自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

☆「麻原」か「松本」か、躍る見出し

2018年07月07日 | ⇒ニュース走査

    「オホーツク海高気圧」と「太平洋高気圧」ががっぷり四つ状態になって梅雨前線が激しを増し、そして長時間居座っている。あの「ゆずぽん酢」で知られる高知県馬路村では3日間で1200㍉を超える降水量を記録したというから驚きだ。そんな中、法務省が6日午前に、坂本堤弁護士一家殺害事件(1989年11月)、長野県松本市でのサリン事件(1994年6月)、東京の地下鉄サリン事件(1995年3月)など一連のオウム真理教による犯行の首謀者、松本智津夫死刑囚らの刑を執行したとのニュースをテレビの速報テロップで知った。

    当時金沢のテレビ朝日系「北陸朝日放送」の報道デスクとして「オウム真理教」事件とはさまざまな場面でかかわった。当時、テレビ映像の露出は頻繁だった。あの電極が付いた「ヘッドギア」は「カルト教団」を強く印象づけた。オウム真理教への取材で最初のかかわりは1992年10月だった。石川県能美市(当時・寺井町)の油圧シリンダーメーカー「オカムラ鉄工」の社長に麻原彰晃が就いて記者会見をした。社長が信者で資金繰りの悪化を機に社長を交代した、という内容だった。ほとんどの従業員は教団の経営に反発して退職し、代わりに信者が送り込まれていたので「教団に乗っ取られた」と周囲の評判は良くなかった。まもなく会社は事実上倒産。会社の金属加工機械などは山梨県の教団施設「サテイアン」に運ばれていた。その後の裁判で、金属加工機械でロシア製カラシニコフAK47自動小銃を模倣した銃を密造する計画だったことが明らかになった。

    1995年3月20日の地下鉄サリン事件の実行犯だった医師の林郁夫らがレンタカーで逃げた先が能登半島・穴水町の海辺の貸し別荘だった。4月7日、一緒に身を隠した信者の一人が別荘の近くで警官の職務質問を受け逮捕された。テレビのニュースで知った林郁夫は盗んだ自転車で貸し別荘を出て、金沢方面に向かう途中で警官の職務質問を受けて逮捕された。一緒に逃げた公証人役場事務長拉致監禁死事件(1995年2月)の実行犯・松本剛は翌月5月に大阪・堺市で逮捕された。

    では林郁夫らはなぜ能登半島に逃げたのか、さまざまな憶測が当時飛び交った。オウム真理教は1992年9月にモスクワに支部を開設し、ソビエト連邦の崩壊(1991年12月)で混乱する現地で信者を獲得していた。当時、極東ウラジオストクと富山湾を北洋材(シベリア木材)を積んだロシア船が行き来しており、ロシアに密入国するチャンスをうかがっていたのではないか、と。当時のモスクワ支部長は上祐史浩が兼務していたこともあり、「彼だったら、そのくらいのことは考えるだろう」という推測に過ぎなかったのだが、「ロシア逃亡説」はまことしやかに流れていた。その後の林郁夫の全面自供により地下鉄サリン事件の全容が明らかになり、検察は死刑ではなく無期懲役を求刑した。

    死刑執行の当日の夕刊を購入した。ある新聞の一面は「麻原死刑囚 刑執行」、別の新聞は「松本死刑囚 刑執行」の白抜きベタの大見出しが躍っている。この紙面を若い学生たちがコンビニで見て不思議に思っただろう。「どちらが本当なのか」と。本名は松本智津夫、教祖名は麻原彰晃。シアニの世代には麻原の方が通りはよい。ただ、刑の執行名では松本だ。翌日7日の全国・ローカルの朝刊7紙を比較すると、「松本」5、「麻原」2だった。別に購入したスポーツ系の2紙とも「麻原」だった。読者への衝撃度を考慮すると「麻原」なのだろうか。

    ちなみにイギリスのBBCテレビのWeb版では、「Seven members of the Aum Shinrikyo doomsday cult which carried out a deadly chemical attack on the Tokyo underground in 1995 have been executed, including cult leader Shoko Asahara.」と伝え、「麻原」だった。

    「平成」の時代に象徴的な事件だった。平成も来年2019年4月末をもって終わる。平成のうちに事件を終幕としたかったのだろう。刑の執行命令書に署名した上川陽子法務大臣が臨んだ記者会見(6日)。慎重な言葉選びに、かすかにそのような想いを感じた。

⇒7日(土)夜・金沢の天気   くもり

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