大学で担当している授業「マスメディアと現代を読み解く」で、今月18日に起きた大阪北部を震源とする地震をテーマに取り上げた。20日の講義は「震災とマスメディア(上)」。講義のつかみの一つに豊臣秀吉が体験した2度の地震を取り上げた。学生に紹介した文献は平凡社新書『秀吉を襲った大震災~地震考古学で戦国史を読む~』(寒川旭著、2010)。
1596年9月に慶長伏見地震があり、このとき秀吉は伏見城(京都市伏見区)にいた。太閤となった秀吉は中国・明からの使節を迎えるため豪華絢爛に伏見城を改装・修築し準備をしていた。その伏見城の天守閣が揺れで落ち、城も崩れた。それほど激しい地震だった。慶長伏見地震にまつわる秀吉の伝説がある。誰かが混乱に紛れて刺殺に来るのではないかと、秀吉は女装束で城内の一郭に隠れていたとか、建立間もない方広寺の大仏殿は無事だったが、本尊の大仏が大破したことに、秀吉は「国家安泰のために建てたのに、自分の身さえ守れぬのならば民衆は救えない」と怒りを大仏にぶつけ、解体してしまったという話まで。災難を通して秀吉という天下人の人格が浮かび上がる。
慶長伏見地震の10年前にも秀吉は地震に遭遇している。中部地方の広い範囲を襲った1586年1月の天正地震。このとき秀吉は琵琶湖に面する坂本城(滋賀県大津市)にいた。当時、琵琶湖のシンボルはナマズで、ナマズが騒いだから地震が起きたと土地の人たちの話を聞き、秀吉は「鯰(ナマズ)は地震」と頭にインプットしてしまった。その後、伏見城を建造する折、家臣たちに「ふしミ(伏見)のふしん(普請)なまつ(鯰)大事にて候まま、いかにもめんとう(面倒)いたし可申候間・・」と書簡をしたためている。現代語訳では「伏見城の築城工事は地震に備えることが大切で、十分な対策を講じる必要があるから・・・」(『秀吉を襲った大震災』より)と。
実際にどのような地震の備えが伏見城に施されたのかは定かではないが、秀吉が自らの体験で得た防災意識を建築に取り込んだことが見て取れる。それでも、前述したように伏見城は慶長伏見地震で天守閣などが倒壊した。この地震も今回の大阪北部地震が起きた「有馬―高槻断層帯」の延長線上にある(19日付・朝日新聞)。
秀吉の「なまつ大事にて候」の一文は時を超えて安政江戸地震(1855年11月)に伝わる。余震に怯える江戸の民衆は、震災情報を求めて瓦版を買い求めたほか、鯰を諫(いさ)める錦絵を求めた。地震(鯰)が治まってほしいと願う、当時の民衆の不安心理を象徴する購買行動でもある。当時の民間伝承の多様な鯰の絵は、後に「鯰絵」という浮世絵アートの一角を築くほど多く描かれた。
大地震、さらに幕末から明治維新へと激動する時代、民衆の情報に対する欲求が格段に強まる。安政江戸地震から16年後、1871年に「横浜毎日新聞」が日本で最初の日刊紙として創刊される。これが日本のマスメディアの発達の黎明期となる。(※写真は、2007年3月の能登半島地震の被災地=輪島市門前町)
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