自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

☆17才、人生の転機となったヤジ

2020年10月13日 | ⇒ニュース走査

   中学時代に友人たちとエレキギターのバンドを組んで、サイドギターを担当した。当時流行していた、ザ・ベンチャーズの演奏曲を文化祭で披露したりした。当時ヒットしたヴィレッジ・シンガーズの『バラ色の雲』やいしだあゆみの『ブルー・ライト・ヨコハマ』は今でもカラオケで歌っている。高校時代で心に残るのは南沙織の『17才』だろうか。これは歌うというより、南沙織への憧れだったのかもしれない。先日亡くなった作曲家の筒美京平氏がつくったこれらの曲が私たちの世代の思春期を盛り上げてくれたのかもしれない。

   今にして思えば、17才が自身にとっての転機だった。能登で生まれ、高校時代は金沢で過ごした。クラブはESSに所属していて、2年のときに石川県英語弁論大会に出場する幸運に恵まれた。スピーチのテーマは「学生運動について」だった。大阪万博(1970年)が華やかに開催され、翌年には南沙織の「17才」がヒット曲となっていた。世の中がカラフルに彩られた時代の始まりではなかったろうか。その一方で、赤軍派による「よど号」のハイジャック事件(1970年)があり、連合赤軍による浅間山荘事件もその後に起きた。金沢大学でも学生運動が盛んで、新聞紙面をにぎわせていた。そんな闘争の時代の残影に私は違和感や憤りを感じていた。

    英語弁論大会でのスピーチはその気持ちをストレートに表現したものだった。大会は大学の部と高校の部があり、金大生も多く客席にいた。私のスピーチが余りにもストレートな表現だったのか、会場の数人から「ナンセンス」と大声のヤジが飛び、一時騒然となった。コンテストでは優勝した。高校の部は自身を含め4人の出場だった。審査委員の講評はよく覚えている。「これだけ会場をにぎわせた高校生のスピーチはこれまでなかった」と。自身それほど英語の発音が上手ではないと分かっていた。詰まるところ、大学生からヤジを浴びせられた分、ほかの3人より目立ったことがどうやら優勝の理由だった。

    東京の大学に入ったが、英語弁論大会での優勝経験が忘れられず、部活は日本語の弁論部に入った。そこで、論理と調査と統計に裏打ちされた弁論の手法をたたき込まれた。弁論部出身の新聞記者からアドバイスもあって、マスメディアを志望してUターンし、地元の新聞社に入社した。その後、テレビ局へ転職し、メディア業界を28年間渡り歩いた。17才のときの英語弁論大会が人生の転機となったのだろうと思う。

    以下は後日談だ。新聞社に入りたてのころ、先輩記者に居酒屋に誘われた。先輩はかつて学生運動でならした人だと別の先輩から聞いていた。居酒屋で先輩は「君は○○高校の出身か。そう言えば、5年か6年前に英語の弁論大会を取材したときに、学生運動を批判した生意気そうなヤツがいたぞ」と言う。私はピンときて「それは私です」と告白した。先輩のびっくりした表情を今でも覚えている。ヤジを飛ばした一人がどうやら先輩だということも分かった。先輩はその後退社した。あの大声の「ナンセンス」のヤジが優勝に導いてくれたのだと思っているので、私は今でも感謝している。

⇒13日(火)午前・金沢の天気   はれ

コメント (1)
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