自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

☆「こう見る」2冊~下~

2012年09月12日 | ⇒ランダム書評

 『「誤解」の日本史』(井沢元彦著、PHP文庫)は歴史の通説に一石を投じている。「織田信長は宗教弾圧者」とか「田沼意次は汚職政治」とは高校の教科書などでそう習った覚えがあり、また、時代劇の映画やテレビのドラマではそう表現されてきた。ところが、見方によっては全く異なる人物像が浮かび上がる。

          信長の日本人への贈り物、宗教勢力の武装解除

 元亀2年(1571)、織田信長は比叡山延暦寺を焼き討ちし、僧侶などを皆殺しにしたといわれている。後世の人々は、丸腰の坊さんや罪のなき人たちを皆殺しにしたことから織田信長は残酷残忍で、宗教弾圧を行った人と脳裏に焼き付けている。では、当時、坊さんたちは丸腰だったのか。比叡山延暦寺は「天文法華の乱」という、京都の法華寺院を焼き討ちし大量虐殺を行っている。広辞苑ではこう記されている。「天文五年(1536)、比叡山延暦寺の僧徒ら18万人が京都の法華宗徒を襲撃した事件。日蓮宗21寺が焼き払われ、洛中ほとんど焦土と化した。天文法難。」と。平安時代中ごろから「強訴(ごうそ)」と呼ばれた威圧的なデモンストレーション(僧兵が神輿を担いで都に押し掛ける)を通じて朝廷に圧力をあけるいったこともやっていた。その延長線上に天文法華の乱がある。

 信長は、武装勢力であり利権を持つ宗教団体の比叡山延暦寺を攻撃したのであり、宗教である天台宗を弾圧したのではない、と筆者は語る。比叡山延暦寺に次いで、その5年後に石山本願寺攻めを行う。加賀の国の一向一揆(浄土真宗のことを一向宗とも)などは武家勢力を追い出して浄土真宗を拠り所とした「百姓の持ちたる国」をつくる。石山本願寺はこうした北陸の一向宗門徒の勢いにバックに信長勢との対立を深めていく。天正8年(1580)の顕如が本願寺を退去し、本願寺は戦闘行為を休止する。これは信長の宗教勢力の武装解除だった。

 本書ではこんなことも述べられている。「ローマの歴史に詳しい塩野七生さんの言葉を借りれば、これは、信長の日本人に対する巨大な贈り物なのです。つまり政教分離というのは今のヨーロッパでも実現できていないようなところがいっぱいあるし、ましてやイスラム教国ではいまだに政教一致のところすらあります」。信長、秀吉、家康の3代で宗教勢力は完全に非武装化した。坊さんが丸腰になったのはそのような歴史的な経緯からだった。

 きょう12日も、リビアでイスラム教の預言者ムハンマドを冒涜(ぼうとく)する映像作品がアメリカで製作されたとして抗議するデモ隊がアメリカ領事館を襲撃し、大使と領事館員ら4人が死亡したと発表された。イスラム過激派「アルカイダ」しかり、宗教の武装攻撃は容赦ない。殺伐としている。政治と宗教を切り離すこと、すなわち宗教が政治に口だしすることを排除した信長の「日本人に対する巨大な贈り物」にはうなづける。なるほどこうした歴史の見方があったのか。

※武装した僧兵でおなじみの弁慶。千本の太刀を求めて武者と決闘して999本まで集め、千本目で義経と出会う物語は有名=JR紀伊田辺駅前

⇒12日(水)夜・金沢の天気   はれ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする