自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

★エレキと運命をともにした「寺内タケシ」の人生

2021年06月19日 | ⇒ドキュメント回廊

   昭和40年代のエレキギターブームで人気を集め、「エレキの神様」の愛称で親しまれたギタリストの寺内タケシ氏が、18日夜、横浜市内の病院で肺炎のため亡くなった。82歳だった(6月19日付・NHKニュースWeb版)。自分自身にとってはエレキギターは青春の思い出の一つだけに、いまでも、「寺内」「テラウチ」と見たり聞いただけで、つい「タケシ」と連想してしまう。

   エレキギターの音色が最初に耳に入ってくるようになったは、アメリカのバンド「ザ・ベンチャーズ」の来日(1965年1月)だった。自身はまだ小学生のころだ。ヒット曲「パイプライン」や「急がば廻れ(Walk, Don't Run)」に刺激を受けたものだ。続いて、イギリスのバンド「ザ・ビートルズ 」の来日(1966年6月)に心がかき立てられた。

   音楽に興味がわいて、中学生になりブラスバンド部に入った。トロンボーンを始めた。ブラスバンド部で同じくエレキギターを趣味でやっていた仲間と知り合い、2年生のときにエレキギターとドラムによる独自のバンドを結成した。バンド名を「Bombs」とした。激しい音を出すので、「爆弾のようなバンドだ」と周囲からなじられ、bomb(爆弾)をバンド名にした。ビートルズのように歌えるボーカルがいなかったので、ベンチャーズのインストゥルメンタル・サウンドが中心だった。

   バンド「寺内タケシとブルージーンズ」にのめり込んだのは、いわゆる「テケテケ」と特徴のあるギターテクニックだった。とくに、ベートーベンの交響曲第5番をエレキギターで演奏する「レッツ・ゴー 運命」は当時エレキギターを志す誰しもが目指した曲でありテクニックだった。自身はサイドギターを担当し、ベンチャーズとブルージーンズの演奏曲を秋の文化祭で披露することにして練習を重ねた。公演も無事成功し、当時は「エレキの若大将」気取りだったかもしれない。

   ただ、そのころ教育界ではエレキギターは「不良の温床」と見なされていたようだ。中学3年とき学校の担任から「高校受験もあるのでことしは止めた方がよい」と指導された。その後、全国の多くの学校でいわゆる「エレキ禁止令」が広まった。寺内氏は、偏見を解いてもらおうと1974年から全国の高校を回る「ハイスクールコンサート」を始めた。ライフワークとして2016年まで続け、訪れた学校は1500ヵ所にもおよんだ。エレキギターと運命をともにした人生だった。

⇒19日(土)夜・金沢の天気      くもり

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