自在コラム

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☆「百万石まつり」に読む「井の中の蛙」

2018年06月04日 | ⇒ランダム書評

   ことしの「金沢百万石まつり」は何かと話題になった。1日夜に行われた浅野川での「加賀友禅燈ろう流し」で、1200個の灯籠のうち川面に灯篭が溜まり、灯籠のろうそくの火が次々と半数に燃え移った。灯籠は伝統工芸の加賀友禅の作家や大学生たちが一つ一つ和紙に絵付けしたもの。たまたま目撃した知人の話だと「火の海という感じで、イベントのクライマックスかと思った」と。祭りの前夜祭が妙な盛り上がり方をしたものだ。

   2日の百万石行列は地元のテレビ局の中継番組を視聴した。藩祖・前田利家役が俳優の高橋克典、お松の方役が女優の羽田美智子の両氏。JR金沢駅前で高橋利家が「皆のもの、いざ出立じゃ」と第一声を発して行列が始まった。主催者発表で42万人の人出となったようだ。武者行列に甲冑を付けて参加した地元女性から聞いた話。「女子もボランティアとして参加でき面白い。見るだけじゃつまらないから」「金沢商工会議所で甲冑を身に付けて、それからJR金沢駅に移動。甲冑姿でバスに乗ると妙な感じで、インスタ映えするのか、周囲から写真をよく撮られた」と楽しそうだった。

   3日は百万石茶会に参加した。兼六園の時雨亭では吉倉虚白宗匠(表千家)の茶席に。茶室から深緑の庭園を眺めると抹茶がさらに美味しく感じられた。もう一席。金沢21世紀美術館横の茶室「松涛庵」では立礼席で一服。待合で小学生らしき子どもたちがいた。皆それぞれに懐紙を持参しているので、横に座った男の子に尋ねると、「福井から13人で来ました。みんなでお茶を習っています。百万石茶会を楽しみに来ました」と。ちょっと緊張した面持ちながら無駄のない、あっぱれなものの言い方だった。

   午後から石川県立歴史博物館に赴いた。「明治維新と石川県誕生」という特別展を見に行ったのだが、すでに先週5月27日で終了していた。そこで、図録=写真=を購入し読んだ。興味深かったのは、1871(明治4)年7月の廃藩置県で薩摩出身の内田政風が初代の石川県令(知事)として金沢に赴任したときの手紙だ。図録によると、内田はもともと薩摩藩主・島津久光の側近だった。島津は西郷や大久保ら政府の開化政策を公然と批判していたため、島津の力を削ぐためにあえて側近の内田が地方官として出されたようだ。薩摩から石川県のトップは金沢で何を見て、何を感じたのか。

   図録には、内田が同年10月5日に大久保利通と西郷隆盛らに宛てた書簡の内容が掲載されている。実際の書簡は長さ3㍍に及ぶ長文。城下町で消費都市であった金沢の経済を回すために米切手の発行を認めてほしいと要求している。藩政時代は各藩が年貢の米を見込んで米商人に米切手を発行して財政赤字を補っていた。明治政府は正規通貨の流通の妨げになるとして、明治4年4月に米切手の流通禁止を命じている。禁止されことをあえて復活させてほしいと嘆願するほど県の財政は困窮していたのだろう。

   さらに面白いのは当時の金沢での士族たちの在り様を評している。士族たちは「過禄」、つまり十分過ぎるほど米を与えられており、百万石の大藩ゆえに「井の中の蛙(かわず)」だと書いている。明治維新の世の動きを理解していないと嘆いているのだ。内田は1875(明治8)年3月に県令を辞任し、再び島津家に仕えた。その2年後、1877(明治10)年に西郷隆盛を中心に士族の反乱「西南の役」が起きる。さらに翌年、事件が起きる。政府の処遇に反発する、いわゆる「不平士族」の島田一郎らが1878(明治11)年5月に大久保利通を東京・紀尾井坂で暗殺する。実行犯6人のうち島田ら5人は元加賀藩士だった。

   内田は明治26年、77歳で亡くなるのだが、この金沢の不平士族らによる大久保の訃報に接して何を想っただろうか。やはり「井の中の蛙 大海を知らず」と嘆いたのだろうか。金沢百万石まつりの3日間は珍しく晴れの良い天気で、レンガ造りの歴史博物館は青空に映えた。「井の中の蛙…」の続きの句を思い出した。「されど空の深さを知る」。とりとめのない文章になった。

⇒4日(月)朝・金沢の天気     はれ 


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