自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

☆ベトナム「戦地」巡礼-中

2017年11月24日 | ⇒ドキュメント回廊

    先の大戦で父が所属したのは歩兵第八十三連隊第六中隊。この中隊の戦友会が後にまとめた冊子『中隊誌(戦歴とあゆみ)』(1979年作成)によると、日本の敗戦色が濃くなった昭和20年1月、それまでハノイに駐屯していた部隊は「明号作戦」と呼ばれた戦いに入る。フランスと協定したインドシナでの平和進駐から一転、フランス軍の討伐を目指してサイゴンへと鉄道での移動が始まった。

      「革命烈士の墓」に眠る残留日本兵  

    途中、日本軍の南下の動きを察知したアメリカ軍機による空爆があり、ところどころ鉄橋などが破壊された。行軍と鉄路での移動を繰り返しながらサイゴンに到着。3月9日にはフランス軍兵舎に奇襲攻撃をかけた。逃げるフランス軍を追ってカンボジアとの国境の町、ロクニンに転戦する。ところが、8月15日、終戦の詔勅をこの地で聞くことになる。終戦処理の占領軍はイギリスがあたり、父の部隊はサイゴンで捕虜となる。

    このころから部隊を逃亡する兵士が続出した。その多くは、ベトナムの解放をスローガンに掲げる現地のゲリラ組織に加わり、再植民地化をもくろむフランス軍との戦いに加わった。中にはベトナム独立同盟(ベトミン)の解放軍の中核として作戦を指揮する同僚もいた、と『中隊誌』には記されている。

    24日午前、兄弟3人でハノイから100㌔ほど離れたハナム省モックバック村に向かった。ここに「革命烈士の墓」=写真=がある。ベトナム解放の戦死者が眠る。その中に日本人の墓があり、線香を手向けた。日本名は分からないが、ベトナム独立のために命を捧げた日本人であると墓地の管理人の女性が案内してくれた。ベトナムは1954年のディエンビエンフーの戦いでフランスを破り、その後、ベトナム戦争でアメリカを相手に壮絶な戦いを繰り広げた。革命烈士の墓は普段は入口の門の鍵がかかる、まさに聖地なのだ。父がもしベトナムを訪れていたら、かつての同僚だった残留日本兵にどう思いを馳せただろうか。

    ここでベトナムの風習を体験した。墓地の近くには花や線香を売る商店があり、線香を買い求めると、長さ25㌢ほどもある長い線香が30本ほど束になっていた。ベトナムではお参りした墓の周辺の墓にも線香を手向けるの習慣だとドライバー氏が話してくれた。「ベトナムでは墓は亡くなった人が帰る家です。ご近所さんにご挨拶するのが当然でしょう」と。この論法は私にも理解ができ、なるほどと腑に落ちた。ベトナムは社会主義の国だが仏教が主流だ。そして、ベトナムで仏教を信仰する多くの人々は月2回(1日と15日)に精進料理を食べることも習慣となっているのだ、とか。

    午後にはハノイの南東で600年の歴史を刻む陶器の村、バットチャーンを訪ねた。1800度で焼きしめた個性的な形状と色使いに見入る。ベトナム陶器の本場だ。夕方、ハノイ空港からホーチミン市に移動した。

⇒24日(金)夜・ホーチミン市の天気   はれ

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