climate change impacts and to secure biodiversity on the peninsula for future generations.(意訳:能登の地域社会は、何世紀にもわたって何世代にもわたって受け継がれてきた里山と里海の景観と伝統を持続的に維持するために協力し、気候変動の影響に対するレジリエンスを構築し、将来の世代のために半島の生物多様性を確保しようとしている)

  千枚田のレジリエンスはいまも続いている。人手不足が生じたことから、棚田景観を守るために先駆けて2007年から「棚田のオーナー制度」を導入。また、昨年元旦の地震では多くの田に亀裂が入ったため、クラウドファンディングで資金を集めて修復作業を行い、1004枚の田んぼのうち120枚の耕作にこぎつけた。作業はその後も徐々に進められている。ひたむきなアイデアと地道な努力で千枚田の再生してきた。能登のレジリエンスの原点と言えるかもしれない。

⇒3日(金)夜・金沢の天気    あめ

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☆2025能登レジリエンス元年~①

2025年01月01日 | ⇒トピック往来

       昨夜は十何年かぶりにNHKの番組『紅白歌合戦』を視聴した。「NHK紅白」にチャンネルを合わせたのは、石川さゆりさんの歌声を聞きたかったからだった。昨年元日に能登半島地震があり、彼女がどのような想いを込めて「能登半島」を歌うのか、ぜひ聴きたかった。歌う前に被災地に向けてコメントを発していた。「復興への道のり、まだまだ遠いと思います。皆さんの元気な笑顔と、そして平凡な日常が1日も早く戻りますように心を込めて歌います」と。

 石川さゆり「能登半島」に込めた想い 元日「追悼式」に絶望から希望の言葉

  「♪ 十九なかばで恋を知り あなた あなた 訪ねて行く旅は 夏から秋への能登半島」。恋焦がれる女性の想いが込められたこの歌は能登への旅情を誘う。昭和52年(1977)にリリースされたこの曲は当時、能登観光にブームをもたらした。翌53年の統計で半島の尖端、珠洲市への日帰り客数は130万人を記録した(三菱UFJリサーチ&コンサルティング「平成22年度旧きのうら荘見直しに係る検討業務報告書」)。その記録はまだ塗りかえられていない。

  その石川さゆりさんは地震後たびたび能登の被災地を訪れ、避難所や仮設住宅で暮らす被災者を励ましてきたことから、今月29日付で能登町の「復興応援特命大使」に任命されたと報じられている(地元メディア各社)。石川さんは「能登のみなさんのお気持ちを思いながらしっかり歌いたい」と誓い、能登町長は「復興に向けたメッセージをいろいろなところで発信していただきたい」と期待を寄せた。(※写真・上は、NHK『紅白歌合戦』で「能登半島」を歌う石川さゆり)

  話は変わる。元日のきょうは「追悼の日」でもある。輪島市にある日本航空学園キャンパス体育館では能登地震、ならびに9月の奥能登豪雨の犠牲者を弔う追悼式が営まれ、本震があった午後4時10分に黙とうを捧げた。能登地震では石川、新潟、富山3県で504人、奥能登豪雨で16人が亡くなっている。参列者は犠牲者の遺族に限られ、石破総理や岸田前総理も参列した。追悼式のほか、関係する自治体など10ヵ所では献花台が設けられた。自身も石川県庁(金沢市)で設けられた献花台に花を捧げてきた。

  献花台の上部にはテレビモニターが置かれ、輪島での追悼式の様子がリアルタイムで視ることができた。震災で父を亡くし、経営してた衣料品店が全壊したという遺族代表の女性の言葉が印象的だった。「絶望感に打ちひしがれ、店を再建することはもう無理だと考えるようになっていました。また地震が来たらどうなるのか、と。そんな中で、地域の方々から『無理せんでいいよ。まっとるからね』との温かい言葉があり、背中を押されました」「私たちの店は、この地域に支えられてここまで来ることができたんだと、少しずつ前向きな気持ちになることができました」「そして仮設商店街に何とか店を構えることができました。それが亡くなった父への感謝であり、地域の皆さんへの恩返しであると考えています」

  オーケストラアンサンブル金沢のメンバーによる弦楽奏がしめやかに流れる中、参列した遺族320人による献花が行われた。人それぞれ、人生の復興へのドラマがこれから始まる。遺族代表の女性の言葉や石川さゆりさんの「能登半島」を聴いて、そんなことを思った。(※写真・下は、追悼式の県庁献花台の様子。午後4時10分に黙とうが捧げられた)

⇒1日(水)夜・金沢の天気    くもり

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★変わる光景、変わらぬ光景~2024能登地震・豪雨 その6~

2024年12月31日 | ⇒ドキュメント回廊

  この1年、能登を何度も往復した中で、よい意味で変わらぬ光景だったのが祭りだった。能登では元日の地震で2万4千棟の住家が全半壊した。それでも、能登の祭りのシンボルでもあるキリコや神輿を出せる町内は出して祭りを盛り上げていた。7月5日に見た能登町宇出津の「あばれ祭」に能登の人々の心意気を感じた。

           逆境にめげず祭りを楽しむ能登人の心意気

  宇出津は港町でもある。元日の地震で沿岸の地盤が沈下して港町の一部では海水面より低くなったところもある。そんな中で祭りの掛け声が響き渡っていた。「イヤサカヤッサイ」。掛け声が鉦(かね)や太鼓と同調して響き渡る。高さ6㍍ほどのキリコが柱たいまつの火の粉が舞う中を勇ましく練り歩く。神輿2基とキリコ37基が港湾側の祭り広場に集った。キリコの担ぎ手は老若男女で衣装はそれぞれ。キリコに乗って鉦と太鼓をたたく、笛を吹く囃子手(はやして)にも女性も多くいた=写真・上=。  

  この祭りにはルーツがある。江戸時代の寛文年間(1661-73)、宇出津で疫病がはやり、京都の祇園社(八坂神社)から神様を勧請し、盛大な祭礼を執り行った。そのとき大きなハチがあらわれて、病人を刺したところ病が治り、地元の人々はこのハチを神様の使いと考えて感謝した。それから祭りでは「ハチや刺いた、ハチや刺いた」とはやしながら練り回ったというのが、この祭りのルーツとされる(日本遺産「灯り舞う半島 能登〜熱狂のキリコ祭り〜」公式ホームページより)。逆境に立たされれば、立たされるほど闘争心をむき出しにして元気よくキリコを担ぐ、そのような言い伝えのある祭りなのだ。

  8月24日には輪島大祭の住吉神社の祭りに行ってきた。境内は震災で本殿が全壊し、高さ7㍍もある総輪島塗の山車や曳山も倒壊、鳥居や石灯籠も倒れた。そんな中でも、若い衆がガレキの山をバックに祭り太鼓を披露していた=写真・下=。前日までは人手が足りないのでキリコは出さないことになっていたが、祭り当日になって仮設住宅や金沢などの避難先からキリコ担ぎの仲間たちが続々と集まり、夕方になってキリコも担ぎ出された。「やっぱりキリコが出んと祭りにならん」。祭りを盛り上げたいという若い衆の気持ちが伝わったのだった。

  能登の祭りは地域の参加者だけが楽しむのではなく、参加したい人をどんどんと受け入れ、みんなで楽しむ。逆境にめげずに祭りを楽しむ能登人の心意気が伝わってくる光景だった。

⇒31日(火)夜・金沢の天気   くもり

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☆変わる光景、変わらぬ光景~2024能登地震・豪雨 その5~

2024年12月30日 | ⇒ドキュメント回廊

       能登半島を車で走っていてこの一年変わらぬ光景がある。それは、山頂に並ぶ長さ30㍍クラスの風力発電のブレイド(羽根)が回っていないことだ。日本海に突き出た能登半島は風の流れがよいとされ、ブレイドが回る風力発電は能登では見慣れた風景でもあった。ところが、元旦の最大震度7の揺れ以降、ブレイドがストップした。風力発電が立地する場所は珠洲市が30基、輪島市が11基、志賀町が22基、七尾市が10基の合わせて73基で、その後に再稼働したのは志賀町にある日本海発電(本社・富山市)の9基とほか数基ようだ。

     この一年、ブレイドは回らず 凍える風力発電 

  今月27日に半島の尖端の珠洲市を訪れたときに国道249号の大谷トンネル付近から見えた5基はすべて止まったままだった。山には積雪があり、まるで風車が凍えているかのようにも見えた。同市にある30基の風力発電を管轄している「日本風力開発」(東京)の公式サイトによると、発電所や変電所の敷地内外を徒歩によるアクセスやドローンおよび航空写真で確認した。その結果、1基についてはブレイド1枚の損傷を確認した、としている。「6月10日現在の状況」として、ブレイドの損傷原因を現在も引き続き追究中で、それ以外の風車およびほかの設備についても周辺安全に影響する損壊がないことを確認しながら、具体的な復旧方法や工程を関係機関とともに策定中、とある。しかし、再稼働の日程については公式サイトでの記載はなかった。

  風力発電のブレイドは地震の揺れで自動的に止まるため、メンテナンスを施して再び稼働させる。では、なぜ再稼働がなぜ進まないのだろうか。以下は憶測だ。再稼働させるための器材を積んた車で現地にたどり着くことが困難なのだろう。山の道路に亀裂ができたり、がけ崩れなどで寸断されていることは想像できる。さらに、9月の記録的な大雨で山道そのものが崩れたりと、アクセスがさらに難しくなっている可能性がある。実際、今月27日に同市を訪れた際も、これまで行ったことがある風力発電の場所に車で行こうとしたが、山の道路の入り口に「がけ崩れ危険」と立ち入り禁止のカラーコーンが置かれてあった。

  能登半島では今後さらに風力発電の増設が計画されていて、13事業・181基について環境アセスメントの手続きが行われている。風力発電は再生可能エネルギーのシンボルでもある。以前、珠洲市で現地見学をさせてもらったことがある。風速3㍍でブレイドが回りはじめ、風速13㍍/秒で最高出力1500KWが出る。半島の沿岸部、特に北側と西側は年間の平均風速が6㍍/秒を超え、一部には平均8㍍/秒の強風が吹く場所もあり、風力発電には最適の立地条件にある、との説明を受けた。

  能登での風力発電の立地に地震というネックがあることが露呈した。果たしてこのまま181基の立地計画は進むのか。それより何より山の道路が再び整備され、再稼働が可能なのか。

⇒30日(月)午後・金沢の天気    はれ

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★変わる光景、変わらぬ光景~2024能登地震・豪雨 その4~

2024年12月29日 | ⇒ドキュメント回廊

  元日の能登半島地震のある意味でシンボル的な光景とされてきたのが、輪島市で240棟余りの商店や民家が全焼し焦土と化した朝市通り、そして、倒壊した輪島塗製造販売会社「五島屋」の7階建てビルだった。その後、朝市通りやビルはどうなっているのか、今月26日に現地を見に行った。

         徐々に進む復旧・復興への足音 震災と洪水の二重災難を超えて 

  倒壊ビルの現場では、パワーショベルなど重機2台が動いていた。行政による公費解体は11月初旬に作業が始まった。2棟ある五島屋ビルのうち倒壊を免れた3階建てのビルは解体が終わり、市道にはみ出して倒壊した7階建てビルは3階から7階部分の解体撤去が終わっていた=写真・上=。工事看板によると、解体作業は来年1月いっぱいまで続くようだ。

  現場では倒壊によってビルに隣接していた、3階建ての住居兼居酒屋が下敷きとなり、母子2人が犠牲となっている。問題視されているのはビル倒壊の原因が何なのかという点に絞られている。一部報道によると、2007年3月25日の能登半島地震でビルが大きく揺れたことから、五島屋の社長はビルの耐震性を懸念して、地下を埋めて基礎を強化する工事を行っていた。それが倒壊したとなると、社長自身もビル倒壊に納得していないようだ。ビルの築年数は50年ほど。基礎部の一部が地面にめり込んでおり、くいの破損や地盤が原因ではないかとも指摘されている。国土交通省が基礎部を中心に倒壊の原因を調べている。なぜ、震度6強の揺れに耐えきれずに根元から倒れたのか。ビル倒壊の原因が分かってくれば、責任の所在もおのずと明らかになるだろう。

  次に朝市通りに行く。軒を連ねていた通りの240棟が全半焼し、4万9000平方㍍が焼け野原となった。現地を眺めると一面に更地が広がっていた=写真・中=。焼け焦げたビルなどの解体撤去もほぼ終えていた。行政としても、朝市通りは震災復旧のシンボルでもあり、力を注いできたのだろう。素人目線ながら、復興に向けて大変なのはむしろこれからだろうと憶測する。被災地でよく問題になるとされるのが、土地の区画整理だ。誰の家がどこにあったかなどを測量して、近隣と合意を得て区画整理していく。これが4万9000平方㍍となると膨大な作業となり、かなりの年数がかかるのではないだろうか。

  地元メディアの報道によると、震災からの復興計画を進めている輪島市の復興まちづくり計画検討委員会は今月20日、計画案をとりまとめ、輪島市長に提出した。目玉となるプロジェクトに「輪島朝市周辺再生」を掲げ、商店街や住まいの共生を目指して市街地整備を行う。これを受けて行政は市民からも意見を求め、来年2月中に正式決定する。復興計画の期間は10年で、2026年度までを上下水道などのインフラ整備などを進める「復旧期」、2030年度までを朝市周辺の新たな街づくりを進める「再生期」、2034年度までを地域資源を活用した新たな観光や産業を創出する「創造期」と定め、復興プロジェクトに着手していく。

  朝市通りから金沢に帰る途中に、48時間で498㍉という9月の記録的な大雨に見舞われ、床上浸水した仮設住宅の宅田町第2団地に立ち寄った。市内中心部を流れる河原田川の氾濫で、団地の一帯が冠水した。住人にとってはまさに震災と豪雨による二重災害となった。豪雨から3ヵ月を経て、仮設住宅の修繕が終わり、住人が避難所から徐々に戻っていた。車に積んだ布団や毛布を住宅に運び込む姿をよく見かけた=写真・下=。本格的な冬に入る。これからは寒波や雪との戦いになるのだろう。

⇒29日(日)夜・金沢の天気    あめ

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☆変わる光景、変わらぬ光景~2024能登地震・豪雨 その3~

2024年12月28日 | ⇒ドキュメント回廊

  能登半島地震で分断されていた国道249号の復旧工事で、通行止めの最後の区間がきのう27日午後に開通した。さっそく現地に赴いた。塩田村で知られる珠洲市仁江町と観光ホテルなどがある同市真浦町を結ぶ逢坂トンネルは土砂で埋まり通行不能となっていた。ここに国土交通省がトンネルの海側沿いに全長1.7㌔の迂回路を造成した。

  国道249号が全線通行可に
        絶景の迂回路

  道路の幅は1車線分の5㍍ほどで、車の待避スペースも複数設けられている。緊急車両と地元住民のみに通行が制限されているので、迂回路の入り口付近で撮影した。日本海の冬の荒波が岩場に当たって舞い上がり、地震で崩れた山の岩肌がむき出しになった場所を迂回路が通る=写真・上=。素人目線ながら、「絶景」という言葉が浮かんだ。そして、この光景はジオパーク(Geopark)だと。まさに、震災後の光景だ。大地の造形物は何千年、何万年と歴史を刻みながら少しづつ姿を変えきたのだと実感する。

  今月5日には同じく寸断されていた輪島市町野町大川浜の国道249号が開通。また、同市の白米千枚田近くの249号も土砂崩れで埋まったが、地震で隆起した海岸に2車線の迂回路を造成し、対面通行が可能になった。249号の全線開通で地域の復旧・復興の加速を期待したい。

  一方、道路で変わらぬ光景もある。このブログで何度か取り上げたが、金沢と能登を結ぶ自動車専用道路「のと里山海道」横田IC近くの道路盛り土の崩落現場に乗用車が転落している=写真・下=。現場は運転席から見えるので、きのうも確認するとまだあった。年越しの変わらぬ光景なのか。

⇒28日(土)午後・金沢の天気    あめ時々みぞれ

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★変わる光景、変わらぬ光景~2024能登地震・豪雨 その2~

2024年12月26日 | ⇒ドキュメント回廊

  能登の光景がダイミックに変わったのは総選挙(10月27日投開票)ではなかっただろうか。「自民党王国」と称されていた石川3区で立憲民主の近藤和也氏が自民の西田昭二氏を破り、4期目の当選を果たした。開票結果は近藤氏が7万7247票、西田氏は6万1308票と、その差1万5939票の大差だった。西田氏は比例復活で3期目の当選となった。

    「なんで選挙、ダラくさい」有権者の気持ちつかんだ立民候補

  「なんで選挙なんかするんや、ダラくさい」。元日の震度7の地震と9月の記録的な大雨に見舞われた能登の有権者の率直な気持ちはこのひと言に象徴されていた。「ダラくさい」は能登の方言でばかばかしいという意味だ。その気持ちは投票行動でも表れていた。石川3区の投票率は62.5%と、前回2021年より3.5ポイント減少した。中でも、地震と豪雨の二重被害となった輪島市では11.9ポイント減の58.9%、同じく珠洲市では9.5ポイント減って62.0%だった。避難者が現地から離れていて、投票に行けなかったというケースもあったろう。それにしても、この減少率は「ダラくさい」の気持ちがにじみ出ているように思えた。ただ、それでも都市部より投票率は高く、金沢市の石川1区は49.5%だった。

  では、なぜ近藤氏が「自民党王国」で勝利したのか。その選挙活動はじつにユニークだった。選挙期間中は防災服姿で、名前入りのたすき掛けもしていなかった=写真・上=。近藤氏は七尾市での出陣式(10月15日)で「与党も野党も関係なく、助け合わなければならない時期。選挙なんてやっている場合か。それが能登の総意だと思う」と憤りの声を上げていた。選挙実施への反発の意味を込め、選挙期間中は防災服姿で、たすき掛けをしないことを宣言した。

  選挙活動は実にアクティブだった。震災後に整備された6000戸余りにもなる仮設住宅を足しげく回り、被災者の声を実際に国会論戦などで反映させていた。地震と豪雨の二重被災の奥能登(輪島市、珠洲市、穴水町、能登町)へは選挙期間中にそれぞれの自治体を2回ずつ回った。「まだ能登は大変なんだと全国に訴えていきたい」と述べていた。

      西田氏の選挙演説も聴きに出かけた。輪島市町野町の仮設住宅での遊説だった=写真・下=。防災服姿の西田氏は自らも被災して家族は仮設住宅で生活していると話し、「あまりにも被害が大きく、復旧復興には時間がかかる。どれだけ環境が変化しても、能登に住む方にとってここは大切な場所。安心してふるさとで暮らせるよう、住宅の再建や生業(なりわい)の再生に、『出来ることは全てやる』『やらなければならないことは必ずやる』との強い思いをもって全力で取り組む」と述べていた。

  西田氏の選挙カーのウグイス嬢はマイクのボリュームを低めに「よろしくお願いします」と叫んではいたものの、「被災されお亡くなりになられましたご遺族の皆様へ心よりお悔やみを申し上げます」とのフレーズも何度か入れていた。被災地に気配りをした遊説だった。

      結果的に能登の有権者の気持ちをつかんだのは近藤氏だった。自民党派閥のパーティー収入不記載事件を受け、選挙戦では「政治とカネ」の問題に関心が高まったことが追い風だった。そして、「なんで選挙なんかするんや、ダラくさい」と能登の有権者の気持ちを代弁したことが共感を得たのだろう。

⇒26日(木)夜・金沢の天気    くもり

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☆変わる光景、変わらぬ光景~2024能登地震・豪雨 その1~

2024年12月25日 | ⇒ドキュメント回廊

  きのう(24日)奥能登の地震と豪雨の被災地をめぐってきた。前回行ったのは今月5日なので19日ぶりだった。その間でも随分と様子が変わった被災地の光景もあれば、まったく変わらない光景もある。元日の震災からまもなく1年になる。そして9月21日の記録的な大雨から3ヵ月が経った。能登を中心に被災地をめぐり綴ったブログのこの1年をまとめてみる。題して、「変わる光景、変わらぬ光景~2024能登地震・豪雨」。

              支援ボランティアをこたつで迎える被災地の心

  きのう訪れたのは輪島市中心部から東方にあり、半島の尖端に近い同市町野町。日本史に出てくる壇ノ浦の戦い(1185年)で敗れた平家一族の平時忠が能登に流刑となり、時忠の子孫が開墾したと伝えられている平野が広がる。時忠の子孫の時国家(国の重要文化財)は2軒あり、そのうち上時国家は元日の地震で倒壊した。

  時国家だけでなく、町野町の中心部でも地震で多くの住宅が損壊した。そのうちの一つ、鈴屋川沿いに家がある。地震で倒れ、一階部分の駐車スペースに停めてあった車を踏みつぶし、家ごといまにも川に転落しそうになっている=写真・上=。この悲惨な光景を初めて見たのは6月17日だったが、いまも変わっていない。

  町野町は9月の豪雨にも見舞われた。鈴屋川の五里分橋の欄干などに流木がひっかかり、橋がダムのような状態となって周囲の一帯が濁流に飲み込まれた。その中に、被災地の食品スーパーとして元日の地震後も営業を続け、住民を支えてきた「もとやスーパ-」があった。豪雨で店内に土砂や流木が流れ込むなどしたため、一時休業していたが11月に営業を再開。今月5日に行くと「復活オープン」の看板を掲げ営業していた=写真・中=。中に入ると、卵や野菜、総菜や冷凍食品などが並んでいた。そのときに店員から聞いた話が、「売り場を必要最小限にして、店内を支援ボランティアのキャンプ場にする」との内容だった。きのう、そのキャンプ場を見に行った。

  売り場だった場所に緑のカーペットが一面に貼られていた。そして、周囲にはテントが張られ、こたつもあった=写真・下=。キャンプ場の入り口のボードには、「12月26、27日 広島高校ボランティア団体様10名」「12月28、29日 YMCA様10名」と書かれてあった。この場を提供しているスーパーの経営者には直接会えず確認できなかったが、場を無償で提供しているようだ。被災地を支援するボランティア活動は公費解体での運び出しなどさまざまな場面で目にする。能登の冬は寒いのでこたつを用意してボランティアを受け入れる。この光景を見て、被災地の感謝する心に感動した。

⇒25日(水)夜・金沢の天気   はれ後くもり

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★新年元旦に追悼式 能登地震と豪雨で亡くなった514人を弔う

2024年12月24日 | ⇒トピック往来

  けさ金沢でグラリと揺れがあった。午前7時12分すぎだった。気象庁によると、能登半島の西方沖が震源でマグニチュード4.3、志賀原発がある志賀町では最大震度3、金沢は震度1だった。11月26日に震度5弱があった震源地とほぼ同じで、ほぼ毎日のように揺れが起きている。

  元日の能登半島地震、ならびに9月の奥能登豪雨の犠牲者を弔う追悼式が新年1月1日に輪島市の能登空港に隣接する学校法人「日本航空学園」キャンパス体育館=写真=で営まれる。地震による犠牲者は今月19日時点で、直接死が228人、災害関連死(県関係者)が270人となる。豪雨による死者は16人となる。514人の死を弔う。追悼式は石川県が主催し、石破総理ならびに岸田前総理が参列する。式は午後3時35分に開会、地震発生時刻の午後4時10分に出席者が黙祷をささげる。

  輪島市役所に問い合わせると、追悼式の参列は地震ならびに豪雨により亡くなった故人の遺族のみで、それも事前登録制ですでに受け付けは締め切っているということだった。ただ、追悼を希望する市民や町民のために、それぞれの関係自治体が献花台を設置するので、「どなたでも献花をお持ちいただけます」とのことだった。献花台の会場にはテレビモニターを設置する予定で、追悼式の様子をリアルに視聴できるようにするとのこと。献花台の設置時間は午後3時00分から午後5時00分まで。献花台設置の場所は次の10ヵ所。【七尾市】七尾市役所、【輪島市】輪島市役所、門前総合支所、町野支所、【珠洲市】珠洲市民図書館、大谷小中学校、【志賀町】志賀町役場、【穴水町】さわやか交流館プルート、【能登町】能登町役場、【金沢市】石川県庁 行政庁舎1F-101会議室

  追悼式の模様は、「石川県公式YouTubeチャンネル」で生中継され、誰もが映像を通して参加できる。

⇒24日(火)夜・金沢の天気   あめ

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☆北陸は液状化現象の多発地帯 震度5弱以下で電柱傾き、ゆがむ道路

2024年12月23日 | ⇒ドキュメント回廊

  けさの金沢はの冷え込み気温は1度。自宅前の庭や道路には3㌢ほどの積雪となっている。時折、雷鳴がとどろいている。今月6日付のブログでも述べたが、雷が直接落ちなくても、近くで落ちた場合には「雷サージ」と呼ばれる、瞬間的に電線を伝って高電圧の津波現象が起きる。この雷サージが電源ケーブルを伝ってパソコンの機器内に侵入した場合、部品やデータを破壊することになる。何しろ、金沢は全国の都市で年間の雷日数が30年(1991-2020)平均でもっとも多く、45.1日もある(気象庁公式サイト「雷日数」)。雷には注意したい。

  話は変わる。元日の能登半島地震による液状化現象について、けさの朝刊の記事は「震度5弱以下でも液状化多発」の見出しで、能登地震による北陸4県(石川、新潟、富山、福井)での液状化現象は34市町の2114ヵ所で起き、このうち震度5弱以下の箇所で起きた割合が16%におよび、東日本大震災の4%や熊本地震の1%に比べ、4県は液状化しやすい地盤であることが分かったと報じている。日本海沿岸部には液状化が起きやすい砂地が広がっていることが要因とみられる。(※写真は、液状化現状で電柱が大きく傾いた石川県内灘町=1月8日撮影)

  防災科学技術研究所(つくば市)がことし1月から5月に調査を実施。現地で土砂や水が地表にあふれた箇所を確認し、250㍍四方ごとに1ヵ所と数えて集計した。能登地震で起きた液状化の箇所のうち、震度5強の箇所は35%だった。また、半島尖端の震源地から離れた地点では、180㌔南西の福井県坂井市や170㌔東北の新潟市で液状化が確認されている。

  液状化については、金沢市に隣接する内灘町の被災事例をこれまでブログで何度か取り上げてきた。記事では同町の液状化は元日の地震からさらに被害が拡大していると取り上げられている。11月26日に起きた半島西方沖を震源する最大震度5弱の揺れがあり、震度3だった同町では元日に傾いた電柱がさらに傾きがひどくなったことから、被害拡大と分析されている。確かに現地を歩くと、電柱の傾きや道路の凹凸が大きくなっている箇所や新たに電柱が傾斜した場所もあり、被害の範囲が広がったようにも見える。

  そして危惧するのは、このところ能登で発生している地震の震源が元日の半島尖端から南下していることだ。元日の震源は半島尖端の珠洲市だったが、11月26日の地震は半島の西方沖に位置する。地元メディアの報道によると、地震学者のコメントとして、元日の地震で動いた断層とは別の「羽咋沖西断層」が震源の可能性があるとしている。新たな活断層が動きだし、それにともない液状化現象が連鎖するならば、詳細なハザードマップが必要ではないだろうか。

⇒23日(月)午前・金沢の天気    あめ時々ゆき

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★建築家・谷口吉生氏が具現化した禅の研究家・鈴木大拙の言葉「スーッとやるんだ」

2024年12月21日 | ⇒ドキュメント回廊

  館内に入ると「内部回廊」と呼ばれるうす暗く静かな廊下があり、展示室へと伸びている。そして、小さな展示室を抜けると、鈴木大拙館の「水鏡の庭」「外部回廊」「思索空間」のエリアの広がる=写真・上=。水鏡の庭は、コンクリートのプールに水をはったもの。プールには白を基調とした「思索の空間」の建物が映え、風になびく水面に心が打たれる。少しの風でも水面がなびくように設計されているのだろう。

  そして、「思索の空間」の建物には能登でよく見かける白壁の土蔵をイメージする。中をのぞくと、外の風景とまったく別世界の空間が広がる。薄暗い正方形の部屋に木製のベンチが置かれ、畳が敷いてある=写真・下=。どうぞ座禅を試みてくださいと言わんばかりのしつらえなのだ。

  鈴木大拙がよく使った言葉の一つに、「スーッとやるんだ」という短い言葉がある。この場に立つと、その意味がなんとなくわかる気がする。とくに哲学的な意味はないのだろう。風が抜けるようなすがすがしさを感じる心地よい言葉だ。それを谷口吉生氏が建物として具現化したのだろうか、と察した。

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☆来年元日に輪島で二重災害の犠牲者追悼式典 防災力強化へ地域担当を配置

2024年12月20日 | ⇒ドキュメント回廊

  きょうも能登半島の一部が揺れた。気象庁によると、午後0時39分ごろ、能登半島の西方沖を震源とするマグニチュードは3.5の地震があり、海側にある志賀町では震度2が観測された。先月11月26日にはマグニチュード6.6があり、志賀町で震度5弱、金沢は震度3だった。このときは不安が走った。揺れの中心にあたる震央が志賀町にある志賀原発と向き合っている位置にあり、津波は大丈夫か、原発施設への被害はないかと案じたからだ。

  地元紙のきょうの夕刊で、元日の能登半島地震の関連の記事いくつかあった。地震の発生1年となる来年元日に、輪島市で開かれる石川県主催の犠牲者追悼式典に石破総理が出席する、とのこと。式典は午後3時35分開会で、地震発生時刻の午後4時10分に出席者が黙祷をささげる。9月の記録的な大雨による犠牲者も合せて追悼する。地震による犠牲者は今月19日時点で、直接死が228人、災害関連死(県関係者)が270人となる。豪雨による死者は16人となる。514人の死を弔う。

  もう一つの関連記事。政府はきょう、2026年度中を目指す「防災庁」創設を見据え、全閣僚が参加する「防災立国推進閣僚会議」の初会合を総理官邸で開いた=写真、20日付・総理官邸公式サイトより=。47の都道府県を担当する職員として「地域防災力強化担当」を配置し、平時の対策や災害時の情報収集に取り組む方針を確認した。議長の石破総理は「政府一体で本気の事前防災を進める」と強調した。

  内閣府防災部門の定員は現在110人で、災害対応力の強化に向けて、平時は備蓄促進や防災訓練、ボランティア参加などに関して自治体の対応を促す。そして、災害発生時には直ちに現地に駆けつけて災害状況を把握し、避難所の環境の改善など進める。都道府県側にも連携する担当職員の配置を要請する。

  能登半島地震では自治体の対応に関してさまざまな批判が出ていた。住んでいた自治体と避難先の他自治体との相互の情報伝達がなく、被災者に仮設住宅の開設の情報が十分伝わらなかったという事例もある。新設される防災力強化の地域担当には、ぜひ、自治体間のコーディネーター役も期待したい。

⇒20日(金)夜・金沢の天気    くもり  

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★能登の被災現場で両陛下が気遣いされた過酷な復旧現場と関連死のこと

2024年12月19日 | ⇒トピック往来

  きょう金沢は冷え込んだ。最高気温が4度、最低が1度なので真冬並みの寒さだった。午後に出向いた能登は最低が0度だった。冷え込みで懸念するのは仮設住宅や避難所で暮らしている人たちのことだ。被災地では疲労に寒さが加わり低体温症などで体調を崩す人が出ているのではないだろうか。

  前回ブログで天皇・皇后両陛下が元日の能登半島地震、そして9月の記録的な大雨の被災者を見舞われるため、今月17日に輪島市を訪れたと述べた。その様子を新聞メディア各社(18、19日付)が詳細に報じている=写真=。

  両陛下は9月の豪雨について、輪島市と珠洲市、能登町の3人の首長から説明を受けた。被災者がこれまで見たこともないような大粒の雨だったこと、震災と豪雨の二重被災に心が折れそうになっている人も多いこと、そうした中でも生活の立て直しに懸命に取り組んでいる人たちもいるとの内容だった。首長の説明に対し、両陛下は「建物を解体する作業員や屋根瓦の職人、あるいはボランティアの確保は難しくないでしょうか」と案じ、災害関連死が多いことについては「災害関連死された方はどのような状況でお亡くなりになったんでしょうか」と尋ねるなど、個々の状況について心配されていたという。

  両陛下が3月に輪島市を訪問した際は、移動はヘリコプターだったが、今回はマイクロバスによる移動だった。そのことで両陛下は、バスからより近い距離で災害現場を目の当たりにされた。このため、屋根に上り危険を伴う復旧作業に当たる人々を案じられていた。 また、両陛下は被災した人々と話す中、涙を流す人が多かったことから、二重被災を受けて心が深く傷つけられていると感じられたようだ(19日付・メディア各社の報道)。

  両陛下が気遣っておられた災害関連死の新たな情報が入ってきた。地元テレビメディアの報道(19日付)によると、きょう災害関連死を判断する行政の審査会が開かれ、新たに15人を認定すると決めた。関連死の認定は新潟と富山両県の6人を合せ276人となり、直接死228人を合せ犠牲者は504人となる。

⇒19日(木)夜・金沢の天気    あめ

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☆両陛下が3度目の能登見舞いに 輪島で豪雨犠牲者の冥福祈る

2024年12月18日 | ⇒ドキュメント回廊

  天皇・皇后両陛下はきのう(17日)16人が亡くなった9月の能登の記録的な大雨による被災者を見舞うため、輪島市を日帰りで訪問された(18日付・メディア各社の報道)。午前中に特別機で能登空港に到着。マイクロバスで輪島市役所を訪れ、坂口市長から豪雨の被害や被災者の現状について説明を受けた。この後、塚田川が氾濫し、住宅4棟が流され、14歳の少女ら4人が犠牲となった同市久手川町を訪れ、濁流で流され木々や押しつぶされた自動車など被災の傷跡が残る現場で10秒ほど頭を下げ、冥福を祈られた。

  両陛下は豪雨で30世帯51人が避難生活を送る輪島中学校を訪れ、イスに座る被災者と対面し、中腰になって「お体に気を付けて」と声をかけられた。また、両陛下は県警や消防署、自衛隊関係者とも対面し被災者の救助と支援の労をねぎらった。豪雨被害は輪島市と隣接する珠洲市と能登町でもあり、泉谷珠洲市長と大森能登町長がそれぞれの被災状況を説明した。

  両陛下の能登訪問は元日の能登半島地震の見舞いに訪れた3月22日、4月12日に続いて3度目となる。輪島市は地震と豪雨の二重被害が集中した地域。元日の地震では震度7、その復旧・復興の途上の9月21日に輪島市は48時間で498㍉の記録的な豪雨に見舞われた。両陛下は3月に輪島を訪れた際に、店舗や住宅など200棟が焼けて焦土と化した朝市通りで犠牲者の冥福を祈られた。そして今回の豪雨被害による輪島訪問で現地の二重被害の状況を実感されたのではないだろうか。

  石川県危機対策課がまとめた12月17日時点での地震による死者は469人で、そのうち、家屋の下敷きになるなどして亡くなった直接死は228人、災害による負傷の悪化や避難生活での身体的負担による疾病で亡くなった関連死は241人となった。避難者は仮設住宅などに移り、53人となっている。また、豪雨による犠牲者は16人、避難者は400人余り。災害直後からその数は大きく減っていない。輪島では仮設住宅のうち584戸が豪雨で床上浸水などの被害を受け避難所に入っていたが、復旧作業が進み、住民が戻り始めている。

⇒18日(水)午後・金沢の天気   あめ

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★能登の「ニューヨーク」全線通行へ 地域の復旧・復興の加速を期待

2024年12月16日 | ⇒ドキュメント回廊

  能登半島をめぐる幹線道路の国道249号は元日の能登半島地震、そして9月の記録的な大雨により一部区間で不通が続いているが、今月27日午後1時から全線で通行が可能になる。国土交通省能登復興事務所公式サイトの発表(今月13日付)によると、全線で通行が可能になるのは輪島市門前町浦上から半島尖端の部分の珠洲市若山町の53㌔で、一部区間は1車線となり、当面は地元住民や緊急車両に限って利用できる。国の名勝の輪島の白米千枚田の近くを通る249号は1車線から2車線となり、一般車両も通行可能となる。

  能登の地元では国道249号のことを数字をもじって「ニューヨーク」と呼ぶ人もいる。それほど地域に密着し、生活に欠かせない道路なのだ。そして観光ルートでもある。千枚田を縦貫し、名所の窓岩がある曽々木海岸を通り、珠洲市の揚げ浜式塩田へとつながっていた。それが、元日の地震でニューヨークがズタズタに寸断されていた。年末も近くになりようやく全線で通行が可能になるので、地元の人たちにとってはほっと一息つくような話ではないだろうか。

  先日(今月5日)その寸断されていた地域の輪島市町野町大川浜の249号の状況を見に行った。町野町に住む人にとって国道249号は輪島市中心部と往来する幹線で車で30分ほどの時間だった。ところが、地震による土砂崩れで249号が埋まり、山道を遠回りすることになり、所要時間が1時間ほどかかっていた。冬場の山道は雪が多いところを通ることになるので、本格的な降雪期を前になんとか間に合った。(※写真は、今月5日に通行が可能になった輪島市町野町大川浜の249号。1車線で、通行は地元住民や緊急車両に限られる)

  このほかにも、9月の豪雨でトンネルの出入り口が土砂で埋まった249号の迂回路として県道と市道を活用。また、千枚田近くの道路も土砂崩れで埋まったが、地震で隆起した海岸に迂回路を設置することで通行の再開にこぎつけた。249号の全線開通で地域の復旧・復興の加速を期待したい。

⇒16日(月)夜・金沢の天気    あめ

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