自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

☆大浦天主堂の石畳

2018年07月01日 | ⇒ニュース走査

    ユネスコの世界文化遺産に「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」(長崎、熊本県)が登録されることになったとテレビ各局がニュースで伝えている。この朗報に接して脳裏に浮かぶのは「大浦天主堂」だ。2006年3月に家族旅行で訪れた。

    案内の男性ガイドが分かりやすく説明してくれたのを覚えている。豊臣秀吉の時代から徳川幕府と続いたキリスト教禁教令で「隠れキリシタン」たちは、表面は仏教徒を装いながら代々伝え聞いた信仰を守り通した。幕末に長崎の外国人居留地にやってきたフランス人宣教師たちが1864年に大浦天主堂を建造。翌年公開が始まると、隠れキリシタンたちが見学者に紛れて天主堂やってきた。まだ禁教令下だった。「サンタ・マリア様の御像はどこですか」と小声でフランス人神父に尋ねた。実に七世代、250年もの隠れキリシタンの存在を知って驚いた神父はフランス、ローマに報告した。宗教史上、類まれなこの出来事が世界に広がった。

    実は「長崎」にはちょっとした個人的にも思い入れがある。宴席でカラオケの順番が巡ってきて、「何か歌って」とせかされて歌うのが、内山田ひろしとクールファイブの『長崎は今日も雨だった』だ。「行けどせつない石畳~」と歌い、自分をカラオケモードに切り替える。

     この歌の場所は、オランダ坂を上がり、大浦天主堂、グラバー邸入り口にかけての石畳なのだ=写真=。現地で初めて理解ができたことなのだが、長崎は「坂の街」である。石畳を敷き詰めないと雨で路肩が崩れてしまう。しかも傾斜が急なところも多い。これは想像だが、天主堂の建設と併せて石畳の舗装も進められたとすれば、隠れキリシタンたちも石畳を歩いたに違いない。どのような思いで石畳の向こうの天主堂を眺めたのだろうか。写真はそのようなことを思いめぐらし撮影した一枚だった。

   天主堂前の石畳の坂道を少し上ると「グラバー邸」に着く。長崎湾を見下ろす高台だ。イギリス人貿易商トーマス・グラバー。長崎が開港した安政6年(1859)に日本にやって来た。若干21歳。2年後にグラバー商会を設立し、同時に東アジア最大の貿易商社だったジャーディン・マセソン商会の代理店になった。大資本をバックに武器の取り扱いを始める。

    グラバーに接近したのは坂本龍馬だった。龍馬は、幕府から睨まれている長州藩が武器の購入を表立ってできないのを知り、自ら設立した亀山社中を通して薩摩藩名義で武器を購入、それを長州藩に横流しするという「ビジネスモデル」を思いつく。グラバー商会から購入した最新銃4300丁と旧式銃3000丁が後に第二次長州征伐である四境戦争などで威力を発揮し、長州藩を勝利へと導く。それがきっかけで薩長を中心とした勢力が明治維新を打ち立てる原動力となっていく。龍馬ファンの間では知られたストーリーではある。

    グラバー邸と天主堂は直線距離にして70㍍ほど。龍馬は石畳で立ち止まり、2つの建築物を眺めて西洋という世界を実感し、新たな時代へのイメージを膨らませたに違いない。天主堂の神父と隠れキリシタンたちの劇的な出会いから2年後の1867年12月に龍馬は京都で暗殺される。「行けどせつない石畳~」。歌うたびに天主堂前の石畳がまぶたに浮かぶ。

⇒1日(日)朝・金沢の天気     はれ

 

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